第七話 剥離の時
目が覚めたとき、少女はなんとも言えない薄ら寒さを感じた。昨夜と違って外は平和で明るくて、生暖かい風が流れ込んでくるというのに、この感覚はなんだろう。寒空の下へいきなり裸で放り出されたような、心寂しい感覚。
起き上がろうと手を伸ばす。ベッドの心地よい柔らかさを感じ、昨夜のことを思い出した。
蜘蛛がいない。
昨夜、捕食者は眠りにつくまでずっと自分の身体を温めてくれた。遠い昔、乳母が優しく包み込んでくれたように――乳母によれば、母親が赤子を慈しむように――大事そうに。壊れ物を扱うように。まるで自分が、そのような存在であると言わんばかりに。
蜘蛛は優しい。
自らが食らうために育てている餌にさえ、丁寧に大切に扱ってくれる。いつの間にか食べられるまでの恐怖を数えることさえ忘れていた。その腹に収まる最後の最後まで、自分は一切の恐れも抱かないだろう。安らかで穏やかな気持ちのまま、彼の一部になれるだろう。
そこまで考えたとき、少女は少し怖くなった。いつの間にか蜘蛛が来ない日について考えられなくなっている。食事を与えてくれるから? 渇きを忘れさせてくれるから? 他の外敵から守ってくれるから?
彼女は首を振る。
初めて蜘蛛を目にしたとき、その姿に戦慄した。金色に輝く蛇も恐ろしかったが、その蛇を一瞬で破壊し、飲み込んだ蜘蛛の姿はもっと恐ろしかった。細長く生え揃った八本の脚や巨大な胴はおぞましく黒い毛にびっしりと覆われ、口から覗く鋭い牙は見ているだけで痛そうで、あの蛇のように自分も食われるのだと思うと恐怖で倒れそうだった。こんな風に希望の全く見えない状況を絶望というのだと乳母は教えてくれた。まさしく絶望のどん底だった。
蜘蛛の持ってきた食事は酷く生臭くて残酷で、とても口に入れられるものではなかった。塔の上から投げ落とされる腐った残飯がまともに思えるほどだった。加えて、蜘蛛は自分の唾液を飲ませようとした。どろりとした半透明の液体の正体を知ったとき、あまりのおぞましさに身体の中身をすべて吐き出してしまいそうになった。こんな思いをしながら恐怖と嫌悪に怯えて毎日を過ごさなくてはならないのかと、その時はただ震えていた。
しかし蜘蛛は、そんな自分に合わせてくれた。鼻先に近づけることすらおぞましかった肉塊は炙られ、香ばしい匂いを放ち、見ているだけで涎の出そうな肉汁を染み出させ、蜘蛛の唾液は――信じられないことに、ほんのりと甘く、心地よい冷たさで、喉を潤してくれた。助かった、と思わず肩をなで下ろしていた。捕食される事実に変わりはないのに、一時空腹から解放されただけで心が救われた気がしたのだ。
母親から罵られ遠ざけられ、顔も知らない者たちに呪いの言葉を吐かれながら、それでも命ある限りただ生きるしかなかった自分。ついには残飯という生命線さえ絶たれ、その命すら危ぶまれた自分。たとえ捕食者と餌という関係であっても、命尽きるまで腹を満たされ、大事に扱われるのは幸福だった。
いつの間にか蜘蛛の存在に全身全霊で寄りかかってしまっている。現に今、目が覚めて、自分を抱いていた温かな身体が傍にいないと知ったとき――心細さで胸が張り裂けそうになった。
彼は太陽が真上に昇る頃にいつもやって来て、陽が沈む頃にいなくなる。最近は陽が沈みきってから再び来てくれることもある。見たことはないが彼にも仲間はいるだろう。彼にも住処があり、そこでの生活があるはずだ。餌に構ってばかりではいられないはずなのに。
わかってはいても、待ち遠しくて仕方がなかった。少女はおもむろに立ち上がる。裸足でぺたぺたと歩き、塔の入り口を見上げた。蜘蛛の張った糸の隙間から朝陽がこぼれ落ち、少女の白い頬を照らす。以前は、この穴から降ってくる心ない言葉や、終わりのない孤独の闇にどれほど惨めな思いをしただろう。
今はただ、あなたの姿が恋しい。傍にいてほしい。あなたがわたしを食べるその時まで。
***
日が沈み巣穴に戻った時、黒蜘蛛は異様な空気を察して全身の毛を逆立てた。
いつもなら、見張りの兵士たちが動き出して活気づいているはずなのだが、あちこちに掘られた巣穴はひっそりと静まりかえり、気配がしない。しかし、巣穴の奥――食料庫や卵部屋、雌たちの寝床がある方面から、怒号と熱気が漏れ出ている。
嫌な予感を抱えながらそっと忍び寄り、巣穴の影から静かに覗き込む。雌たちが塊をなして広場の中央に群がっていた。背の模様が真っ赤に浮かび上がり、怒りの感情を顕わにしている。彼女たちを兵士たちが必死で取り押さえようとしているようである。目をこらせば、真っ赤な雌たちの体の下で押しつぶされそうになっている蜘蛛の姿がある。金色の、一際目立つ大きな体躯。最長老が下敷きになっている。
雌たちはぎゃんぎゃん吠え、何事か喚き散らしている。不快なきんきん音に聴毛が逆立った。
――あれを喰わせろ。
――あれを引き渡せ。いつまで隠し通すつもりだ。
――黒いあいつはどこにいる。
雌たちの叫びに黒蜘蛛は戦慄した。
黒いあいつ、それは確実に自分のことである。『あれ』とは。断片だけでも思わず思い当たってしまう。白亜の少女の存在に。
じりじりと後ずさる。この場を去るべきか。しかし夜間に捜索されれば必ず見つかってしまうだろう。
黒蜘蛛は兵としての厳しい鍛錬を独りで積んできたため、生半可な金蜘蛛の兵との一対一では負けるつもりはない。しかし、多勢で攻められた場合、太刀打ちできるだろうか。
迷ううちに、兵士の一人がこちらを振り向いた。
――あいつなら、そこにいるぞ。
真っ赤な怒りが一斉に牙を剥く。
金色の目が、爪が、毒が、糸が、襲いかかってきた。
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