蜘蛛の塔

シュリ

Solitude

第一話 It

 この日、穏やかな田園風景を珍しく嵐が襲った。ありったけの風を集めて叩きつけるような暴風に、実のなる木はなぎ倒され、田畑も荒れ、人々は一歩も外へ出られなかった。

 田園の中央に森がある。森の中には、田園から切り離されたように屋敷が建っている。屋敷を囲う黒い森が暴れるように揺れ動き、荒れ狂う風が窓を叩きつける中、屋敷の二階の奥の間で産声が上がった。

 この屋敷には代々領主が住んでいて、ここで産まれた赤子は将来を担う者としての希望を託されているのだ。

 産み落とした母親は、泊まり込みで出産に立ち会った医師の方へ首を巡らせた。

「私の子の顔を見せて」

 髪が張り付き汗ばんだ顔を不安で歪ませ、母親が問う。医師は赤子を抱いたまま、食い入るように凝視していた。幾度も言葉を呑み込み、かけるべき言葉を逡巡させながら、やがて口を開く。

「なんと……なんと、申し上げたらよいか」

「メアリ、私の子を取り上げて頂戴」

 しびれを切らした母親の声に、部屋の隅に控えていた女が前へ進み出た。困惑する医師の手から赤子を取り上げる。そして、彼女もまた、驚愕の表情で腕の中の赤子を見つめた。

「……奥様」

「何をしているのです。はやく、はやくその子を私に見せて」

 メアリは赤子を抱いてベッドに近づき、そっと屈んだ。母親はじれったそうに身をよじって覗き込む。

 闇に染まった空を稲妻が貫き、腕の中の赤子を照らし出した。

 刹那、母親の悲鳴が屋敷中に響き渡った。

 赤子の身体は、色という色が抜け落ちたように真っ白だったのだ。


 それは、体つきは幼い女児そのものであったが、その作り物のような真っ白い身体は忌み嫌われ恐れられていた。赤子のうちは地下部屋に閉じ込められた。母親は地下への階段へ近づくことさえ怯えて避けていたので、世話は主に乳母であるメアリが行っていた。

 一人で立てるようになってからは脱走して母親に会いに行こうとするので、父親である領主の手によって樽に入れられ、『塔』に幽閉された。

 樽から這い出たそれは、手を伸ばして石壁に触れた。壁は途切れることなく周囲を囲っており、出入りできそうな穴はどこにも無かった。唯一、頭上高くに陽の差す穴が開けられているが、奇跡的によじ登れたとしても、鉄格子が嵌められているため脱出はできない。

 壁には広く横穴が空けられており、その奥に揺り椅子が置かれていた。これは、それの処置を哀れんだ乳母メアリによる贈り物である。この他には何もない。

 がらんとした冷たい石の『塔』の中で、それは独りぼっちで過ごしていた。揺り椅子の上で膝を抱え、『塔』の穴から食べ物が吊り下げられて降りてくると横穴から出てきて貪る。残った食器や排泄物は、頭上の穴の真下に置き、夜中に回収された。月明かりが見えると、それは横穴に戻り、揺り椅子の上で眠りについた。

 時折、頭上の穴から乳母メアリの声が降ってくることがある。彼女のおかげで、それは言葉を覚えた。彼女は書物を持ってきて、穴に向かって読み聞かせてくれることもあった。石壁の中の世界で、メアリの言葉だけがそれに夢を見せた。

 メアリが来た日の夜は、揺り椅子の上で自分のやせた胸に腕をぎゅっと巻き付けた。手の届かない胸の奥深くをかき乱したいような、ぎゅっと掴んで握りつぶしたいような苦しみに襲われる。これが寂しさという感情であることは、後々理解することになる。それは『塔』の外が騒がしくなり、やがてメアリが来なくなった頃だった。

 屋敷の領主は妻に再び子供を産ませた。一人目が異形となったショックから立ち直れず、妻は嫌がったが、跡継ぎを産む義務からは逃れられない。 

 二人の娘が産まれた。娘たちは、母親の半ば偏執じみた溺愛によって育てられ、乳母の言うことを聞かぬほど我が儘に育っていった。

 彼女たちは屋敷を囲う森に興味を抱いた。禁じられた区域に立ち入ることをせがんだが、聞き入れられずに拗ねていた。諦めの悪い姉妹は、時折大人の目を盗み、区域の入り口付近までこっそり立ち入る遊びを繰り返していた。そして、区域の入り口に古びた井戸があり、乳母メアリが時折出入りしているのを目撃してしまった。

「なにしてるのメアリ」

 振り返れば姉妹がにたにた笑っている。メアリは驚き、なぜここにいるのか問い詰めた。

「だって、退屈なんだもん」

「せっかくこんなに広い森があるのに、ほとんど入っちゃいけないなんてもったいないでしょ」

 そう口々に迫る姉妹を、メアリ一人で押さえ込むなど不可能だった。彼女たちは乳母の手を押しのけて井戸へ駆けつけ、鉄格子の中を覗き込んだ。

「うわ」

 姉が鼻を押さえて顔を背けた。

「なにこれ、くさい」

「くさーい」

 妹も顔を歪めて井戸から離れる。

「メアリ、これ何なの? こんなところ塞いじゃえばいいのに」

「お嬢様方、ここで見たことを奥様に話してはいけませんよ。ここには――」

 メアリは井戸をちらりと一瞥して、それから、姉妹の方へかがみ込んで声をひそめた。

「奥様の恐れるものが、閉じ込められているのです」

 一斉にきゃーと叫んで、姉妹は走って行ってしまった。メアリはため息をつき、そして、そっと井戸の傍へ歩み寄った。

「ああ……お嬢様……申し訳ありません」

 涙をこらえたその声が、哀しみで消え入りそうに震えている。

「あなたを、まるで、まるで――化け物のように申し伝えてしまい、私の心は張り裂けそうです。しかし、どうかお赦しを……あの姉妹には、そのように伝えなければ、きっとお嬢様は、彼女たちの好奇心の餌食となられてしまうでしょう」

 実際、その通りだった。メアリのはからいも空しく、一度は怖がって逃げた姉妹だったが、井戸には鉄格子が嵌められ中から何も出てこないとわかると、退屈しのぎにやってくるようになったのだ。

 二人は屋敷のねずみ取りに引っかかっていたねずみや虫の死骸を袋に入れ、井戸に放り込もうと企てた。しかし不思議なことに、袋を近づけるたびに野鳥や狐や鼬といった獣たちがどこからともなく現れ、すさまじい勢いではね除けるのだ。これはメアリの、とある“力”によるものであるが、二人の娘は知るよしもない。

 物理的な嫌がらせができないとわかっても、姉妹は井戸への興味を失わなかった。やがて、学校や屋敷で怒られたり嫌なことがあると、井戸にやって来て汚い言葉で罵るようになった。メアリや母が聞けば卒倒しそうなありったけの罵倒を井戸に向かって吐き捨て、気が済んだら帰るのだ。

 石壁に囲われた暗闇の底で、それは耳を覆っていた。乳母との交流では決して耳にすることのなかった言葉たちは、意味を解することはできなくても、その刺々しい刃のような感触が胸の奥を引き裂くように思えたのだ。

 乳母の力で『塔』は森の外敵から守られていた。しかし、人の悪意までは防ぐことができなかったのだ。

 屋敷の娘たちは十一歳になると留学することになっていた。姉妹が屋敷を離れると、乳母メアリは暇を与えられた。

「旦那様、森の……森のあの子の世話は、一体誰がみるというのです」

 メアリはそう訴えたが、聞く耳を持たれなかった。

 最後の日、まとめた荷物を抱えたメアリは、森の禁域に入り、地中から顔をだしている『塔』の穴を覗き込んだ。

「お嬢様」

 冷たい石壁の底で、それの呻く声が聞こえる。

「私は、とうとうここを去らねばならなくなりました。もう、あなたに本を読んで差し上げることも、歌を歌って差し上げることもできません」

 どうか、どうかご無事で。

 乳母メアリが去って以降、『塔』に近づく人間は誰もいなくなった。代わりに、禁域の森の獣たちが『塔』に息づく気配を察し、じっと機会を窺っていた。乳母メアリのかけた護りの“力”は、刻々と力を失いかけていた――

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