第六話 嵐の中で

 森に囲まれた空に薄らと光が差す。丘の上の屋敷では、使用人たちが起きだして朝の支度を始める頃であった。

 領主は早朝からある違和感を覚えて目が覚めた。隣で寝ているはずの妻がいない。

 彼女は酷い低血圧のために起床が遅い。それが今日に限って違うということがあるだろうか。何か胸騒ぎがする。

 使用人を呼びつけ、妻を探すよう命じた。そして間もなく、血相を変えた使用人が部屋へ戻ってきた。

 ガウンを羽織り、地下へ降りる。屋敷の地下には書庫が広がっている。この地にまつわる歴史について書かれた書物や勉学に必要な書物、有名な著書などが数多く並んでおり、領主が代々受け継ぐ財産の中で最も価値があると言われている。

 その書庫の奥に、妻がいた。髪は乱れたまま、薄衣のネグリジェ姿で一心不乱に書物をめくっている。よく見ると靴下一枚履いていない。蝋燭を持つ手が震えているのか、暗闇の中で小さな灯火がゆらゆら揺れている。

「おまえ」

 領主が後ろから声をかける。

「何をしている」

 聞こえていないのか、反応が無い。ぶつぶつと呟きながら書物に目を釘付けにしている。

「おい」

 少し声を荒げると、妻の肩がびくりと震えた。ようやく反応が見られたので、領主はそのままつかつかと近づいた。

「何をしている。こんな時間から一体どうしたんだ」

「私……私……」

 身体を小刻みに震わせながら、ゆっくりと振り返る。いつからここに居たのか、目の下には暗い影が落ちている。

「思い、だしたの……」

「何をだ」

「あの、恐ろしい子のこと……」

 妻の言葉に領主は言葉を詰まらせる。二人の間に初めてできた、一人の赤子の姿が脳裏に浮かぶ。

「……あれが、どうしたというんだ。あれは、もう封印してある」

「でも、あそこには、魔女の死体があるはずだわ。空腹に耐えかねて、もしその死体を食べたりしたら……」

「馬鹿な。魔女が封印され、その死が確認されたのは二百年も前のことだ。いい加減風化して、影も形もないだろう」

「そう、かしら」

 妻は酷く怯えた様子だった。

「魔女は、恐ろしい存在なんでしょう。私、聞いたことがあるの。その力を別の者に与えることで、乗っ取ることもできるとか……」

「仮にできたとしても、その別の者が『塔』から出られるはずもない。あの壁は強固な鉱石でできている。魔力をいくら得ようが無駄なこと。それくらい、少し考えればわかることだろう」

領主の言葉に妻はうつむいた。その表情から不安げな色はまだ消えていない。

「……夢を見たのよ」

「夢?」

「不自然なほど白い身体をした少女が、『塔』を壊して出てくるの。足下にはおぞましい虫や獣を従えて……屋敷に入ってくるのよ!」

 妻の言葉の最後は悲鳴に近い叫びだった。

「封印したわ。わかってる……でも、怖いのよ! 仮にあの子の身体が魔女のものでないにしても、何かの拍子に魔力を得たりしたらどうなるか……」

「それで、いろいろ読みあさっていたのか」

 妻の足下に散らばる書籍を拾い上げながら領主は呟いた。

「安心しろ。そんなことは決して起こりえない。食事を与えることも止めている。餓死するのも時間の問題だろう」

「食事を、与えていない……?」

 妻は寝不足で血走った目を見開く。

「ひとつも? 一切?」

「一切だ」

「それはだめよ!」

 必死の形相で夫につかみかかる。

「本にも書いてあったでしょう。魔女を殺せば厄災が降りかかる、殺した本人や家族に呪いがかけられると!」

 しかし夫は動じない。

「落ち着きなさい。食事を与えなかったからといって、直接手にかけたことにはならないだろう。現に、初代領主も封印した魔女を餓死させている。少しずつ干からびさせて死を待つのだ。これが一番手っ取り早いさ」

「……」

 妻は目を伏せた。

「それで、いいのかしら」

「それしかないだろう」

「……」

「さあ、上で朝食にしよう。それとも、少し眠るか?」

 領主は妻の手を取り立ち上がらせた。残りの書物を片付け、蝋燭も取り上げる。

「……朝食をいただくわ」

 妻は諦めたように夫について行った。


***


 ――塔は神を封印するために建てられたものである。

 最長老が黒蜘蛛に語った物語は、とても神秘的で、恐ろしいものだった。

 遠い昔、神は悪しき人間の手によって塔に封じ込められた。塔の壁は神の力を抑える効果を有している。しかし、神は森の獣や虫たちを呼び寄せ、自身の力を少しずつ分け与え始めた。こうして、金蜘蛛たちが誕生した。

 神の力を与えられた生き物は寿命を延ばし、持てる力を大幅に増幅された。森の生態系は大きく歪み、金蜘蛛たちがその頂点に躍り出た。

 ――神はその後どうなったのか?

 この疑問に関しては、最長老は口を噤むのみであった。知識の源と言われている彼でさえ、無知の領域が存在するらしい。

 最後に、最長老は言った。

 ――神の姿は、神秘的で美しい、白亜に染められていたという。




 餌をがつがつと食らう少女を横目に、黒蜘蛛は考えていた。

 塔に捕らわれ、飢え死にしかけていた哀れな少女。初めはただの人間の雌だと思っていた。

 しかし、闇の中でもぼんやりと浮かび上がるほどの真白な姿は、最長老の知る神の姿そのものではないか。

 この塔からそう遠くない場所に、人間の住処が建っていることは聞いている。かつて塔への往き道が閉鎖されていたように、鉱石によって姿を隠されているが。少女はそこの人間の手によって閉じ込められてしまったのだろうか。だとすれば、なぜ? ――神だから?

 そもそも神とは誰の視点でそう呼ばれているのだろうか。崇められるべき神を飢え死にさせようとするだろうか。人間とは、それほどまでに愚かで恐れを知らない生き物なのだろうか。

 或いは、人間にとって神ではないとしたら。

 その結論が、一番納得のいくものに思えた。

 我々金蜘蛛にとって神と崇められる存在でも、人間にとっては邪悪な魔物なのかもしれない。しかし、こんなにも無力で弱々しい少女が、果たして人間の敵になり得るのだろうか?

 結局、黒蜘蛛の中で答えは出なかった。

 餌をすべて腹に収めた少女は、揺り椅子にもたれかかりながら身体を揺らしていた。きぃ、きぃと椅子が軋む。瞳孔の判別できない白い瞳が、何か言いたげにこちらを見つめている。

 黒蜘蛛も単眼をじっと少女に向けていた。

 薄暗い塔内にごうごうとくぐもった不気味な音が響き渡る。地上で吹く風が木々を揺らし、ざわめかせているのだ。少女の瞳が不安げに空を見上げた。肩を抱く両手に力がこめられている。細く小さな身体がぶるぶると震えていた。

 黒蜘蛛は肥大化させた毛むくじゃらの脚をそっと彼女に近づけた。何も考えていない、反射的な行動だった。気がつけば彼は少女の身体を抱き寄せ、部屋の隅に糸を吐き出していた。自身の巣穴に作りつけているものと同じ形状の糸のベッドが、みるみる形を成していく。その様を少女はぽかんと見つめていた。

 少女の身体は冷たく、ぼろぼろと破れた薄衣越しでも氷のように感じられた。黒蜘蛛は糸のベッドの上で、毛むくじゃらの身体で包み込むように少女を抱いていた。彼女の身体の小さな震えは徐々に治まり、やがてゆったりとした呼吸のみが感じられるようになった。

 外は変わらずごうごうと荒れ、冷たい風が吹き込み続ける。それでも、少女は安らかな表情で肩を上下に揺らしていた。

 朝陽が昇り、地上に安寧が訪れるまで――彼は少女の身体を離さなかった。

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