3-6

 友人的な立ち位置である人物の訪問の後、まさにその夜。何ら明るさを持たない惑星表面を無数の人工光源が満たす時間帯になって、私の自室にフアンチェスカが儀式的なノックすらせずに入ってきた。彼女にしてはやや落ち着きを欠いた様子に私は少し驚かされた。


「どうしたの」

「おそらく驚きになるので、事前に心の準備をお願いします。妹様が、皇女殿下がおいでです」


 それを聞いたときの私の表情はどういうものだったのだろう。おそらくではあるけれど、一周回って笑うしかなかったと思う。乾いた笑いで、だけれど。


 女二人で慌てふためく様を後から客観的に捉え直してみるとなかなか喜劇的だ。相手はこの国の重鎮なのだからそのときの服装は適当だろうか。いや、むしろ下手に相手方を待たせる方が問題ではないのか。そもそも多忙な身の上で私のような半ば世捨て人の館に自由に訪問なんて出来るのだろう。昼間のメルクーア様の御訪問時に不覚にも手元にある中では最高のグレードの茶葉を使ってしまいましたがいかがなさいましょう……等々。当の本人である私達からすれば笑っている場合ではなかったけれど、自分は皇女時代だったらあり得ないほど弛緩していたのだな、と後から思う。


 見た目と機能美を両立させた強化ガラス製の窓越しに、無数の衛兵と重鎮移動用の送迎車が私の館を取り囲んでいる様が見えた。国家に敵対的な組織なんかに軍隊が突入を仕掛ける直前の場面のよう、と半ば現実逃避気味に想像した。


 私は緊張と混乱を振り払い、客室で起立したまま、フランチェスカが皇女こと妹をこちらへ連れてくるのを待つ。無数の靴を立てる音を聞いたけれど、実際に客間に足を踏み入れたのは、フランチェスカとフリーデント・フォン・フォーアライターの二人だけだった。ただ、護衛体勢を完全に解いたわけでもないらしく、フランチェスカが閉じる扉の奥に衛兵らしき影が一瞬見え隠れした。


 目立った意匠をもたない白磁のドレスに身を包んだ姉と、無数のレースがあしらわれたスノーホワイトのドレスを着こなす妹。似ているようで、どこか対照的な姉妹が、再び相まみえた。


 彼女を部屋に何とか招き入れたのは良いけれど、先の出来事が尾を引きずって、互いが互いに強く出ることは出来なかった。まず手始めに、姉は社会的な身分では上の筈の妹に、着席を促したけれど断られた。逆に、妹は血縁上の義理を優先したのか、姉に着席を求めたものの私が先に座るのに躊躇いを見せたおかげで、さらなる膠着状態が見られた。実際には一分も互いに立ったまま見つめ合っていたわけではないのだろうけれど、姉妹が同時に座るという、何ら面白みもない結論に着陸するまでの時間すらやけに長く感じられた。


 着席してからも互いが相手の顔を、自分の映し鏡のような姿を瞳に投影しながら口を開くことは出来なかった。すると、給紙役のフランチェスカが無言で紅茶を運んできた。凍結保存でもされたような姉妹の間に心地よい茶葉の香りが漂うけれど、何の品種なのか判断するほどの余裕は生憎私にはなかった。救いを求め、カップを置いてすぐにでも裏方へと撤退しようとするフランチェスカを、私はさりげなく見つめた。


 ――どうすればいいのかしら。

 ――とりあえず当たり障りなく訪問理由でもお尋ねになっては。


 彼女が本当にそうアイコンタクトでそう答えたかどうかは曖昧だけれど、そう自分に言い聞かせた。そうすることで私は自分に会話の切り口となる勇気を無理矢理に奮い起こさせる。正直な話、そういう義務感や暗示でもなければ重圧に耐え切れそうになかった。皇女を辞してからどうも、自分のメンタリティが弱体化したような気さえする。


「……えぇと、お忙しい中ご足労頂き、我が身に降りかかる光栄に恐縮とともに感動を覚えております。さて、本日はどういった御意向で私の元へ参れたのでしょうか」


 なるべく自然かつ礼節を弁えて言葉を紡いだつもりだった。しかし、言った直後に何か自分がしでかしたらしい、というのだけは分かった。それまでは緊張しつつも以前までのまだ私たちの間柄が拗れていない頃の表情に近かった。でも、私のどこか他人行儀な言い方に彼女の瞳が失望と寂しさとを浮かべたのを私は捉えていた。彼女にしては刺々しく、


「それは、もはやそういった関係しか私たちには残されていないということですか」


 妹の言葉が何を意味するのか分からなかった。私のそんな疑問の匂いを感じ取ったのか補足するように、


「言葉を飾らずに言うのなら、これからは互いの体面だけを保っていきましょう……そういうことか、という意味です」


 あぁ成程、と今度こそ把握した。そして、妹が具体的に私にどういう返事をしてくれたら喜ぶのか。それも明快に思えた。ただ、私の洞察が間違っていたら以降の会話が破滅的に食い違うので、一応の答え合わせを兼ねて尋ねてみる。


「つまり、ね。貴女は私との関係を以前のそれ。とまでもいかなくても、せめて普遍的で落ち着いた姉妹関係が構築できればよいと期待している。私はどうなのか、それを聞きにわざわざ来た、と?」


 私はそう口にすると、フリーデント・フォン・フォーアライターの目にふと視線が吸い込まれた。その瞳に映った自分の姿が不思議なくらいに鮮明に見える。彼女はイエス、とか答える代わりに私を見つめたまま、


「どうして、お姉様は分かるのでしょうか。昔から不思議でなりません」

「なにが、かしら」

「私の言いたいことが、です」


 貴女は素直すぎて思考が分かるやすいから、なんて茶化すような雰囲気ではなかった。彼女は、妹は本心から私にそう問うていた。その証拠に、その目には彼女の内心を反映するかのように、暗色系統の光が見え隠れしているように私には感じられた。不安、葛藤、疑念、劣等感。そういう、フリーデント・フォン・フォーアライターには縁遠いと私が勝手に思っていた代物が渦巻いていた。彼女は言う。


「自分が、そこまで貴女ほど出来た人間ではないことは分かっています。狭い籠の中で周囲から懇切丁寧に育てられてきました。故に、知らないことも解せないことも。そういう、私の知らない視点が多く存在することは分かっているつもりです。でも、だとしても、不公平ではありませんか」


 どこか自分を卑下するような響きが底には含まれていた。おそらく、彼女自身何を、どう言いたいのかはっきりしていないのだと思う。私は急かさなかった。なにが、とは尋ねなかった。それは、目の前の少女が自分で対話して答えを出すべき迷いだと感じたから。彼女は、私を睨み付けた、つもりだと思う。私に多少嫌悪感を抱かれることを覚悟して、言った。


「貴女は、私のことを容易く読み解いてしまう。いや、私以上に何でもそつなくこなされてしまう。努力という後ろ盾があることは分かっていますし、お姉様がかつて皇女になろうとしていた頃のお姿も見てきています。なのに、私は、貴女の、お姉様のことを理解することが出来ない。理解しようとは、受け止めようとは思っているのです。私達は、あくまで血が繋がっているだけで、その幼少期をともに過ごしたわけでもないのだと。私たちは根本から何かが異なっているとも。血が繋がっているだけで親しみを覚え、家族だと貴女のことを一方的に好いたりすることが、自分の考えが古典的で信仰的なものに由来するだけであることも。そして何より、貴女にとって私の勝手な感情が重荷であることも。貴女のことを、理屈としては分かっているつもりなんです。頭では分かる筈なのに、何かが、あと一歩のところなのに阻んでいる。どうしてよりにもよって貴女は血の繋がっていない女性を……」


 そこまで淀みなく続いた言葉が不意に打ちきられる。タブーに、私のおぞましい幼少期に触れてしまったと、彼女が思い至ったから。条件反射と防衛本能とが邪魔をした。そうなってしまっては話が進まない。普段なら、私が自分の身を切ってその先を言ってあげる場面。今回もそうしようかしら、と思ったのだけれど、妹の決心は固いものだったらしい。今回は、言い切った。真っ直ぐ私を、その内部まで透過しようといわんばかりに直視して。


「貴女はどうして、血の繋がっていない女性に情愛を注ぐことが出来るのですか」


 そう口にすることが、フリーデント・フォン・フォーアライターには大仕事だったみたい。口に出来て安心するのは一瞬。すぐ様、犯してはならない領域の侵犯を自覚して、彼女の顔は青ざめた。


 その問いの投げかけは、私自身が分からないという烙印を押した議題のぶり返しに過ぎなかった。でも、今更になってフリーデントという妹が、そこまで食い下がる理由が私にはなんとなく読めてしまった。私は彼女と違って小賢しい人間だから。


 彼女は第三者を納得させるような理屈を持たないけれど、私のことを生者としては唯一の家族と見なしている。それが古くさい血縁という概念に対する崇拝であるとしても。そして、それを彼女の中で完全な形に整理するためには私という人間の深淵を。血の繋がっていない女性に病的なまでにすがっていることを受容しないといけない。そうしなければ、彼女自身が私という奇怪なバックストーリーをもつ人間を尊重しつつ、何の隔たりなくその胸に飛び込んだり、互いの胸の内を吐露し合ったりすること何て出来ない。別に真実を明らかにすることが正しいのだ、とか、そういう陳腐な話ではない。極論を言えば、これもリスク管理の一種。いずれ、そういう遺恨が毒牙を向く可能性があるのなら。例え僅かな確率であったとしても、長い時間の経過でその外れくじを何時かは引く可能性は相対的に高くなる。だから、こういう問答のまねごとを通して、将来のリスクの芽を事前に摘み取っておかなければならない。


 私は考えてみた。何故、私が母さんのことを愛しているのか。自分を偽っていた女性のことを。考えに考え、論理をこねくり回して展開する。けれど、そうすればするほど出鱈目な答えしか浮かばなかった。私のような人間の妹になることを、良いことだと見なした妹。そんな何の見返りを求めない愛情を自分に捧げる少女に。自分を好いてくれるひとに対する責務が私にはあるような気がするのだ。


 だから、私は私なりの答えを、探る。なるべく、夢の中の私。あるいは、過去の、偽りの母と笑顔で暮らしていた時間の自分を、今の自分に一時的に上書きするような感覚で。


「私が母さんを愛しているのは――私に愛情を注いでくれたから、かな」


 言って、そう思いついてしまったことを後悔する。馬鹿じゃないの、私は。こんな、戯けた論理に自分自身納得しているとでも。自分でもそう思った。こんな間の抜けた答えが、他人の娘をあたかも自分の子として育ててきた女性に対して、不気味さよりも好意が勝る理由になるとでも。ただ、可能な限り自分のナイーヴな。羞恥心を度外視しての発言なのだからこれ以上補足も待ったも何もない。だから私は続ける。自分で自分がどういう人間なのかそう問いかけながら。考えながら話すことにした。自然、妹に話しかけると言うよりは、自分に話しかけるという性格が強くなる。


「共依存や愛着理論とか、ストックホルム症候群だとか。そういう単語を使えば第三者には論理的に、それでいて自分を賢い人間だと示しながら説明できるのだろうけれど、そうもいかない。私自身、説明するのは難しいわね、これ。まず、幼い私が母さんを、血の繋がっていない女性をどう思っていたか、というのを正直に言語に翻訳するというのなら、確かにどこか違和感はあった。母親、の割には一歩引いていたイメージがあったし、私の出生というトピックについては、子供なら似タブーであることをなんとなく分かっていた。けれどね、それでも自分に帰る家があって、例え歪であっても私を、あのひとが本当はどう思っていたのか分からないけれど、自分に愛情を注いでくれたことはなんとなく、分かるの。分かってしまったから、偽物の母親でもあのひとを否定することは出来ない。短いとはいえ、自分の終わってしまった幼少期を、良い思い出という瓶に詰めておきたいだけかも知れないけれど」

「例えそれが、偽りの愛情であったとしても、ですか」


 妹は、それこそ私が最初に述べた専門用語で表現できるような嘘の感情ではないか、と尋ねた。確かにそうかも、とは自分でも思った。私は何かマインドコントロールを含有する教育を知らず知らずの内に受けてしまっていて。現在にまで根を残す私の人間としての不安定さは心理学なり何らかの学問で有り触れたケースではないとは言い切れない。だが、


「別に真っ赤な嘘でもいいじゃない。愛情に本当とか、嘘とか。そういう区別があるの」


 私は本心からそう口にした。だから、なのかしら。妹は絶句してしまった。私なりの回答が完全に彼女のキャパシティやレンジから外れることは予想通りであったから、私はショックも焦燥感も抱くことはなかった。自分の価値観が一般的でないことは、私自身が強く自覚していること。あるのだろう。正しさに裏付けられた、清廉潔白な思想や価値観が、どこかに。けれど、少なくとも人格形成の大部分が行われたその期間に、私の手の届く位置にそんな純潔さはどこにもなかった。


「こんな考え方は、思考停止に過ぎないのかも知れないわね。私には、本物とか偽物とかの区別がよく分からない。現実世界における結果さえ良ければ、見えない部分なんてどうでもいいって。そう思ってしまう手合いなのね、私は」


 私にとっては、渾身の結論なのだけれど。自分の、我が身のズレ、というべきだろうか。その誤差を単純な集団生活の多恵だけではなくて、自分の精神衛生上何とかしたいと思う。是正できなかったから、今の自分があるのだが。そういう思いは、伝わったらしい。妹は何故か泣きそうな顔になった。


「なんで貴女が泣くの」

「お姉様こそ、どうして泣かないのです」


 分からない。だから正直に聞き直した。ここで自分が理解できないことを置き去りにしてはこの対談は意味を失うと思って。


「悲しいことなの、こんな感性を持つことは。常識的ではないとは自覚しているけれど、泣いてどうとなるでもない。ひとって、本質的に変わる生き物なのかしら」

「それは、諦めきっただけです。どうとなるでもない、という結論に至るまで貴女は疲れただけです」


 疲れた、か。そういう見方もあるのか。確かに一理はある。自分の汚点や欠点を改善していくことを、常に自分に課し続けていたら潰れるのは目に見えている。だから適当なところで切り上げて諦観的な結論に理性を丸投げした方が楽。妹は私のことを自分に投影するように語る。


「嘘偽りを憎むべき悪とまでは言いません。でも、それらに依存するべきではありません」

「と、言うと?」


 子供みたいに、どうして、って無邪気に聞く。日常生活でどこか意図的にシャットアウトしている物事がまるで魔法の箱のように溢れてくるのだから、逐一、聞いて確かめないと。だって、私、どこかズレているらしいから、それも致命的に。


「現実社会でそれらが有効であることは認めます。この私だって皇女という一種の仮面を着こなすどころか時として操られることだってありますから。けれど、そういうペルソナを乱用すれば何時か人間は誠実さを失います。他者に対して。そして、自分に対しても」

「他者、というのは分かる。でも、その矛先が自分に向くというのが、ぴんとこない」

「朧気には分かっているのではないですか。お姉様は、自分のことは自分が一番よく分かっているなんて、自惚れてはいないでしょうし」


 諭すようフリーデント・フォン・フォーアライターは見つめた。自分に責められる悪夢を少し柔和にしたような印象。私のことを理解できないと妹は言った。けれど、この瞬間は。いや、このときから、彼女はジークフリーデという個人を把握し始めたよう。


「私には、時々本当の我、というものが分からなくなります。こうして思考している脳内の機能が作る私が真なのでしょうか。何かに対して言い訳をする思考があったとして、けれどそれは間違いなく何らかの外的要因に対する反応が背後に、例えば後ろめたさなんて言う形で存在している。人間皆が深層心理を自覚しているかどうかと言えば怪しい。いえ、脳科学の話をしたいわけではありません。もう少し俗な話です」

「私達は様な要因から自分を捻じ曲げることで集団に適応する。接する相手によって、あるいは自分の立場によって。誰だって大なり小なり多くのペルソナを使い分けることで生きている。そのしわ寄せとして、私みたいに自分のことを正しく認識しきれていない、と言いたい?」


 多重人格なんてものは、文明人にとってはそう縁遠いものではないのです。そんな井戸端会議の一角で行われるような話だった。


 彼女の言いたいことは、私は嘘偽りという後ろめたさを深層的には嫌っているのではないか。幸福感を得られればそれでいいのではないか、なんていう結論は防衛反応に過ぎなくて。真なるジークフリーデ・フォン・フォーアライターが存在するのであれば、可能な限り純粋な幸福感こそを渇望しているのでないか、と。だとすれと、彼女の意見は私の芯となる部分から少しずれている。そう感じた私は補正する。


「いや、私の感性は、貴方の言うような議論の的ではない、と思う。確かに私が私自身を完全に把握しているとは言えない。けれど、私たちの食い違いはもっと根本的なところではないの……。どう言えば、いいかしらね」


 そう言いながら私は自分の頭を、動力源の回転数を上げるべく一人悪戦苦闘を始める。明確な答えがない問題は嫌いだ。自分が確たる何かを築くことが出来てないからか、そういう苦手意識が私にはある。唯一私の中に鮮明に認識されているのは、皇女ではなく、ジークフリーデという一個人として人と接するようになってから思うようになったこと。私と他人は違うということ。そんなシンプルなことが中々に曲者。


 皆誰でも、思想は違う。思考法だって。自分と同じように他者も見たり聞いたりしているのか。それを見極めるには結局、外面しか当てにはならない。いや、もっと子供にもわかるように言うならば、みんな違う風に考えているらしい、ということ。他人が自分の持ちえない価値観に依って生きることを誰もが知識とは知っているけれど、実感やその事実の受容が伴っているかどうかは怪しい。少なくとも、不出来な私は自分というレンズでしか物事を眺めることが出来なかったし、今でも根本的にそういう傾向は変わっていない。だから、ある程度のロジックが整った私は言葉としてそれを出力する。


「貴女が私のことをどうして理解、正確にはどこか完全に受け入れるにはどうしても抵抗が生じるのか。お互いに回り道をしてしまったけれど、問いが簡潔であるならば自ずと式も単純明白な筈だと私は思う」

「揚げ足をとるようですが、一見容易な数学的問いの解決に途方もない時間や式が費やされることもありますよ」

「なら問題ないわね。暴論だけれど、人間は数式ではないから」

 私の屁理屈に妹の涙も沈静化していた。どうもこういう自分にとって都合の良い屁理屈をこしらえることが自分の才能なのかも。そういう意味で、最近の私はメルクーア・レイヤードに影響を受けたらしい。どこか彼女を真似して話すように意識した。他人の思想に依存することの善し悪しは度外視する。

「要するに、ね。貴女も誰に触発されたかは知らないけれど、理知的な体裁に気を取られすぎなのよ。それこそ、本当の自分とやら、この場合は問題の本質を自分で分かりにくくしている。改めて言うと、この問題の根本的な原因はただ一つ。私達の趣味趣向の違い、よ」


 私はそう宣言、もとい解釈すると、もはや冷め切っていた紅茶を一気に飲み干した。半分は開放感から、そして残りはチープで馬鹿げた結論を出してしまったものだなと言う照れ隠しのための動作。そのおかげで穴が穿たれた胃が私に不平不満を喚きたてるのを痛みという形で受け取る。


「しゅ、趣味趣向ですか」


 完全に悲痛の色が失われた顔色の妹に私は首肯した。


「嘘はいけない。本当は素晴らしくて価値あるものだから私たちは大切にしなくては歯車が狂ってしまう……という貴女のメルヘンチックな趣向が私の好みと正反対に過ぎて色眼鏡にかなわなかった。それだけの話。私はそう考えている」


 もはや、これ以上どう転んでももう知らない。煮るなり焼くなり嫌うなり、貴女の好きにしなさい。今の私のような状態を世間一般ではやけくそ、というらしい。挑戦的なきらいがある私の言葉のとげにどこか不快なものを感じてもいいでしょうに、妹は真面目な表情で、


「一先ず、もう少しかみ砕いておっしゃってください」


 下出に出られ、私も数秒前の自分の乱暴な言動を内省しつつ、


「覚えているかしら、私は貴女の憧憬の対象には成り得ない人間なの、という類の話」


 不承不承、といった風合いに彼女の視線を同意とみなして私は続ける。


「貴女は、私の偏見であることは否定できないけれど、純潔さを信念としているからそうでないものに過激に反応せざるを得ないのだと私は勝手に思っている。それこそ俗に例えるならアナフィラキシーショックのように。その点、私はそういう貴女が生理的に受け付けない、汚いものを楽しめる質なの、多分。そういう狡さだとか人間の汚い部分を嫌いじゃないの、私は。ただ、それだけ。極論にすることを通して問題全体を無理矢理に抽象化するなら、そう。狡賢さを認められるかどうかって、話」


 ぶっきらぼうに私は話し終えた。今頃になって先ほどまで半ば悦に入るような形で自分語りを恥ずかしげもなく長々としていたことに、冷静になったとたんに羞恥心が湧いてくる。まさしく若気の至りというやつ。自分は、少しは大人にはなったのだと期待はしていたけれど、文字通り赤裸々の持論展開のおかげでかつてルーデルに指摘されたように、私という人間はその実幼いらしいというあまり有難くもない発見ができたことになる。妹はそんな私を見て一言漏らした。


「今のお姉様が、所謂素の姿、なのですか」


 妹は、私を凝視するような形で困惑していた。まさしく信じられないものを見た、という表情。そう言われて気付く。確かに、彼女の前ではお手本的な落ち着いた風しか装っていなかった。今思えば、姉というか年上の威厳のようなものがかろうじて存在していたらしい。長年かけて妹向けに仕立てたその仮面は、今まさに音を立てて崩壊したわけだけれど。彼女の困惑に応えるような形で、


「そう、ね。本当の自分だとかっていうおとぎ話のテーマ染みた話は置いておいて。プライベートな私はこんな感じ。貴女と話すときは、基本的に言葉や態度を選びながら接していたのは否定できないから、ね。それについては、ごめんなさい」


  私は頭を下げた。それだけのことで十年近い姉妹間の遺恨に寄与することはなんらない。でも、嘘偽りを好いているからと言って自分に向けられた行為に背くようなことをしてしまったことは我慢ならなかった。理由は分からない。例え自分のロジックと矛盾していたとしても。


 それから、私は下げた頭を妹が上げてください、とか言い出す前に勝手に上げてしまった。流れるように、私たちから離れた位置でなるべく会話を盗み聞きすることすら避けようとしていたフランチェスカを呼び寄せて、紅茶のお替りを女王陛下の眼前で慇懃無礼にも要求した。フランチェスカが、冷め切った妹には新しいカップを。私のカップには二杯目を注ぎ、足早に退散していく様を見届け、出し抜けに私は言った。


「私、胃潰瘍なのよ」

「は、はぁ。えぇと……」と彼女の様よった視線は私のカップを認め、「あまり紅茶だとかは、お体に障るのでは」

「死ななければ、安いものよ」


 これも誰かから聞いたような、似たような台詞だな、と思いながら半ば無理して熱い液体とその香りを体内に取り込む。ゆっくりと一分以上はかけて、それでいて本来の美味を堪能する。その代償として腹の中で何かが暴れ回っていたが。


「貴女は、好きにするべきだと思う。私は、こういう人間。だから、血縁上自分より年上だからという理由で無理に敬わなくていいし、そうするべきではない」


 好いてくれるのも、自由。なんて口にするのは自意識過剰だと恥ずかしくなって、私は少し妹から視線を逸らした。


 私の言葉に嘘はない。受け入れられようとも否定されようとも、それでいいと思えた。本当の自分なんていう概念を持てはやしたりしたりはしないけれど、私の寿命はおそらくはまだ自分が生きてきた時間の何倍も残されている。その長い年月を相手にとって都合の良いジークフリーデ・フォン・フォーアライターを演じ続けていては、こらえ性のない私はどこかで破裂する。皇女という立場に慢性的な息苦しさに窒息しかけていたように。だから、近い距離に立ち入らせる人間にはこういう、自分のいかにも不出来な人間か、という弱点を晒して受け手の審判にゆだねようという気になった。妹は、しばらくの戸惑いと咀嚼を、私の暴飲と同じくらいの時間を必要とした。そして、口を開いた。今回は、それを遮る時間や予定といった類の枷は取り払われている。


「これは、私の勝手な趣味趣向の問題ですから、お姉様がどうこうできる話ではありません」


 そう私の言葉を引用して彼女は前置きした。私は静かに、音を立てないように無意識化に唾を喉の奥へと流し込んだ。


 今更ではあるけれど、相手は立派な一国の長。本来であれば私のほうが彼女に進んで恭しい接し方をしなければならない。あるとき、私はルーデルに冗談半分に自分の言葉に背いたら極刑で死刑、なんてことを口にした。さすがに民主的な風潮を色濃く残す帝国で目に見えるような横暴は皇女と言え出来ない。けれど、それが大多数の人間の目には映らない、例えば嫌がらせの類なら好きなほど鞭を振るうことができる。そんな心配は、杞憂だった。フリーデント・フォン・フォーアライターは、私に初めて見せる表情で――いたずらっぽく笑った。


「私は勝手ですけれど、貴女のことを、お姉様として、本気で嫌うことはできないようです。正直、お姉様の趣味趣向といいますか、価値観には心からは頷けない。でも、それでも貴女を嫌う理由よりも、好きになるための因子のほうが、私の中には、多い。だから、もう少し自分自身を納得できるだけの屁理屈を、築いてみようと思います」


 彼女はそう言って、自分の分の紅茶に初めて口をつけた。一口すすって、すぐにカップを皿に置く。


「私には正直、紅茶の味がわかりません。でも、貴女とこうして同じ時間を過ごすことくらいは、できます。それでいいと、貴女は考えていらっしゃるのなら、私がそれに合わせれば良い」


 彼女の笑みは、私の周囲の女性陣の笑顔とは違う種類のものだった。その笑顔を向けた相手も口元や内心の警戒を解きほぐすような、そういう魅力にあふれていた。そんな効用を私も受けながら、


「そう、ね。そして私は、今までのように落ち着いた――体面をたどったお姉様の役を演じるのは、もう無理かも知れない。けれど、出来損ないだけど、ね。貴女みたいな子の、姉だって見栄を張ることくらいは、したい」


 そこまで言って私は顔を伏せた。生憎、紅茶はもう残されていないから、それが熱を帯びた顔を隠すための行動であることは妹には明け透けらしい。顔は見えない。なのに、多分、笑っている。それが分かる。そういう表情を浮かべて居るであろう彼女は言う。


「ジークフリーデ皇女としての貴女は格好良かったけれど、どこか近づき難かった。今の貴女は、ひどく格好悪い」

「ごもっとも、ね」


 伏せた顔を上げることが出来なくなった。自分で自分が情けなくなったから。体面的には皇女の役職につながれていた自分の方が、余人には好ましいのだろうとは肌で感じてはいた。少なくとも今のような世捨て人まがいの女よりは、よっぽど世のため人のためになるし、格好も付いている。でも、と妹は逆接した。


「今のジークフリーデ姉様は、上手く言えないけれど、今までよりずっと側にいる。可笑しいですね。目の前に居て、こうして離す距離は以前とは変わってなんかはいない。けれど、そんな気がする。本当に」


 自分の名前。たったそれだけの響きが目の前の少女からもたらされただけで心が乱れた。身悶えする代わりに顔を上げて睨む、つもりだったのに妹の表情が想像以上に綻んだ。あぁ、以前ほど自分の表情を作ることが出来なくなったのか。そう思いながら、


「心臓に悪い。その、ジークフリーデ姉様、という呼び方」

「馴れ馴れしい、ですか?」

「いや、違う。ただ、フリーデとか……もう少し、フランクな感じで、お願い。恥ずかしいから」

「それは、少し難しいですね」


 意地悪っぽくそう言って笑う妹。私は抗議もかねて今度こそ妹を睨みつけた。あまり年上を揶揄うな、と。おそらく、いや、きっと私の眼光に威厳や恐ろしさなんて微塵も伴っていないだろうけれど。あっけらかんと妹は、

「フリーデ、という呼び方は使えませんし」

「どうして?」


 自分が身近な人々に使ってもらうそのフレーズを取り上げられて泣きそうになった。こんなことでは泣ける時点で自分に威厳なんて実はないのではないか。そんな不愉快な思いに逆らうように脳内でのたうつ私を見通すかのような、フリーデントの視線。


「だって、私がそう呼ばれたいからです。フリーデントより、響きが好きだから。幼い頃、短い間でしたが、母様にそう呼ばれていましたから。それに、です。貴女、なんて他人行儀な呼び方を十年近くもされてきましたからね、私は。姉に対して、少しは跳ね返ります」


 自分は見事に弄ばれてこんな短期間のうちに急速にも姉妹の立場が逆転している。けれど、不思議なことに、自尊心が傷つけられるようなことはなかった。何だろう。懐かしい、という概念が近い。ひどく、安らかな気持ち。でも、それを素直に受け入れたようにふるまうのも癪に障る。こういうところが子供と大人の境界か。無駄ではあるけれど、なるべく余裕を気取ってみる。妹の前では格好良い方が理想的な姉だと自分に言い聞かせるように、


「そう、ね。私は姉なのだから、それくらいの我儘は聞いてあげても、よろしい」

「なら、さっそく不出来な妹の我儘を聞いて下さい。私の名前を、呼んで」


 まるで妹が男性の告白を待つ女性のように見えて妙な心持になった。けれど、張った見栄が邪魔して後には引けない。それになにより、これは一種の通過儀礼だ。フリーデの名を冠した姉妹の、これからを定めるための。


 だから、私は口を形作った。一字一句損なわず、魔法をかけるように。


 フリーデ。その連なりに、何かを託した。

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