4-3

 こうして、私は残されたリッターに搭乗することに決まった。周囲のひとびとは当初は気乗りしないようだったけれど、数値というものには弱い。理論的に反論が出来ないから、いっそ開き直って任せてしまえ、という雰囲気にさえなっていた。


 私は普段の質素な服装でも、ましてや公の場に出るような華麗なドレス姿でもなかった。まるで、実用性しか考えなかったかのように体にフィットする純白のスーツ。試験用に作られたであろうその上に、騎士の甲冑のように複数のプロテクターを装着している。それらが必要に応じて血管を圧迫することで、機体内部で相殺しきれないGに襲われた搭乗者の意識がブラックアウトするのを妨げるわけだ。お洒落だとか、着飾ることに関心は薄かったけれど、どんなドレスやメイクよりも、今の自分の格好が似合っているように思えた。


 機体に火を入れる。動力がその甲高い音を心臓音の代わりに上げると、私は身体の内部から擽られる様な感覚に身震いした。シミュレーションとは、身体への負荷がやはり違う。けれど、あの子を殺めさせるために私を凌辱したあの感覚とは違って、いっそ自分が生まれ変わってしまったような清々しい気持ちだった。


 あぁ、これか。ルーデルが何時の日か言っていた、彼をとらえて離さない最高の一体感とやらの正体は。自分を迎えにやって来たような。リッターが待ちかねていたとでもいうような。そんな一体感。人馬一体とか、笑わせる。それよりも高次元の。ありもしないリッターの五感が私に伝ってくるようだ。


 網膜に仮想現実が投影される。モニターのような機器などなくとも、私の視界に機体と自身のコンディションが表示される。そんな中に、格子に囲まれてメルクーアの顔が、映像が視界の端に追加された。


「この艦とは一折回線がつながるように設定したけれど接続に問題ないようねぇ。アンチナノマシンはリッターに関する必要な信号を阻害していない。貴女専用に作ったものとはいえ、中々にお利口さんじゃないの。こちらでもモニターしているけれど、調子はどう」

「すこぶる、いい。あぁ、いっそのこと私の意識をこのリッターに移してしまいたい」

「成程、薬物でも摂取したような口ぶりで何より。武装の点検は」


 恍惚とした私の声をあしらう彼女。私が意識したことで無数の機器の状態が視界に現れてきた。脚部に増設されたブースターという異物に対して、機体がエラーを訴えたので、私はキーボードを呼び出してプログラム言語を何行か書き加えてやって黙らせる。それ以外はリッターの基本仕様だったからか特に障害もないようだった。


 武装は、対艦装備としてライン争奪戦で効力を発揮したレールガンを右手に九百発。左手には口径百二十ミリメートルの短機関銃が二千発。軍艦相手は厳しいかもしれないけれど、生身の人間はもちろん、同じリッターの装甲くらいなら十分損傷を与えられる筈。


 それをさらに腰部左右に一丁ずつ装備して継戦能力と瞬間火力を底上げした。腕部には対人制圧用の電子銃があったけれど、相手は高確率で人工物の塊だろうから出番はない。そして、脚部ブースターの水平尾翼の裏側に宙対宙長距離ミサイル計六発。誘爆が怖いので使い捨て同然にさっさと放ってしまおう心積もりする。それらを点検しつつ私は尋ねた。


「近接専用の装備は、ないの」

「対リッター戦を想定して、かしら。解体作業用の超音波振動カッターを延長したヴィブロブレードならあるけれど。でも、貴女にケンドーとか、フェンシングとか、そういう棒振りの経験があるの。……ま、いいか。機体のバランスを崩さないのなら付けておきなさいな。どうせ、下手に艦内に残したって使い道ないのだしねぇ」


 私は画面内のメルクーア、そして新たな仕事を増やされたために外部であわただしく動き回る整備担当者に礼を述べた。やがて、メルクーアの隣に新たな格子が追加された。

「そろそろ始めるぞ」と表示されたフォッシュが口にし、「比較的に敵艦が少ない場所を探したが、この惑星周辺ではどこでもたかが知れているな。ティンダロスを撃ち始めたら敵味方関係なしに捕捉されるだろう。前皇女殿下、そちらへもリアルタイムの情報を伝達するから、適宜参照してくれ。まぁ、君を射出するのはライン中央部への穴あけに失敗したときか、あるいはこの艦が敵の接近を許した土壇場だろうが。あぁ、それと、だ。人類統一連合艦のいくつかに応援に参加してもらえる。名前を知っているかどうかは知らんが、デスパレ・ジルベルスタインという今回俺と共に派遣されたかつての元第六艦隊の提督だった人物だ。正直、俺はそこまで交流がなかったから不安だったが、本人諸共指揮下の五百隻を応援として寄越すことを快諾してくれた。ただ、彼が率いる艦隊は人類統一連合では稀有な有人艦隊だ。お世辞にも練度は高いわけではないし、何より味方の犠牲上等の戦法は出来ないから期待はするな」

「あら、凄いじゃないの。貴方、存外顔が広いのねぇ」


 フォッシュ側の格子に、彼のデスクを覗き込むようにメルクーアが入り込んだ。あぁ、向こうは互いにそう離れていない距離にいるのだったわね。自分だけが孤立しているようだけれど孤独感なんかはこれっぽっちも湧かなかった。


 強いて言えば、もう一度フランチェスカに会いに行くべきだった。そんな悔恨の根が残った。でも、私を含めてこれからに備えた誰一人余分な時間を過ごす余裕がなかったから贅沢は言えない。どうしても彼女に会いたければこの艦と私自身が生存するしかない。例え、あの子が目覚めなくても。


 フォッシュに追い払われ、また個別の格子に包まれたメルクーアは不意に真剣な顔になった。何か、大事な話がしたい。そんな雰囲気。私は彼女を見つめた。


「フリーデ。最後にもう一度言う。あの子のこと、あまり自分を責めないで。もし責めたいのなら、私なんておあつらえ向きよ」

「何を言い出すかと思えば。何故、そんなことを急に」

彼女が纏う後ろめたさとでも言うべき匂いを感じ取って私が目を細めると、彼女は私から視線を逸らさずに、どこか震える声で、言った。

「私は少なくともこの資源惑星に何かあるらしいことは薄々と気づいては、いた。ナノマシンを利用して人間の遠隔操作の類することは出来るかも、と想像くらいは。そもそも、貴女達帝国に近づいたのだって、自分の家に伝わっている現代には忘れ去られた与太話達が正しいかどうかを自分の手で確かめたい気持ちがあったから」


 彼女は語る。メルクーア・レイヤードという一個人の物語を。


 曰く、子供はあらゆることに対して無知であって、自分の周囲を取り囲む物事に対して逐一何故、と問う生き物だと。けれど、大人になると皆がそれはどうでもいいことだと、無数に周囲に転がっている彼女の興味関心は悉く詮無きことだと嘲笑するようになった。それは自分が我慢ならなかった、と。


「だから、私は意識的に精神を固定することにした。もちろん、内面だけじゃない。外面なんて幾らでも見繕える。金なら、幾らでもあったから。使ったって増やせば良いだけだし、自分の年齢を一定の時期のままに保存することに金も、時間だって喜んで費やした。程々に働いて、好きな時間を飽きない好奇心を満たすことにした。周りの人間達は物を知っているような面をして、どうしてって数度も繰り返せば答えられなくなる奴ばっかり。私達の生きる世界にはこんなにも不明な物事が多く存在しているのに、そういうことを一々知りたがる私のような人間は珍妙だと嘲笑される。それは、どうして?」


 自分語りをするメルクーアの姿が、何故だか痛々しいものに感じられた。このひとは本当に何故、と問うているのだと分かって、余計に。多分、何らかのリアクションを欲しているだけのようで、私も適当な答えを提示する。


「忙しいからでしょう。疲れるからじゃないの。だって、この世界の仕組みを解明することより、労働とそれ以外の自由時間をどう使用するかを考えることのほうが有意義だとされているようだし」

「誰がそう決めたのかしらねぇ、それ」

「さぁ」


 曖昧に返事しながら私も思う。私達の思考は、必ずしも自分の内からその全てが生み出されているわけではない。外部からの影響を受けて築かれている。だからこそ、一定数の人間の間に築かれる同義や規則といったものはどこからやって来たのだろう。彼女は言う。


「人間が発信する情報にはベクトルが付随する。それを発信した人間の意思が。だから、それを確かめないと私は気が済まない。何故、自分が知らないのか。そして、分かってもどうして解せないのか。私は、死ぬまでに気になること全てを片付けないと気持ちが悪い。どうやったら、そういう強迫観念めいたものを捨て去れるのかしら。フリーデなら、そんな私の歪さに一つの解をもたらしてくれるかも知れない」

「それが、帝国に接近してあなたの一族が現代にまで残してきた秘密を明かそうという動機。あるいは、私に親しくする理由?」


 自分に無いものを、他人なら持っているかもしれないから、か。私がそう言うとメルクーア・レイヤードは笑った。苦々しさの混じった笑み。


「そういう、不純な動機の塊なの、私は。あらゆる夢想を興味本位でかき回して楽しむために、馬鹿げた額のお金を使ってこんな風に見た目を維持して、パートナーも作らずに自分の懐を温める続けるためにずっと商人として生きてきた。そんな私のことを信じろというほど厚顔ではないのだけれど、フリーデ。貴女は、多分、この歳になって初めてできた友人なの。随分と年齢差もあるし、下心ありまくりの出会いだったけれど」

「今では、本当に大切とか、そういうことが言いたいの」と問うと、

「えぇ」と彼女は即答した。断言して見せた。私は、客観的に見つめる自分は馬鹿正直に他人を信用するなとせせら笑うのだけれど、それでもこの友人を信じてみたいと思った。だから、聞く。彼女にどういう感情を抱くかをはっきりさせるために。

「もう一度問うわ、メルクーア・レイヤード。貴女は一切を完全に予測できた?それを事前に塞ぐことが出来たと、胸を張って言えるの……」


 私が問うと、彼女は目を伏せた。


「私は、自分が思うほど優秀じゃなかった。だから、あなたが大切にしているあの子を、フランチェスカを」

「ずるいわね、それ。だって、今ひとつ憎めないもの」


 私は微笑んで見せた。そう答えて見せた。彼女を恨もうとは、思えなかったから。


「あなたも万能じゃないのね。私もそうだから、痛いほど分かる。もっと上手くできたのではないか。そういう後悔ばかり。けれどね、それでもそれなりに必死に生きてきた筈なの、誰だって。そこまで上手に生きていくのは、人間にはまだ難しいし下手に自分に期待するべきではないのかも。だから、それを非効率的だとか無価値とか、上位者気取りで私に言わせたあの思想を憎むことにした。それを悪と解釈することに決めた」


 ひとびとを惑わす機械的な功利主義のシステム。正体不明のネットワーク。それを破壊する。自分の失ったものを取り戻すなんていう気障な理由ではない。今度は私が奪い、犯す番だ。そういうエゴ。例え身勝手だろうと誰かに罵られても過去の自分に後ろ指を指されようとも構わない。本当に残すべきものを守り抜くことに終始しようと思う。故に、私は自分の苦しさの原因をメルクーア・レイヤードへ転嫁することはしない。


「何だか、出会ってから随分と大人びたのねぇ、フリーデ」


 老いることのない女性はどこか眩しいものを見るように私を画面越しに見つめた。何故だか、彼女の瞳だけが長い時間を経過してきた証のように私には見えた。何かに納得したかのような口調で少女の姿の女性は言う。


「ふむ。自分自身を守ることと変化しないことをはき違えていたのかもしれないな、私は。真に価値ある物は、衰えることはない。不変な物こそ尊いのだと信じてきたし、それは今でも変わらない。けれど、変化してしまうものにも、コンスタントなそれとは違う尊さが、あるのかも知れない」

「随分と年より臭いことを言うのね」と私が笑うとメルクーアも破顔して、

「帰ってきなさい。そのきれいな顔、何度だってぶったたいてあげるし、やり返すことも許す。何時の日か、若い頃の自分は綺麗だったって。そんな後悔を私の前で吐いてみて」


 彼女がそう言ったや否や、艦内とリッターの表示に警告音が。そして、ひとびとの顔に緊張が走った。その中では唯一人落ち着いた印象のフォッシュが事務的に報告する。


「ラインの軌道円周上に乗った。ティンダロスが射出体勢に入る発射まで三十秒」


  なし崩し的に艦の指揮を丸投げされた彼がカウントする。それと同時に無数の艦船が私たちを中心に表示された。それらの光源を数える気にもならないあり様。主砲の発射準備に大量の熱をまき散らしたために、帝国のステルス技術を備えたこの戦艦がいよいよ補足されたのだ。永遠のように狂おしいほどの三十秒間の末、カウントがゼロへと至る。


 振動。


 リッター越しにも艦が大きく圧倒的な力によって力任せに揺すぶられる様を体感する。さらに数秒のカウント。着弾、今。


 セミヌードの腹部に搭載された無数の望遠レンズが、鉱物に覆われた静寂の世界の表層を一筋の雷光が問答無用に抉る様子を捉えた。その映像はリッター内部にも転送されて私はそれを凝視。一瞬、目がつぶれんばかりに発光。それをリッターが明度を調節してくれたおかげで細部を観察できるかのように思われたけれど、地上数千キロメートルに渡って巻き起こった粉塵が邪魔で、弾頭が綺麗に貫通したかどうか確かめようがない。


 しかし、人間には不可能であっても私たちを乗せる機械は別。セミヌードに搭載されたコンピューターはティンダロスの消滅した位置から跳ね返ってきた光波や電磁波から着弾してどれほどの深度へ自らが産み落とした番犬が達したのかを把握する。二千三百六十三キロメートル。ライン中心部への道程ほぼ半分で一射目は潰えたらしい。誰もが呆気にとられる中、フォッシュが叫んだ。


「時間が惜しい、次弾装填を開始しろ!最低であと一発。いや、二発は撃つよう心構えをしておけ。装填時間の見積もりは?」

「やはり一時間弱は掛かる。何かを成すにはそれに見合った時間が対価として必要ということかしらねぇ」


 分かっていたことだけれど、といった口調で答えるメルクーア。今から一時間、現在四方から殺到しつつ約千隻の帝国艦の攻撃に耐えるしかない。もはや今更加速してこの惑星から離脱を図ったところで寿命が一日も伸びるかどうか。すると、私たちに最も近い比較的小規模の艦隊が一斉に反転し始められた旨がオペレーターによって報告される。フォッシュが何らかの通信を受け、やや声を弾ませた。


「デスパレ・ジルベスタイン大将、間に合ったか!」

「うむ」と高齢だが精気を漲らせた男性の声だけが響き、「主役は遅れて、というわけには現実でいかんのでな。総数は五百二十隻だ。お前の好きに使え」

「自分が、ですか?」

「生憎、私には防衛戦の経験は少ない。屈辱だが事実は事実だ。オリヴィエール・フォッシュ少将、お前の方針に合わせる。そちらから無造作に与えられたデータにこちらは困惑するしかなかったが、そのハダカネズミをそれまで守り切れればそれ良いのだろう」

「では、お言葉に甘えます。そちらへデータリンクを繋げるコードを送信します。詳細は添付したドキュメントを参照して下さい。あと、言い忘れそうだから先に言っておきます、大将。援軍、感謝します」


 彼がそう言うと同時、小規模とはいえレーダーに捉えられた艦影群を示す交点が味方を意味する青へと変色していった。最低で一時間。運に恵まれなければ、私達は自爆用の無人艦八十五隻とデスパレ大将率いる五百二十隻とで決して短くない時間を駆け抜けることになる。間違いなく人生で最も長い二時間を。指先を用いてキーデバイスを叩くような荒々しさで格闘していたオペレーターの一人が報告する。


「観測結果、報告します。本艦を基準とし、七時方向から来る七百隻規模の遊撃艦隊と十二分後に接触。その三分後には三時方向より百隻規模の小艦隊が。そして、現在から四十三分後には、千隻規模の集団が六時後方より到着します」


 淡々と語るように努める声に含有される僅かな動揺。この時点で次のティンダロスで目的を達成し得なかった場合、自分達の命運がどうなるか。それが宣告されてしまったような気分に誰もがなる。メルクーアですらその表情を強ばらせていた。しかし、そんな船内とは違う空気を吸っているかのような人物が、

私を除いてもう一人。


「一先ず、その七百隻の遊撃艦隊を潰そう」とまるでレストランのメニューの前菜をオーダーするような軽妙さで、「デスパレ大将、早速働いてもらいます。連戦になるのでしょうからそのおつもりで。有人艦隊四百隻は本艦を起点に二時方向へ全速前進を。正面突破後、敵への被害の有無を問わずにそのまま前進を継続。時間にして、現在から二十二分後に百六十四度転回。転回終了後に立案書通りに最高速で前進を再開すれば、そこから八分後には千隻の軍勢の後方へ付く計算です。挟み撃ちにするほどの戦力は無いでしょうが、四十五隻の自爆艦と大将指揮下の艦隊で時間稼ぎを、いや、千隻の敵艦隊を撃滅します」


 そう一息に指示を出した彼は何時の間にか用意されていたデスク上のコーヒーを煽るようにして飲んだ。そして、デスパレ大将へのより詳細な指示をキーボードで打ち込み、転送。一息つくと、


「さて、聞いていたとおりだ。商会の各員にも仕事を頼む。八十五隻の自爆艦の約半数を使って敵の第一波の生き残りと第二波を仕留め、第三波を残された全戦力をぶつけてでも対応する。厄介なことに、前皇女殿下の報告を聞く限り、敵艦隊は味方どころか自分の犠牲もいとわないような状態であると予想される。壊滅させなければ、攻勢は終わらない」


 小声でフォッシュが、これが真っ当な相手なら二割も削れば一度は引いてくれる筈だが、と漏らすのをリッターが私に届けてくれた。そんな弱音はおくびにも出さず、彼は続ける。


「進行速度を見る限り第一、二波の艦隊は装甲が薄い小型艦だから、自爆攻撃でも一定の効果が期待できる。デスパレ大将らとの戦闘で弱った第一波の艦隊のルート上に十隻の自爆艦による機雷原を事前の指示通り二セット、予定通り配置してくれ。自爆艦は起動時以外を休止状態で放置すれば熱源を補足されない。これで第一波はどうにかなる、が。第二波をどうしたものか……。残された有人艦百二十隻は数的には有利だが、やはり二十隻程度の無人艦を先行させ、それを盾としつつセオリー通りの正面からの打ち合いに終始する。頃合いを見て無人艦を敵艦に突入後、自爆させる。無論、相手の出方に会わせて適宜補足指示を行うが、基本はこれで行く」


 私が見るに、フォッシュの不遜な姿勢の半分はハッタリのよう。ことはそう単純ではなく、イレギュラーな要素が多すぎて場をコントロールしきれるとは思えない。


 けれど、極限状況の人間にはそんな些細なことなどどうでも良い。自分達に淀みなく指示を下す彼の態度に希望を見たとでも言うように、セミヌード内に余裕が生まれた。指示を下される者達の感情、特に、その恐怖を如何に軽減させ、最適な緊張状態を演出するかに指揮者の真価が問われる。その点、オリヴィエール・フォッシュはまずその第一段階を演じきったことになる。


 だが、意地を張るべき本番はまだこれからだ。その仮面を、指揮者は被り続けられるだろうか。そう一番に感じているのは、多分、彼自身なのだろうと思う。

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