第三十八話 真実

「ここはお嬢様のような方が入られる場所ではないと、彼らも申しておりましたでしょう」

 撫でつけるような声音に背筋が粟立つ。メアリが一歩進む度にリリーは後ずさった。その背面や左右から、目を覚ました鴉たちのごそごそと動く物音が聞こえ出している。

「お、お母さまは、どこ」

 震える声を叱咤しながらリリーは訊ねた。

「前に言ってくれたじゃない、わたしの望むとおりにするって……それは、お母さまやお父さまや、妹たちを……殺さずに、お屋敷に返してくれるってことでしょう」

「私はここよ」

 すぐ後ろで声がした。慌てて飛びすさると背後にリリーを見つめて微笑む母が立っている。衣服は身につけていない。玉のように滑らかな素肌に、リリーの手にした燭台の火の色がゆらゆら揺れ映っている。

「ちがうわ、あなたは……鴉でしょう」

「でも、ここではあなたの母よ」

 母の金色の眼が妖しく光る。明るい空の色をしていたはずなのに、今は鴉の眼だ。メアリと同様に作り物めいた笑みを浮かべて、両腕を広げている。

「そんなに私と一緒に眠りたかったのね。断ったりしてごめんなさい。あなたを驚かせたくなかったのよ。いいわ、これからは毎晩二人で眠りましょう。母の寝室へいらっしゃい」

 リリーは青ざめた顔で数歩後ずさり、蜘蛛の身体にしがみついた。

「うそ……全部嘘じゃない。お母さまやお父さまや、家族みんなと一緒に暮らせるようにしてくれるって、そう言っていたのに!」

「嘘ではありませんよ」

 メアリが微笑む。

「お嬢様の望まれる通りの形でお屋敷をお返しする。それはすなわち、お嬢様が家族に愛されて生活ができる屋敷ということ。我々はそのための環境を整えたのですよ。あなたを愛さない家族を殺し、あなたを愛する家族に取って代わらせたのです」

「そんなこと――望んでなんかいないわ、わたしは、あなたたちが、お母さまを心変わりさせてくれたのだとばかり――」

「ではお嬢様は、あの両親があなたを愛するようになると、本気でお考えだったのですか?」

 慈愛のこぼれそうな笑みを貼り付けて、メアリは言い放った。

「それは天地が転んでもあり得ませんわ。彼らは魔女という生き物を恐れ、忌み嫌っていたのですよ。彼らにとってお嬢様は忌まわしい存在でしかありません。それは我々がいくら説得したところで変わりはしないでしょう」

 雷に打たれたようだった。

 見開いた瞳が震える。指先がちりちりと痺れていた。時間が恐ろしくゆっくり流れ、今し方耳にした言葉がわんわんと反響する。


『それは天地が転んでもあり得ませんわ』

『お嬢様は忌まわしい存在でしかありません』


 気の遠ざかりそうなリリーの身体を、裸の母が抱き包む。

「かわいそうに、ショックを受けてしまったのね。だいじょうぶよ、これからは私が愛してあげるから」

「そうですとも。我々に守られ愛されながら生きていらっしゃればいいではありませんか。そして、ゆくゆくは魔女として森中の獣を従え、人間をもひれ伏せさせるのですわ」

 棚の巣にいる鴉たちが一斉に鳴き出した。そうだそうだと、同意の雨が降り注ぐ。メアリは彼らを手で制し、その金の眼差しを蜘蛛に向けた。

「さて、お嬢様がおいたわしく心を痛めておられるのは、皆あなたのせいですよ」

 床板を軋ませながらメアリが一歩進み出る。蜘蛛は胸の奥でずきりと痛みを覚えた。顔色を失ったリリーの姿を単眼の端が捉える。

 ――あの時、自分が意地でも止めていれば、彼女がこんな風に傷つくことはなかったのだろうか。

「あなたがついていながら、なんて嘆かわしい。お嬢様が少なくとも疑惑をお持ちになったとき、なぜそれ以上の行動を許したのですか」

 その時、蜘蛛の体内に張り巡らされた魔力の糸が、びんとかき乱された。それは大きな叫び声だった。

 ――ちがう! 

 初め、リリーが正気を取り戻したのかと思った。しかし、彼女の顔には相変わらず生気がなく、目は虚ろに陰っている。蜘蛛に届いたのは彼女の心の声だった。

 その叫びを皮切りに、彼女の膨大な心の渦が蜘蛛の中に一気に押し寄せた。

 ――今度こそ愛されると思った、愛されていいんだと思った。お母さまの手がとても温かくて嬉しくて、生きていていいんだと思った。

 ――一度はわたしを捨てた家族に、わたしの存在を認めてほしかった。ごめんなさい、愛してる、その言葉がききたかった。

 ――それが、全て偽物だった。

 ――もう、何を信じていいのかわからない。

 彼女の心は濁流となって、次々と蜘蛛の胸の内をかき乱す。かつて『塔』にいた頃感じ取ったような静かな絶望ではない、滅茶苦茶で激しい慨嘆である。

 ――助けて。

 ――いっそ、わたしを殺して。

 ――助けて。

「お嬢様、これからもどうか、我々と共にお屋敷で暮らしましょうね。これも神の計画、神の望みなのですから。我々は神の言いつけの通り、一生あなたを大切にして、お守りいたします」

 熱っぽい声でメアリが囁く。母の姿をした鴉の腕が、リリーの身体をゆっくりと抱き上げようとした。

 その刹那である。

 金色の糸が瞬時に伸びてリリーの身体を絡めとった。白い身体が宙を舞う。黒い毛に覆われた脚がそれを器用に受け止めた。

 メアリがはっと振り返る。蜘蛛はリリーの身体を抱き、六つ並んだ眼で睨みつけていた。

「ご冗談でしょう」

 おかしそうにメアリが笑う。

「神のご意思に逆らうのですか」

 自分でもこの行動が正しいことなのかわからなかった。ただ、彼ら鴉たちがリリーを愛していないということだけは、はっきりと悟っていた。

 するとそれまで黙っていた鴉たちが一斉に嘴を開いた。ガアガアと耳をつんざくような声で鳴きわめく。メアリの身体を薄らと金の光が包み込み、頬に、腕に、金の羽毛がぶつぶつと生えていく。

「お嬢様のお気に入りだからと、放っていましたが。出過ぎた真似をするならただちに葬りますよ」

 後ろにいた母の姿は跡形もなく、金の鴉が羽ばたいている。彼らは鋭い眼で蜘蛛を睨み、一斉に飛びかからんと身構えた。

「待ちなさい。全員がかかればお嬢様のお身体まで傷をつけてしまいます。神と違って彼女の肉体は蘇生できませんからね」

 そう宥めて、メアリは鴉に姿を変えた。

 ――神のご計画のため、お嬢様を返していただく。

 鴉の嘴が真っ赤に燃える。ばさりと羽ばたいて、勢いよく空中へ飛んだ。

 翼を真っ直ぐに揃えてびゅうと飛ぶ。それは金の閃光となり、目にもとまらぬ速さで蜘蛛の懐に飛び込んだ。

 間一髪でそれを避ける。蜘蛛はリリーの身体を抱いたまま床を転がった。そのまま突っ込んでくる鴉に向かって糸を吐きつける。

 闇に紛れた黒い糸は鴉の脚に絡みつき、しゅうしゅうと煙を上げた。糸は脚を焼き焦がしながらそのまま床へたたきつけた。

 ぐわ、と声をあげ、鴉がもだえる。その衝撃でリリーの目が見開かれた。正気に戻ったのである。そして、金の羽根を舞散らかした鴉と、自分を横抱きにする蜘蛛の姿を前に、はっきりと状況を悟った。

 自分を取り戻そうと彼らが傷つけあっている。

 鴉の長が倒れたことで、棚の巣にいた鴉たちが一斉に羽ばたいた。彼らの怒りが金の羽毛となって狂ったように舞い落ちる。

 これだけの数が一斉にかかってきたら、蜘蛛も自分もひとたまりもない。いや、自分のことなどどうでもいいが、蜘蛛だけは傷ついてほしくなかった。

「待って!」

 気がつけば金切り声をあげていた。糸の絡まった身体を引きずり、拳を振り上げ、手近な棚の戸に嵌められたガラスを思い切りたたき割った。

 壮絶な音と共にガラスが砕け散る。リリーは素早く破片を拾い上げ、自分の喉元につきつけた。

「蜘蛛を傷つけたら――わたし、死ぬ!」

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