第二話 黒い蜘蛛

 静寂に満ちた暗い森に広がる、冷たい大地。しっとりと湿った黒い土の地中深く、縦横無尽に張り巡らされた巣穴が交わる広間で、最長老の蜘蛛が若い兵士を集めていた。蜘蛛たちの体内には魔力がみなぎっており、全身が金色に輝いている。頭胸部から腹部にかけて、細い脚をびっしりと覆う毛の一本一本にいたるまでが艶々と黄金色に覆われているのだ。太陽が頭上高く昇る昼間は外敵襲撃の心配はなく、兵たちはまばらに配置につき、交代で学びの場に参加している。人間のように書物を持たない彼らにとって、最長老の頭の中にある情報こそが唯一得られる知識なのだ。

 金の蜘蛛の雄は生まれたときから兵となり、雌とは別の卵部屋で育てられる。肉体を鍛え、精神を鍛え、一般的な自然界の蜘蛛との違いを――人間との戦いの歴史を教えられる。かつて自分たちの祖である蜘蛛が金の身体と魔力を得て、森の覇者の地位を手に入れたこと。そして、人間が見つけ出した特殊な鉱物の封印によって魔力に満ちた蜘蛛たちは森に閉じ込められてしまったことを、繰り返し聞かされるのである。

 何度も何度も同じ話をされる間に、蜘蛛の兵には人間のみならず他種族への敵対心が芽生える。皆で一致団結し、いつか種族が繁栄を謳歌した土地を取り戻したいと、誰もが願うようになる。

 だが、その団結に加われない者がいた。皆から少し離れたところでたった一匹、ぽつんと突っ立っている。

 周囲の蜘蛛たちがみんな金色の身体を持つ中で、彼だけは生まれつき真っ黒く、他の仲間たちは不気味がって近づこうとしなかった。人間世界では突然変異などと呼ばれる変化であるが、彼らにとっては異形のものでしかなかった。

 彼が変わっているのはその容姿だけではない。蜘蛛たちは魔力を得た代わりに、陽の光を浴びると身体を焼かれ、灰となって消える呪いがかけられている。しかし彼の黒い身体は、太陽の下に晒せど何も起こらない。彼を捕らえて解剖し、今後の種族繁栄のために利用すべきであるとの声もあったが、最長老はそれを許さなかった。

 かくして、彼は昼間に地上へ赴き、蜘蛛たちと同じように魔力を得た森の生き物たちの動向を窺うよう、偵察の任務が与えられた。偵察がてら、兵の義務である食料の調達も済ませられれば、夜間は他の兵たちと交代で休息を取ることが許された。地中の者たちも彼の不気味な姿に怯える必要がなくなり、互いに都合の良い判断であった。

 彼が初めて地上に出たとき、森のあまりの小ささに意表を突かれた。最長老によれば、魔力を阻害する鉱物が森のあちこちに埋め込まれていて、蜘蛛たちのみならず魔力を得た獣たちすべてが森の中に閉じ込められているらしい。

 太陽の光に耐えられても、結局は他と変わらない。彼は自身の無力さを知った。

 来る日も来る日も、彼は森中を歩き回った。柔らかく湿った枯れ草の中も、大蛇の住まう泉のほとりも、どこかに一点の穴が無いかを探し回った。人間は実に綿密に鉱石を埋め込んでいるらしく、森の出口はとうとう見つけられないまま、幾つもの季節が過ぎ去っていった。

 

 身を切るような冷たい風が止み、打って変わって穏やかな日差しが包み込む。この日も彼は偵察のために朝早くから外へ出ていた。地中深く掘られた縦穴をよじ登り、いつもの通り地上へ顔を出したとき、ふと今まで感じたことのないような不思議な気配に気がついた。

 自然界の獣も魔力を得た獣も共生するこの森は、絶えず生き物の気配でざわついている。彼らは互いを牽制し合い、夜には兵を偵察に出し、静かに均衡する森の勢力を推し量っていた。だから、彼はその気配の異様さにすぐに気がついた。

 異様な気配を追って森を進むと、これまで見たこともない場所に出られた。昼も、時には夜も、森の出口を探して歩き回った彼にとって、森全体が庭のようであった。にも関わらず、一度も踏み込んだことのない地に入ってしまったのである。

 人間の鉱物による封印が一部解かれてしまったのか。だとしたら、我々蜘蛛にとっては好都合であるが……。

 その場所には、古びた石の塔がそびえていた。人間が見れば地中に顔を出した古井戸のようなものであるが、蜘蛛にとってみればそびえ立つ石の塔である。異様な気配はその中から感じられるようだった。そして、同時に彼のよく知る食糧の匂いを嗅ぎ取った。

 食糧は石の塔の内部にするすると侵入し、中の獲物を狙っているようである。

 彼は石の壁を素早くよじ登り、ぽかりと空いた穴に入っていった。辺りはたちまち薄闇に覆われるが、六つ並んだ彼の単眼は内部の様子をしっかり捉えている。

 彼の目線の先で、蛇が身体をくねらせていた。金色の鱗がてらてらとその身体を覆っている。彼と同じく魔力を得た蛇である。魔力を得た生き物は通常、太陽光に当たればたちまち消滅してしまうのだが、蛇は自らの粘液で身体を覆うことで、一定の間身を守ることができるのである。しかしながら、得た力の差は歴然としていた。一般的な蜘蛛にとって蛇は捕食者であるが、金色の身体を手に入れた蜘蛛にとっては蛇こそが食糧なのである。

 蛇は彼の気配を感じていないのか、一心に下へ下へと壁を這う。余程、腹を空かせているのだろう。彼も後を追った。気になるのは蛇ではなく、その向こう――塔の底にうずまいている異様な気配であった。塔に入ってからその気配は色濃くなり、生へも死へも向かわず停滞する淀んだ空気を生み出している。

 蛇は音もなく着地すると、その鎌首をゆっくりともたげた。塔の壁には一カ所だけ大きな空間が空けられている。その真ん中に、膝を抱えて硬直している人間の姿があった。大きな白い目を見張り、蛇を凝視している。蛇はシュルリと舌を振るわせた。恐怖に固まっている人間に素早く近寄り、かっと大口を開けて牙を剝く。

 人間は悲鳴を上げて椅子から転げ落ちた。蛇の牙が椅子に刺さり、脚が砕ける。しゅうしゅうと煙が上がった。溶けているのだ。蛇の牙には恐ろしい猛毒が仕込まれていた。

 蛇はもう一度牙をむき、部屋の隅で怯える人間に襲いかかった。

 死を覚悟した人間は目を閉じ身体を縮こまらせる。 

 しかし、予想していた痛みは来ない。おそるおそる薄目を開け、そして、その白い目を見開いた。

 毛むくじゃらの真っ黒な生き物が、その巨体で蛇を押しつぶしていた。蛇の細い身体は潰れて平らに伸びている。毛むくじゃらの生き物は、脚先に伸びた鋭い爪で蛇を器用に引き裂き、呑み込んだ。

 彼は、六つ並んだ単眼を一斉に人間へ向けた。異様な気配はこの小さな生き物が発していた。その身に纏ったぼろ布の隙間から覗く肌も、目も、頭部から伸びた髪もすべてが真っ白で、薄闇の中でもぼやりと浮かび上がって見えるほどである。最長老の蜘蛛から人間の特徴を教わっていたし、壁画も見たことがあるのだが、そのどれとも微妙に違うように感じられた。

 ゆっくり、じりじりと巨体を近づける。彼はその人間が雌であることを感じ取った。どの生き物も、雌というものは特別な気配を放っているものなのだ。人間の少女は壁に背中を押しつけたまま、じわじわと黒い巨体から離れようとしていた。彼は本能的に脚を伸ばして彼女の身体を絡め取った。 

 少女の小さな口から悲鳴が漏れる。外に音が漏れないよう、彼は口から糸を吐き出して少女の口に巻き付けた。そして、暗い塔の底を改めて見回した。

 先ほど彼が侵入してきた穴以外、出入りできそうなところは無い。その穴の真下には腐敗した食物の残骸が散らばっており、隅に敷かれた藁の中に少女のものと思しき糞便が転がっている。人間はおろか、生き物が棲む場所にはとても思えない酷い環境である。

 この少女はなぜここにいるのか。穴の入り口に太い鉄格子が嵌められているが、閉じ込められているのか。人間は人間を食べないことは知っているので、食糧とは思えない。

 この場所はつい最近まで人間の鉱物か、何者かの加護によって封印され護られていた。それが解除された今、この場所が他の獣たちにかぎつけられ、少女が喰われるのも時間の問題である。せっかく見つけた獲物を奪われたくないと、彼の本能が訴えていた。

 彼は壁際に糸の塊を吐き出すと、少女の身体をそこへ横たえた。そして、怯える少女の目の前で、自らの身体を小さく――元の大きさに戻した。石壁を這い上がり、鉄格子の隙間から出ると、糸を吐いて穴を塞いだ。地上から見える塔の外壁も糸で覆い尽くし、蜘蛛の印である金の糸で周りを囲う。これを見てもなお、蜘蛛の領域を侵そうとするものは命知らずである。森の覇者へ宣戦布告したも同じであるからだ。

 彼は地中に帰り、巣穴の最奥にある卵部屋に赴いた。血走った目を向ける雌たちの目の前で、呑み込んだ蛇の身体を吐き出した。

 雌たちは一斉に蛇に覆い被さり、新鮮な体液を貪った。そしてすぐさま卵抱きつき、口をつけて栄養を中身に送り込む。卵部屋の隣には食料庫があり、この金の蛇のような食糧が大量に貯蔵されている。雌はこれらから絶えず魔力と栄養を取り込み、卵に分け与えて育てる役割が与えられている。

 彼は卵部屋を後にして、土壁に穴を空けて地中深く潜っていった。手当たり次第に掘り進んだ後、方向を定めてまっすぐに潜っていく。

 彼は探していた。あの人間の少女が閉じ込められていた塔を。地中から探り当て、外壁に穴を空けることができればいつでも行くことができるからだ。

 塔の場所はすぐに見つかった。少女の未知の気配を覚えていたので、魔力を張り巡らせて神経を研ぎ澄ませ、ただ追うだけでよかった。冷たく湿った土を掘り進むうち、硬い石にぶつかった。彼は魔力を使って身体を巨大化させた。太く毛むくじゃらの脚で石壁を蹴りつける。だが、壁はびくともしない。鈍い音と共に、脚に込めた魔力がはじき返され霧散する。

 何度ぶつかっても同じだった。消化液を吐きつけてもすぐにかき消えた。彼は悟った。塔の石壁は、人間の鉱物によって作られているのだ。

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