第五話 揺り椅子と質疑
黒蜘蛛の聴毛が再び逆立つ。奇妙で、それでいてどこか心地よさを感じる、あの旋律が塔から流れ出ている。
この音はこれまで少女が発した声とよく似ていた。魔力を絡めれば同じ波長を感じることができる。彼女自身が歌っているのだ。森の小鳥が囀るように。
何をしているのかと腹立たしく思う。普通の虫や獣たちなら聞き取ることはできないが、自分のように魔力を得た生き物であれば微かな音でも捉えてしまうのだ。魔力を込めた糸で蓋をしているので簡単には破られないが、自身の置かれている状況をもう少し理解してほしい。
塔の蓋を開けてどさどさと餌を落とす。少女は歌い続けている。いつもなら自分の存在を察知すると静かになり、こちらの出方を窺っているものなのだが。
少女は石の床の上でぺたりと座り、壊れた椅子を撫でていた。黒蜘蛛が初めて少女と出会った日、金蛇が毒牙で脚を破壊した揺り椅子である。魔力を張り巡らせずとも彼には感じ取れた。彼女の放つ旋律の中に、伏せられた目の中に、胸の締め付けられるような心の寒さが込められているのだ。
椅子が元の形に戻れば彼女の哀感は晴れるのだろうか。ふとそのように考えた。考えみると実際に行動に移してみたくなった。どのような反応を見せるのか、純粋に興味が湧いたのだ。
黒蜘蛛の巨体が傍まで来るのを見ると、少女はようやく静かになった。蜘蛛は椅子を取り上げた。重厚な見た目に反してとても軽い。石床の上に折れた脚の端々を繋ぐように並べて、彼は糸を吐き出した。
糸はぐるぐると巻きつき、脚をつなぎ止めていく。蜘蛛の成そうとしていることを理解したのか、少女は白い眼を精一杯に見開き固唾をのんで蜘蛛の挙動に見入っていた。
蜘蛛が椅子を真っ直ぐに置き直す。脚にぐるぐると巻かれた金色の糸は少し目立つが、それでも、椅子は本来の姿を取り戻していた。
少女の口元が震える。続いて目から大粒の雫がこぼれ落ちた。
蜘蛛はぎょっとし、思わず触肢を伸ばした。毛むくじゃらの脚で水滴を拭う。
張り巡らせた魔力が教えてくれる。塩気を含んだその水滴には少女の膨大な心の渦が込められていた。濃い暗雲のような寂寥と、絶望に突き落とされた哀しみ、そして歓喜がごちゃまぜになり、塊となってあふれ出ているのだ。
人間の感情表現を蜘蛛はまた一つ知った。
少女は目を真っ赤にしながら立ち上がり、おそるおそる椅子に近づいた。期待に満ちた感情のさざ波を蜘蛛は捉える。
少女がそっと腰を下ろす。
キィ、キィ、と椅子が揺れる。口元が次第に綻ぶ。目を細め、懐かしむような、愛おしむような瞳で彼方を見つめている。何かを思い出しているのだろうか。どこか遠くへ思いを馳せているようだった。
「ありがとう」
少女の小さな口から言葉が漏れた。以前聞いた時よりもはっきりと、彼女は言った。
感謝の意が魔力の糸を伝ってじわじわと蜘蛛に届く。さざ波のように、春に溶けゆく雪のように、温かな気持ちがやってくる。
逃げ出したい。蜘蛛は自身でも信じられないような気持ちに駆られていた。非力で弱々しい人間の雌に対し、兵士として育てられた自分が逃げ出すなど、恥さらしもいいところである。しかしそうさせる何かがあった。彼女の感情をまともに受け止めてしまっては、彼の中で何かが崩れてしまう気がしたのだ。
少女に餌を与えた後、黒蜘蛛は巣穴に戻った。
食糧を卵部屋に運び、規定の量を食料庫に納める。他の金蜘蛛たちが夜中にこなす仕事を、彼は夕方までに終えることになっている。夜中は彼の休息時間である。今までは自室にこもり食事をとって眠るのみだったのだが、最近になってそっと地上へ繰り出し、塔の様子を覗くことが多くなっていた。
蜘蛛は糸のベッドの上で丸くなりながら頭の中で悶々と考えていた。椅子に揺られながら泣きはらす小さな人間の姿がぐるぐると、脳裏に焼きついて離れない。
ついには居ても立ってもいられなくなり、彼はベッドから降り立った。
地中深く、卵部屋よりも奥に小さな巣穴がある。金蜘蛛たちを束ねる王さえも頭を上げられぬ、最長老の蜘蛛の部屋である。夜も更けた頃、そこを尋ねる漆黒の蜘蛛の姿があった。
最長老は彼の姿を認めると黙って部屋へ通した。
黒蜘蛛は入ってすぐに、いくつか質問を浴びせた。
――地中深くから地上へ伸びる、石の塔について知っているか。塔はいつから存在し、何のために作られたのか。人間の鉱物によって作られた塔に仮に生物が閉じ込められた場合、どのような現象が見られるのか。知っていることをすべて教えてほしい。……
黒蜘蛛の質疑の嵐に、最長老は戸惑いつつ彼に尋ねる。
――一体、どうしたというのだ。なぜそんなことを。
黒蜘蛛は答える。
――偵察索敵を担う者として、当然、森のことは把握しておかなければならない。何か、あなたしか知りえぬ重要なことがあるなら、包み隠さず教えてもらいたい。
最長老はしばらく考え込んだ。やがて、重々しく口を開く。
しばらく経って、最長老の部屋を出た黒蜘蛛は、何事か深く考え込むようにしながら自室へと戻っていった。金蜘蛛たちの知識の宝庫と言われる最長老は、想像をはるかに超えた不可思議な物語を語り聞かせたのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます