第三話 餌

 『塔』の中で少女は一睡もできぬまま朝を迎えた。昨日初めて遭遇した侵入者たちを目にしてから、恐ろしくて目を閉じることもはばかられたのだ。  

 口に巻かれた糸は固く、声を発することもままならない。しかし何より彼女の心を折ったのは、蛇によって砕かれた乳母の揺り椅子だった。長い間をこの椅子の上で過ごし、この椅子に揺られながら眠っていた。乳母メアリの優しい言葉だけが外の世界との繋がりであり、唯一感じた温かさだった。 

 目の前で椅子の脚が砕かれ溶けた時、それらすべてが絶望の底に投げ込まれた気がした。命は助かったのに、未だに、自分の大部分が死んだ気がする。  

 死という概念は乳母から教わった。活動していたすべてが制止して、終わること。今、生きているか死んでいるかと言われたら、生きているとはとても言えない。  

 そして、真っ黒な巨体の生き物を思い出す。自分を狙っていた蛇を、あの巨大な生き物は呑み込んだ。だからといって、自分を助けたとは言えなかった。自分を食糧として初めから狙っていて、蛇に奪われないために守ったに違いない。現に、糸で口を塞がれ、『塔』の出入り口も塞がれている。そのおかげで、幸いにも昨日のような侵入者は来ない。入り込めるのは朝陽だけである。  

 少女は糸の塊の上で身を横たえたまま、胸の内に不安を抱いていた。  

 『塔』の穴から差し込む陽の光も陰り、内部を漆黒が包む。もう何度目か数え切れないほどの夜がやってくる。口を塞がれた少女の腹部がきゅうきゅうと音を立てる。  

 乳母が去ってからしばらくは、何者かの手によって大量の残飯が降ってきたが、それも疾うに食べ尽くしていた。元々あまり食べる方では無かったので、少しずつ残した食糧は日に日に柔らかく溶けだし、嫌な匂いを発するようになった。しかし、以前のように回収してはもらえなくなり、食糧も降ってこなくなった。  

 石の『塔』の底は静かな暗闇でしか無かったが、乳母がいなくなってしばらく経つと様々な物音が響くようになった。がさがさと何かが動く音。自分のものでも、乳母のものでもない、聞いたこともない奇声。獣たちが『塔』の存在を感じ取り、地上に突き出た石壁の周りをうろついている音である。   

 空っぽの胃が締め付けられるように痛む。口の中に湧いてくる唾液を幾度も呑み込んでいたが、からからに乾いてしまったのかもう出てこない。  

 少女は全身の力を抜いた。瞼を下ろす。  

 食べられるなら、夢を見ている間がいい。  

 しかし、頭上高く響くひっかくような物音で意識がはっきりと引き戻された。かさかさと壁を擦る微かな乾いた音を聞き、ああ、あの生き物がやって来たと、少女は悟る。  

 黒い蜘蛛は糸を破り『塔』へ侵入した。糸を吐いて元通りに塞ぎ、人間の少女の待つ暗い底へと移動する。  

 少女は横たわったまま壊れた人形のようにじっと蜘蛛を見ていた。白く瞳孔の判別できない大きな目を、片時も閉じること無く彼に向けて。  

 彼は少女の前で立ち止まり、投げ出された彼女の脚へ前脚をそっと近づけた。少女は何らかの痛みを覚悟して目を閉じる。しかし何も感じない。おそるおそる瞼を開け、足下に目を凝らすと、確かに蜘蛛の黒い脚が自分のふくらはぎをつついているのが見えた。  

 何をしているのだろう。昨日の蛇のように引き裂いたりはしないのだろうか。それとも、生きたまま穴でも空けて体液を啜るのだろうか。乳母の読み聞かせてくれた様々な書物が頭の中をよぎる。乳母は書物によって、自然界の厳しさを教えてくれた。屋敷の部屋に閉じ込められていたときに見た虫やねずみたちが、どのようにして食糧を得てきたのか、彼女は『塔』の底で乳母の声に耳を傾けながら学んでいたのだ。  

 蜘蛛は少女の脚の上に這い上がり、腰、臍へと上っていった。微かにくすぐったさを感じて少女の身体が震える。  

 その時、腹の中から大きな音が響いた。  

 蜘蛛の動きが止まった。  

 少女は信じられない思いで自分の腹を見つめていた。これから食べられるかもしれない恐怖の中でも、人間は空腹を感じるのだ。自身でも不思議に思うのだが、このとき、少女は蜘蛛の姿を真っ直ぐに見ることができなかった。一種の恥ずかしさを覚えていたのである。

 蜘蛛は少女の腹を何箇所かつつき、何事か考え込むように再び動きを止めた。

やがて、蜘蛛は少女の身体からふいと降り立ち、石壁をよじ登って行ってしまった。  

 少女は呆気にとられたまま、頭上の闇へと消えた蜘蛛の姿を見送った。  


 彼は塔から這い出ると森の深くへ急いだ。

 獲物である少女の肉付きを確認している最中、突如響いた低い音。目の前の生き物は腹を空かしていた。塔の底に積もっていた腐った残飯を思い出す。塔に閉じ込められ、何も口にしていないのだ。おまけに酷くやせ細っていた。これでは、ろくに食する箇所も無いだろう。何か食べさせて、太らせなければならない。  

 彼は魔力を体内に張り巡らせ、身体を巨大化させた。森の闇より濃い漆黒の複眼で森の中をくまなく見回す。蜘蛛の突然の出現に怯えた野ねずみを引き裂き、木々の上に巣を作った鳥たちを丸呑みする。魔力を得た獣や虫たちと違い、自然界の生き物たちは無力でか弱い。  

 彼は獲物を携えて塔へ戻った。糸の蓋を破って、呑み込んでいた食糧たちを吐き落とす。そして自らの身体を縮めて内部に潜った。  

 どさどさと物音がして、少女はびくりと身体を震わせた。塔の出入り口の真下に何かが降ってきている。月明かりに照らされ、それらが鳥やねずみといった獣たちであることを認識する。  続いて、あの蜘蛛が降りてきた。小さくなった身体をもう一度巨大化し、獲物をひきずってこちらへ近づいてくる。少女は見開いた目で凝視したまま後ろへ這いずり、冷たい石壁にぴたりと背をくっつけた。  

 蜘蛛は毛むくじゃらの脚を少女の顔に近づけ、口に巻いた糸をぷつりと切った。恐怖に戦慄く少女の口元に、真っ赤に染まったねずみだったものを近づける。もはや原型のわからなくなったその姿と、塗れた血の臭いに少女は思わず顔を背けた。足をばたつかせて必死に逃げようとする。  

 蜘蛛は暴れる少女の手足を押さえつけ、前脚で強引に少女の口をこじ開けた。涙を流して身悶えする少女の口に、血の滴る肉の塊を容赦なく押し込んだ。  

 声にならない絶叫がむなしく響く。少女は悶絶し、口の中の物を必死で吐き出した。激しく咳き込み、口の中に残った鉄の味を追い出そうとする。

 この時蜘蛛は初めて理解した。これは人間の食事とは違うのだと。 

 蜘蛛は少女に背を向け、塔の隅へ這っていった。腐った残飯が散らばる中に脚を突っ込み、それらを注意深く観察する。人間が畑で採った野菜を刻んだもの、肉の破片。それらは変色し形も変わってどろどろに溶け出していたが、蜘蛛の目と魔力は、それらが加工され食べやすく変えられていることを見抜いていた。 

 蜘蛛は少女の傍に戻ると、彼女の吐き出したねずみの肉を脚で引き寄せ、おもむろに火をつけた。火種など無い。どこからか降って湧いたように燃え上がった炎を見て、少女は思わず後ずさる。炎自体、遠い昔に屋敷の中で数えるほどしか目にしていない。暗闇になれきった目は突然の強い灯火に焼かれそうなほどの熱量を感じた。 

 ねずみは炙られ、赤身を帯びた肉はほどよく焼き色をつけられた。食い入るように見つめる少女の表情が少しずつ変化していくのを、蜘蛛は見逃さなかった。火を消し、炙られたねずみの肉を再び少女に近づける。 

 見た目は悲惨な形をしたままだったが、その匂いは、かつてここに降ろされていた食事から漂う香ばしい香りを思い起こさせた。少女の口いっぱいに唾液が湧き出る。 

 蜘蛛が脚をゆっくりと近づける。少女の半開きになった口へと、肉塊を押し込む。今度は、吐き出しはしなかった。おそるおそる咀嚼し、怪訝な顔つきがじわじわと明るくなっていく。 

 だが、そこでげほげほと咳き込んだ。身体が乾いているため、大きな塊を呑み込むのは困難だったのだ。 

 蜘蛛は咳き込む少女の姿をじっと観察していた。そして、おもむろに糸を吐き出して塊を作った。口から透明な液体を垂らし入れていく。糸の入れ物に液体をなみなみと注ぐと、咳き込む少女の口にそれを押しつけた。 

 流れ込んでくる水分の正体を疑りつつも、彼女は本能的にこくこくと飲み干した。身体の隅々が潤っていくのを感じる。ただの水ではない。それにほのかに甘みを感じる。

 少女の見ている前で蜘蛛はもう一度糸を吐き出し、唾液を垂らした。 

 ひ、と少女の喉が引きつる。自分が貪るように飲み込んでしまったものの正体を知り、反射的に喉を押さえる。しかし蜘蛛は容赦なく糸の入れ物を少女に押しつける。少女の口端から液体が垂れて胸元へしたたり落ちていく。瞳の端に涙を溜めて、精一杯抵抗していたが、液体はするすると喉へ流れ込んでいく。少女の意思に反して、からからに乾いていた身体は喜んで受け入れているようだった。 

 少女が動きを止め、おとなしくなると、ようやく蜘蛛も糸を離した。再び火を点して残りの獲物たちを炙っていく。 

 こうして、少女の腹は久しぶりに満たされた。目の前で蠢く黒い巨体への恐怖心は相変わらずぬぐい去れなかったが、少なくとも、すぐに殺して食べようとは思われていないようだった。 

 少女が口を開く。

「――ありがとう」 

 声を出したのは何年ぶりだろうか。 

 暦を教わっていない彼女に時の流れはわからなかったが、とにかく長い間閉じていた喉を開き、腹から声を出すのはとても久しぶりだった。喉から絞り出された声に、自分の声はこんなだったのかと改めて思い出される。 

 蜘蛛に言葉が伝わったのかわからない。それでも良かった。飢え死にするか、獣に食い殺されるかしか残されていなかった自分の運命を、一時でも救ってくれたという事実にすがりつきたかったのかもしれない。 

 蜘蛛は何も答えず、『塔』を去った。

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