エピローグ
ある話をしようと思う。わたしの、本当に傍観者にしか過ぎなかった人間のお話を。あるいは、蛇足として。
わたしが思い出せる最古の記憶は飾り立てられた衣装に身を包まれて、それを自分の血で汚すために大勢のひとびとに暴力を振るわれる光景だった。もうどこかは思い出せないし、思い出したくもない。禄に光も当たらなければ、照明なんてない暗い部屋の中でずっと生きていた。ただ、自分はそこで一生を費やすのだろうと幼心にも覚悟していた。
親は知らない。ただ、わたしを嘲り、踏みつけ、叩き、殴り、辱め、けれど殺そうとはしないひとびとが憎悪する理由に両親や先祖が関係していることだけは確かだと分かっていた。だから、自分が痛みを感じるときは、訳も分からないまま彼らに許しを請い、服従することを誓った。何度も、何度でも。過ぎ去ってしまえば余りに短いその期間の間に数え切れないほど懺悔したと想う。悲壮感や羞恥心よりも、ただその日その日を何とか凌ぐことが、生存だけがわたしが望む全てだった。
自分の身体が少しずつ成長し、変化し始めるようになった頃。大人達に強いられていた奉仕の性質が変わり始めたときに、わたしはその狭すぎる世界から突然に救い出された。それまで外の多くの人々には見つからなかったその小さな小さな施設は、大人達の一人が外の世界へ告発して見つかったらしい。
黒い戦闘服を身につけて突入してきた人達は、あられもない姿でベットに繋がれていたわたしに痛みを伴うことを一切要求しなかった。それどころか枷という枷をすぐに取り払って、とても暖かい毛布や味が付いた食べ物を与えてくれて、もう大丈夫だ、とか、君はもう助かったんだ、と言って励ましてくれた。詳しいことは分からなかったけれど、自分が何時ものように苦痛の時間が過ぎ去るのを耐えなくて良いこと。そして、自分の存在が否定されない広い世界が外にあることを知った。
それからわたしは、帝国が経営している福祉施設で暮らすようになった。そして、そこはわたしが知らないことで溢れていた。
まず、自分と同じ年齢の子供が身の回りに沢山居ることが新鮮だった。彼らと同じようなリズムで過ごし、同じ様なことをすることが理由は分からないけれど、それが良いことらしい、というのがすぐに分かった。
施設では多くのことを習い、そして学んだ。特にわたしが気に入ったのは料理だった。その理由は、それが得意とか仲の良い子供がそれを切掛に出来たとかではなくて、自分の肌を傷つけるために存在していると思っていた刃物で、美味しい食べ物が作られることに強い衝撃を受けたからだった。それらは今では、機械が人間のやることだから身につけても余り意味は無い。大人達はそう遠回しにわたしを窘めた。けれど、分からないものだと思う。彼らが意味は無い、といったことが後々わたしの役に立ってくれたのだから。
ある日、特筆することもないような偶然だったと思う。その施設を経営するお金の援助をしてくれて、しかも、わたしを虐めていた大人達をこの国の中から追いやってくれたのは、自分と二歳しか変わらない女の子だと知った。そのとき、わたしは強い衝撃と感動を覚えた。多分、人間の人生で一度や二度あるかないかの出会いを、わたしはそこでしたのだと思う。その名を、ジークフリーデ・フォン・フォーアライター、といった。
その力強くて綺麗な音の連なりを魔法のように毎晩寝床に入ると胸の中で唱えたるようになっていた。
やがて、いい加減に世間知らずのわたしでも思慮分別もしっかりしてきて、社会というものも大まかには分かるようになっていた。だから、自分の身の上や予算と相談しながら、将来どうやって生きていこうか。その具体的な手段を模索し始めた。
最初は、真面目にどういう職業なら自分も就職できるか、というのが主目的だったと思う。けれど、そういった作業は度々脱線を見せ、どうやったらわたしを救ってくれたジークフリーデというひとと直に会うことが出来るのか。そのことばかり考えてしまっていた。調べてみると、何でも帝国皇帝、皇女に付きそう職業があるらしいことが分かった。そして、そのためにはある程度の知識や教養があれば良いらしいことを知った。
だから、施設側には適当な職業に将来なるためだと誤魔化して、皇女に付き添える人間として求められるような条件を一つ一つ満たすために、決して多くはない自由に使えるお金も時間も外部の教育機関への必要経費として使い込んで通い続けた。
結果は、知っての通り。わたしは運が良い。だって、何時死に絶えたとしてもおかしくはない世界から助けられただけではなくて、自分が会いたいと願う人の側へ近づくことが出来る幸運に恵まれたのだから。
これは、今でもちょっとした自分に対する自慢というか、そう、誇り。わたしは施設を出て、あのひとと出会った。
「どうして、貴女は私をそんなに好いてくれているの」
あれから、随分と長い時間が流れたような気がする。フリーデ様は、わたしにそう尋ねた。一度、同じ様なことを聞かれた気がする。そのときのことを今でも鮮明に覚えているし、あの瞬間を忘れるはずがない。だって、こんなわたしをこの愛しいひとが頼ってくれて、それどころか受け入れてくれたのだから。
だからわたしは、今度こそ言いそびれてしまっていたわたしの過去の話を話した。一辺に、全てを。怖かった。わたしは決して、あのひとのように清廉な人間ではないから。特別な才に恵まれたわけでもなかったのだから。打ち明けることに勇気と時間が必要だった。フリーデ様は、わたしが話し終えるまで静かに聞いてくれた。そして、その胸の内に抱いてくれる。優しさに包まれるというのはきっとこういうことなのかな。
あぁ、良かった。
あのときは秘密です、なんていう風に誤魔化してしまったけれど。
今度こそ、伝えられた、このひとに。感謝の言葉を。
そこでわたしは目を覚ました。それまで暖かく自分を覆っていたベールが、途端に取り払われたように、途端に身体の芯まで冷え込んでくるような感覚に襲われた。
「あら、目が覚めたの、フランチェスカ……」
「フリーデさ――」
わたしは言いかけて、止めた。
「フリーデント様。申し訳ありません。見苦しいところをお見せしました」
きっと、自分の顔も目の前の女性と同じ様な苦々しいものなのだろうな。そう思った。
わたしが意識を取り戻したときには、全てが終わっていた。夢のような時間は、終わりを告げていたのだった。
あのひとと過ごした最後のとき、何かに取り憑かれたように変貌したフリーデ様を何とか押さえつけようとしていたわたしは、結局心臓を撃たれてしまったらしい。その後、丸二日は目覚めないままであったし、わたしの治療を行っていた艦に乗っていたひとびとは余りにも多くの出来事と戦い、そして疲れていた。だから、わたしが目覚めてから見知った女性、メルクーア・レイヤードが姿を見せてくれるまでも随分と時間が必要だった。
わたしはその日、何時の日かのフリーデ様のように機械仕掛けのベットの中に横たわっていた。だから、メルクーア様の姿を認めた途端、彼女の静止も聞かずに自分を覆う蓋をこじ開けて真っ先に一番の疑問をぶつけた。
「あのひとは。フリーデ様は、どうなさったのです」
彼女は、無言でわたしの隣の真っ白な箱に近づき、触れた。中には、あのひとが居た。まるで、魔法を掛けられた、そう、あの施設で児童用に読み聞かされた童話の中のお姫様のように、綺麗な姿のまま眠っていた。メルクーア様は、暫くわたしを見つめた。彼女は一度、唇を噛みしめ、言った。わたしが、聞きたくないと思っている言葉を。
「この子は、フリーデは、亡くなった」
「嘘ですね」と言ったわたしに、
「嘘ではない」と彼女は即答した。
命に関わるような外傷は何一つ無いけれど内部がひどく損傷している。自分達が彼女を助け出した頃には、もう身体だけを残してこの子の意識は消えてしまっていた。
メルクーア様には似つかわしくないような声音で一息に語ると、彼女は堰を切ったように泣き出した。その華麗で、幼げな顔を濡らしながら、わたしが一言一言を呆然と尋ねる度に謝った。
セミヌードという艦の帝国への長い帰り道でわたしは会う人会う人にそれを尋ねて回った。メルクーア様が一番しっかりと整然と、そして詳細に話してくれそうだと期待していたのに、彼女はその胸に空いた何かを必死に仕事で埋めようとしているようで、そんな彼女を問いただすのは気が引けてしまった。
フリーデ様の最後の一日がどのような壮絶なもので、そして、美しくて気高いものかを知ったのは、それからさらに三日後くらいだったと思う。オリヴィエール・フォッシュという、何故かその艦に乗り合わせていた人類統一連合諸国の軍人らしい男性だけが、わたしのしつこい質問に丁寧に答えてくれた。
彼にもやるべきことがあるらしいのに、わたしが逐一尋ねると時間を作り、どんな些細なことも語って聞かせてくれた。やがて、帝国や彼の本国へ提出する予定らしかった記録の中から、フリーデ様に纏わるものを拾い集めて個人的に渡してくれた。そして、それは今もわたしの手元にある。
「何か、良い夢を見ていたようね」
わたしはフリーデント様にそう尋ねられ、答えに窮した。
二者択一で答えられるような記憶の再現ではなかったから。今では彼女が、わたしの主だ。フリーデ様と同じように丁寧に、無礼がないように気を引き締めていたし手も抜かなかった。なのに、時々わたしは忙しいこの新たな主人が何かの仕事に没頭している傍ら眠りに陥ってしまうことがあった。
幾ら自分の仕事がしばしの間なかったからとはいえ、ひどい勤務態度だ。何時解雇されたとて不思議ではない。だから、彼女の質問にせめて答える義務があるのでは、と考え、
「そうですね。けれど、どうして良い夢だと思われたのですか。わたしの見ていた夢は、外からもご覧になれるものなのですか」
「いいえ」とあの人と顔の造形は似ているけれど、幾分か朗らかな微笑を妹様は浮かべ、「フランチェスカが久しぶりに、穏やかな表情を見せてくれたものだから。何となく、そう思っただけ」
成程、と思った。確かに、あのひとの姿を幻想とは言え再び見ることが出来た。だから、そういう表情を無意識に浮かべてしまっていても不思議ではない。
あぁ、フリーデ様とこれと同じ様な会話を交わした気がする。何かに記録しておけば良かった。あれは、何時だったか。あのときは実はその質問の真意を測りかねて曖昧な返事をしてしまった。今頃になって、あのときあのひとがどういう気持ちで問うたのか分かるなんて。
そう思いながら、今はやけに胸が冷たくなったような心持ちのわたしは言う。
「ふと幸せな記憶を。それこそ、幸せだった頃を思い出すと、何故でしょう。後から無性に辛くなりませんか?」
あのひとの妹も同意するように頷いた。
セミヌードが帝国へもたらした情報は大きな衝撃と悲しみをひとびとに与えた。やがて、その艦に乗り合わせたフォッシュという男性の手によって、人類統一連合諸国にも一連の出来事の推移は伝えられて少なからぬ混乱を巻き起こしたらしい。けれど、それも本当に僅かな間だけだった。
あのひとを失ってから二年が過ぎた今では、その両国には過去に何の悲劇なんて無かったのだ、と自分に言い聞かせるように静かな毎日が流れている。あの場に居た少なくないひとびとが命を賭して明らかにした、この世界に仕掛けられた無自覚の魔法。それと自分達がどう向き合うべきかと、それこそ平凡な日常を営むひとびと皆が一時期は考え込んでいたようだった。けれど、すぐに疲れてしまったらしい。何時の間にか皆が止めてしまっていた。
今では一部の物好きと呼ばれるひとびと。メルクーア様やフォッシュ様のような、使命とも言うべき何かを背負ってしまったひとだけがそのシステムの残骸や、まだ明らかになっていない第二第三の帝国の存在に悩み苦しみ、立ち向かっていた。そのことについて、国家やそこに生きているひとびとに対して、わたしは失望したりはしていない。だって、個人の生きる世界や触れられるものは余りにも狭くて小さいのだと、過去にわたしは知ってしまっているから。
大勢の他者のことを薄情だとか期待外れだ、とか。そういう言葉で弾劾する気は本当に起きなかった。時間という人間の手に負えない力があのひとの存在を過去のものへと薄めていくようで、けれど、それはわたしにとっては苦痛ではない。
ただ、我が儘を言うのであれば、寂しい。そう思ってしまう。
「では、出かけましょうか」と仕事を終え、デスクから立ち上がるフリーデント様。
「はい、フリーデント様。準備は失念しておりませんので、ご心配なく」
わたしが先ほどの反省と共にそう口にすると、無理はしなくても良い、と言われた。そういう風に周りから見えるとすれば、気を付けないと、と感じた。何時までもわたしが府抜けていると、あのひとに心配されそうだから。そう思うのは、わたしの自意識過剰かも知れないけれど。
かつて、わたしとあのひとが短い間とはいえ、確かに暮らしていた館。そこにわたし達二人は自分の足で歩いて向かった。同じ宮殿内だからそう遠くはない。今の時代では自分の足で歩くと言うことは非効率的だと言われて可能な限り省略される。けれど、わたしはこの無駄な運動や道程が好きだし、多分、それはフリーデント様も同じだと胸を張って断言できる。
その誰も住み着いていないのに手入れがされ続けている館の前に、小さな墓標がある。時代遅れな、故人の名前と生きた期間だけが刻まれたオブジェクト。きっと、遙か未来には埋もれるか、誰かの不利益のために取り払われるであろう小さなお墓。それでも、あのひとを愛するひと達が生きているくらいの間は、きっとそこに静かにあり続けるのだろう。
そこが、あのひとがこの世界に居たのだという確かな証のひとつ。非科学的だと言われるかも知れない。けれど、もう記憶の中にしか居ないあのひとが、ここに来ると随分と近くに居るように。あの優しい気配を、肌で感じることが出来る気がするのだ。
歩きながら、こう考えた。そうだ、日記を、あるいは、物語を書こう。古くさい紙媒体の本に、古典的で使いづらいペンで。あのひとの物語を。そして、わたしがあのひとに伝えたかった何かを書き記そう。
誰のためというわけでもなく、自己満足のために。そういうナンセンスな手間暇なんてものに、愛着なんて感慨を抱ける生き物なのだ、わたしは。
幸い、あのひともそういうものを残していたらしい。わたしにも秘密にして、その館の机の引き出しに隠していた。そこから一部分を拝借して、わたし個人が必要なものを記録する何かを作ってみよう。どれくらいの時間が必要かは分からないけれど、必ず書き上げようと決めた。
デジタルデータでなければ、何時かその記録は色褪せて、消え去ってしまう。けれど、それもいいだろう。長い間存在するものだけに価値があるとは限らない。そういう美しさや尊さも、許される時代があってもいい。そう思った。
着いた。あの懐かしい場所に。
だからと言って何か特別な儀式を行うわけでもない。ただ、細やかな花束を備えて、その墓石の前に黙って立っていた。それだけのことで、良かった。あのひとの気配を幻影であっても感じ取れれば。
やがて名残惜しく、本当に後ろ髪を引かれるような思いを抱きながら、あのひとの幻影に背を向け、また来た道を戻る。そんなあたり前の営みがわたし達を待っている。これからも、何度でも。それはきっと、価値のあることだろう。他者にとってはどうでもいいことでも、少なくとも、フランチェスカという人間を構成する大部分となっている。
帰り道にフリーデント様はわたしの歩調に合わせ、こう尋ねてくれた。
「身体は大丈夫かしら。移植された心臓が拒絶反応を起こす可能性は低い、とは分かっているのだけれど」
「えぇ、大丈夫です」
わたしは胸に一瞬だけ手を当てた後、フリーデント様を安心させるように笑って見せる。過去のそれより、上手くいったという自信があった。
だって、わたしを生かすこの心臓は、あのひとが遺してくれたもののひとつなのだから。
この心臓が動き続ける限り、わたしは生き続けることが出来る。
Heuristic Necrosis 城崎鶺鴒 @KizakiSekirei9
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