第四話 瞳の中の闇
黒蜘蛛が見つけて捕らえた獲物――真っ白な人間の少女は、彼のよこした餌によって様々な反応を見せた。それらすべてを理解するために、彼は魔力を張り巡らせ、少女の表情や声の意図を読み取った。大半は恐怖だった。彼の毛むくじゃらの姿に怯え、肉塊となった餌の姿に身震いし、かと思えば手を加えた肉の放つ匂いに釣られて喜ぶ。彼の唾液に激しく嫌悪を感じ、そして――。
――ありがとう。
最後に、少女は敵意を消し去った。彼の姿への抵抗はまだ完全に抜けきったわけでは無さそうだが、彼女の最後に発した声から熱い感謝の意が伝わってきたのだ。
まだ若い雌蜘蛛が、兵たちから初めて食糧を与えられたときのような、純粋な幸福の気持ち。心からの喜びを表現するため、彼女らは腹の模様を魔力で際立たせる。それと同じ念が、人間の少女から感じ取れた。
彼は戸惑っていた。
彼が糸で捕らえた食料たちは、餌をよこすといよいよ食べられるのだと悟り、皆一様に恐怖に怯えるか、ありったけの罵詈雑言を喚きたてるばかりだった。虫でも獣でもなんでも、その反応は等しい。
捕らえた獲物から感謝されたのは生まれて初めてのことだった。
金の蜘蛛は死ぬまでに季節を五十回ほど巡る。卵から生まれて三十回の季節を巡ると、身体の成長が止まり、独り立ちをする。地中の巣穴を掘り、自らの住処を作ることを許される。雄は兵士へ、雌は卵部屋へ、各々の役割を果たすために働くようになる。
独り立ちした蜘蛛たちは、死ぬまでに必ず次の世代を産まなくてはならない。これは蜘蛛が魔力を得、金の蜘蛛となってからも代々守られてきた掟である。しかし黒蜘蛛である彼は例外であった。その要因である不気味な黒い姿は、単に忌み嫌われているだけではない。この姿が魔力の変異による呪いなのか、何か魂の破損のようなものが起きたせいなのか、彼と成した子は遺伝子的に異常が起きてしまうと真しやかに囁かれているのである。この事態は最長老といえども覆すことができず、黒蜘蛛の彼はつがいを求めて子孫を残す使命を未だに果たせていない。
周りの兵たちがそわそわと雌たちを意識し始める姿を、彼は冷ややかな目で見ていた。幸いにも彼自身、雌たちによって本能を刺激されることはなかった。
兵たちが雌選びに夢中になっている間、彼は塔の中の獲物を太らせることに心を砕いていた。彼は偵察と平行して魔力を得た金蛇たちを捕らえ、食糧として卵部屋の雌たちに与える役割も与えられているのだが、いつも一番大きな獲物を渡さなければならないことに不満を抱いていた。その次に大きな食糧も、身体の大きな金蜘蛛たちに横取りされることがしばしばあった。
初めから抵抗は諦めている。自分が差別されていることはわかっているので、魔力を奮って立ち向かったとしても、大勢でなぶり殺されるのが目に見えていた。だからこそ、塔の中にいた白い獲物は彼にとってまばゆいほどの馳走なのだ。
太陽が顔を出し、鬱蒼とした森にも明るい光が差しだす頃。この日も彼は地上へ出て、野ねずみや野ウサギなどの食料を携えて塔へ向かっていた。
しばらく進むと彼はぴたりと動きを止めた。脚の聴毛が逆立つ。小鳥の囀りや獣の声の中に、明らかな異質の音がある。風に乗って流れるように彼の元へ届いたその音は、高く、低く、調子を変えながら、何か語りかけるように旋律を描いていた。聴毛を震わせて彼は聞き入った。今までに聴いたどんな音よりも――森のヒヨドリの美しい囀りよりも、心地よく感じたのだ。
音は塔の方から聞こえてくる。音を追った。塔の穴から音は流れ出ている。彼は糸の蓋を破り、食糧を吐き落として中へ侵入した。
音が止まった。
少女は糸の塊の上で膝を抱えていた。獲物を携えた彼を待っていたかのように、じっとこちらを見ている。蜘蛛は身体を縮めてするすると底へ降り立った。再び巨体になると食料をひきずりながら少女の元へ歩み寄る。
あの音は、この少女が発していたのだろうか。
考えながら、蜘蛛は野の獣を火で炙り始める。その様を少女の白い瞳は片時も離すことなくじっと見つめていた。もう慣れてしまったのか彼の与える水分さえ、こくこくと飲み干してしまうようになった。その表情にはかつてのような恐怖は見られない。それどころか、どこか安心したような柔らかさをたたえているように見える。
獲物を炙り続けながら、彼はそれとなく魔力を張り巡らせた。
「わたしは、いつ あなたに 食べられるのかしら」
ふと、少女の口から言葉が漏れた。蜘蛛の張った魔力がその意味を脳に知らせてくれる。態度に出すことは避けられたが、危うく獲物を取り落とすところだった。
彼女が餌にすっかり懐柔され、自分が餌になる恐怖を忘れて生への希望に浸っているとばかり思っていた。だが、彼女は死を受け入れていたのだ。初めて捕らえられたときからずっと、彼女は自分の運命を解している。
それなのに、彼女は、「ありがとう」と言ったのか?
蜘蛛は動揺を押し隠しながら炙った獲物を少女に与えた。今では、口に詰め込まずとも少女自身の手で持ちながら食べるようになっていた。それさえも、生への希望が彼女を変えたと思っていたのに。
何が彼女の心を動かしたのだろうか。
蜘蛛が運んできた食糧を少女は貪る。蜘蛛の口から吐き出した唾液を喉に流し込む。そして、真っ白な姿をした彼女は、その青白い手を伸ばした。
蜘蛛の身体がぴくりとこわばる。自分より小さな、魔力も持たない無力な人間の雌に何を怯えることがあるだろうか――戸惑う蜘蛛の触肢に、白い手が触れた。そっと、羽根でも摘まむように優しく触れる。瞳孔のはっきりしない白い目がまっすぐこちらを見上げている。蜘蛛の濡れた黒い単眼すべてに少女の白い顔が映し出される。
少女は触肢に触りながら、悲しそうに顔を歪ませた。
「すぐに 食べられなくて ごめんなさい」
言葉の意味は理解できた。しかし、その心の内を読み取るのに時間がかかった。蜘蛛は戸惑い、触肢を握られたまま動くことができなかった。
少女は、死を受け入れただけではない。太らせようとしていた蜘蛛の労力に対し詫びたのだ。それは自分の張った魔力も、目の前を映し出す単眼たちをも疑うほどに、信じられないことだった。
蜘蛛は黒々とした毛むくじゃらの脚で、少女の白い手を払いのけた。
彼は日が傾く前に塔を去った。あの場に居続けられないと、彼の心のどこかが叫んでいた。いたいけな、弱々しい白い眼が彼を見上げる時、深い闇を覗き込むような気分にさせられるのだ。闇は自分を優しく呑み込み、柔らかく懐柔してしまうほどの純粋な哀しみに満ちていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます