3-5
「その歳で胃潰瘍だなんて、貴女も難儀なひとねぇ」
まるで他人事――いや、実際そうなのだろうけれど、メルクーア・レイヤードは、侍女特製の熱い紅茶をやたら美味しそうに飲み干してそう言った。対し、胃に穴が空いたらしい私は、極端に熱くもなければ冷たくもない中途半端な温度の紅茶をすするようにして飲んでいた。
人類統一連合諸国に残る彼女らを含む商人たちのグループは、高度な政治性を有する私達を無断で匿っていたことから、人類統一連合諸国と帝国から称賛と非難の板挟みに遭う立場に陥っていた。それでも、戦争の長期化を防いだ役割を結果的には果たしたことから、表立った粛正なんかを食らうことはなかったらしい。けれど、良くも悪くも注目を一身に集めすぎた彼女は自分が属する組織を、レイヤード商会というコミュニティの存続のために自らを人身供養として身を引いた。レイヤード商会もまた、単なる血統による相続ではないために、新しい商人番頭が漁夫の利のような形で就任したらしい。彼女はそれが不快なのか、それ以上詳しくは語ろうとはしなかった。
そこでこの話がお終いなら、私も彼女に一方的に肩入れしたのだと思う。というのは、彼女が無償で自分が生涯を捧げていたといっても過言ではない戦場から退く気がさらさら無かったから。メルクーアが個人的に私有する幾つかの権利やら土地。商会の今後の立場を案じるのであれば、それらの所有者の名前が個人から商会へ書き換えられるはずだったらしいのだけれど、
「え、手放さないわよ。端金とは言え金の卵を産み続けてくれるようなものばっかりだもの……」とか、
「何でそんなに強情に渡さないのか、ですって。そんなの、嫌がらせに決まっているじゃなぁい」
こういうことを彼女との交渉のために遠路はるばる帝国に自ら渡ってきた商会関係者らに言ったとか言わなかったとか。そういうゴシップの類いが彼女の退職後に私の耳にも聞こえてきて、割と真実味を感じとった私は、以前に訪問してきた際にその噂の真偽を尋ねたことがあった。本当に訳が分からないわぁ、といったきょとんとした表情でこう言ったと記憶している。
「私が自分で稼いだ金で買ったものを、どうして辞めた職場に払う必要があるの。一世紀近くレイヤード商会は私のおかげで膨大な量の蜜を貪ってきたのだから、むしろそんな収入の貢献者に退職金を払って欲しいくらい」
迷いなくそう返答した彼女に、このひととお金に関する喧嘩だけは止そう、と思った。
さて、ここで話を現在。つまり、妹との関係に亀裂を生じさせてから一週間後くらいに再び戻すことにする。胃に走る独特の痛みに逆らいながら、赤い液体を摂取し続ける私を見つめ、嘆息するようにメルクーアは言う。
「紅茶、いや、カフェイン自体がホスホジエステラーゼを阻害して胃酸分泌を促進する、とか聞いたことがあったような。しかも、元皇女様がお嫌いな泥水より、多い」
「確かに茶葉のカフェイン含有量はコーヒーのそれを上回りますが、カップ一杯を飲用する場合、コーヒー豆が約十グラム必要なのに対して茶葉は半分程度。結果、カフェインは泥水より少なくなり紅茶は胃に優しい」
「どちらに転んでも胃に悪いじゃないの」
真顔で返答した私にメルクーアは顰めっ面を見せた。空になった私のカップに二杯目を注ぐことなく回収するフランチェスカが、「せめてミルクティーあたりで手を打って頂ければ良いのですが」と小さく漏らした。メルクーアのカップには追加で紅茶が注がれるのを私が黙って見つめていると、メルクーアは笑いを堪えきれない様子で、
「そんなに執着されては怖いわねぇ。何、貴女が普段飲む紅茶にはアルコールか何か入っていたの」
「私が何らかの物質に対する依存症、とでも。まさか。ただ、茶葉を毎日キメなければやってられないのですよ」
私のジョークにメルクーアの笑みに渋みが混じる。自分では渾身の出来だと思ったのだけれど。何時からか、具体的な日付なんて記録していないから分からないけれど、私と彼女の間柄は口調が砕ける程度には近づいていた。値が綱合った妹とは出来ないことが、他人とは簡単にできるなんて皮肉だな、と思った。そんな私の思考を読んだかのように彼女は一口喉を潤わせてから言った。
「皇女に関するくらい話はタブーなようだからあまり広まっては居ないようだけれど、貴女、妹さんと仲違いでもしたのでしょう。その胃潰瘍、ストレス性とみた」
藪医者のように診断を下して笑う。私は内心で、それとあの妙な夢の原因でもあるかしら、と補足した。
あの、奇妙な夢。自分が自分に腹部を踏み潰されるという悪趣味な空想から目覚めた私は、胃に痛みを感じるようになっていた。だから、一瞬は自分が夢から解放されなかったのかと一人寝室でお腹を押さえながら青ざめていたところを、偶然に侍女に見つかり、彼女もまた私の表情にただならものを感じたらしい。いや、感じてしまった、というべきか。ひとびとが行動を開始するにはまだ恒星が登り切っていない時間帯、緊急に宮廷直属の医者が召集された挙句、胃潰瘍なんていう症状が彼らから下された。その場にいる誰もが気まずさを覚えて黙り込んだ光景を、私は多分この先忘れることはないと思う。不名誉、というカテゴリの脳内のドレッサーに仕舞って、だ。
不快な幻想世界での自分殺しについては省いた、そんな笑い話を聞いたメルクーアは目に見えて上機嫌になった。
「随分とジークフリーデ様も丸くなったものねぇ。あの年齢に合わないような役割というドレスをを着せられて、それでも何とかやりくりしていた頃の貴女が胃を痛めるなんて、かつては誰も想像しないでしょう」
「お楽しみ頂けたようで幸いね。他人の不幸は蜜の味、とはよくいったもの。良い趣味ではない」
「いじけることはないじゃない。何時ぞやのときに貴女にも言ったはず。弱点でもあった方が可愛げがある。私は、プライベートでは親しい人間としか付き合わないの。そうでない人間と時間を共有するほど暇ではないし、集団所属の欲求に飢えているわけでもないし」
「弱点が美点として目に映るのはあくまで限られた場合だと思うけれど」と私は眉をひそめたけれど、以前の自分よりは彼女の言い分を受け入れられるようになっていた。
全くもって不可解ではあるのだけれど、どうもこの元商人で年齢不詳の女性は、何時の間にか自分の友人的な立ち位置に落ち着いているらしい。そう思うようになったのは、この日に彼女が訪問することをフランチェスカが、悪友の類いの女性が本日いらっしゃるようです、と表現したからだろうか。
思い返すと、私に友人という関係の人間が思い当たらない。親しい、というのなら私にミルクティーで我慢するように小言を漏らす侍女が真っ先に浮かぶのだけれど、友人か、と問われると違う。かといって、さらに過去へと記憶を遡ったところで見えてくる光景と言えば、妹との軋轢と一因となった母さんの姿ばっかり。近所の同年齢の子供や、教育施設でも周囲から浮かない程度には上手くやっていたけれど、幼少期の私の人間関係はとどのつまり母親の安心という要素に還元されるべきものだったように思える。
思い出として語るような青春時代や、それに付随するような人間の存在が私にはなかった。何の気なしに私はそう口にしていた。それに対して、メルクーアは親が子供に懐かしい話をするような表情で、
「貴女は自分の狭い世界で完結した、せざるを得なかった女の子だったのでしょうねぇ。少なくとも、フォーアライターという一族を継承するために反抗期や思春期といった、人格形成に影響を与える期間を、悉く他人との競争だけに使ったらしいし」
「一応、一見意味の無い会合だとか、芸術をかじったりするような交流はしていたのだけれどね」
「それは、ただの世間体を良くするために行う必要があると貴女が判断したタスク。友人の構築とは違うし、そういう時期に同年齢との人間関係を築くことがないというのは異様でさえある」
彼女の指摘に素直に同意した。
フォーアライターの長を誰が決めるか、と言えば国民であり臣民だった。勿論、宮廷関係者のご機嫌だって取らなくてはいけなかったけれど、票数、という観点で言えば世論に自分が如何に真っ当な人間かをアピールしなければならない。それが最適解だ、とまでは言う気は無いのだけれど、年頃の少女が誰とも接することなく、黙々と文武に精を出しているだけよりは、多少は華やかさや人間的交流を大多数のひとびとに見せた方が受け入られやすいのではないか、というのが私の方針だった。メルクーアの言う通り、私にとってそれらも仕事や義務というラベルのものに相違ない。なら、目の前の女性ならどうだろう、と興味が湧いたので質問する。
「貴女は、幼い頃どんな子供だったかしら。あまり友人が多い性格とは思えないけれど」
「元皇女様は時々私に対してさらりと毒を吐くわねぇ。さて、子供の時の自分がどういう人間だったかとなると、もう数十年前になるから実感が湧かないのが本当のところ」
見た目は十代といってもまだ通じそうな容姿から数十年、という単位が漏れることが何だかおかしくなって笑いそうになった。だけれど、そんな私の気を察したのか、無言で当の本人に睨まれてしまったので私は表情筋を引き締め直した。よろしい、といった表情で、
「多分、としか言い様がないのだけれど、本質的にはあまり変わっては居ないと思う。今なお記憶に残る親友の少女、なんてものは浮かばないわねぇ。かなり早い段階で商人か、そういう職に就きたいと思っていた筈だから、自分にとって役に立ちそうな人間か、媚びを売っておいて将来配当を受けられそうな人間。所謂、都合の良い人間とばっかり接触を持とうとしていた……。その点、貴女のそれと似てはいるかも」
「へぇ。幼い頃からなるべくしてなった、と。何か切掛があったの。その、商売の道に傾倒するための」
彼女は記憶を掘り起こすのに少し時間を要したのか、言葉を少し選んで口にする。
「親というか、一族代々が何かしら金儲けで他人を見下すような家系だったから、有り触れたパターンではあるけれどそれが始まりかしらねぇ。私の家系は定住するっていう概念がない家だったわ。私もどこかの輸送船内だかで生まれたとか何とか。子供の頃から、私にとって身の回りのものというのは絶えず変化し続けるもので、だからかしら、せめて自分の置かれる世界くらいは自分で制御できる側に立ちたい。そういう思いが漠然とあったかしら。後は、まぁ……」と何故か彼女は一瞬発言を躊躇し、「先祖代々、公にすれば歴史的資料なんて呼ばれそうな類いの物を大量に継承してきたの。それを自分の目で調査したり確かめたりすることは、今でも私の生きるモチベーションの一つ」
「楽しそうですね、それ。暇さえあれば私も付き添ってみたい」と私が何となく相槌を打つと、何故か彼女は視線を逸らした。彼女は何かを誤魔化すかのように広げた風呂敷を畳むように、「貴女と私が違う点は、自分が属する組織の中で成り上がってやろう、という野望とか大義の炎を胸にともしたりはしたかったことねぇ」
そう言われて私は首をかしげた。勝手なイメージには過ぎないけれど、彼女は自分の地位を確立するために、あの手この手で競争相手は排斥するような人間なのでは、と思っていたから。そんな私の表情をお見通し、といった風にメルクーア・レイヤードは言う。
「貴女は皇女になるまで、そしてなった後もずっとタスクの処理として生きてきたようだけれど、私は違う。だって、商人としての自分はパンにありつくための労働ではなくて、私にとっては趣味以外のものではなかったもの」
「要するに、趣味で食を満たせている。しかも、競争相手は打ち倒す者ではなく、勝手に倒れていく相手だと。文明人にとって理想的で恵まれた状態のように聞こえる」
「えぇ。なるために、そしてなった後だって努力はする。スキルも磨く。見た目は金さえ掛ければ維持できるけれど、中身が腐るかどうかは別問題だから。けれど、それらの面倒ごとさえ最終的には自分の遊戯に繋がっている。まぁ、あれよ。一流のアスリートにはなれないけれど、それなりに苦労した分、スポーツの大会なんかでアマチュアでも人生の充実感を味わえる、みたいな。けれど気がついたら、プロフェッショナルになってしまった、みたいな?ちょっと俗な例えで通じるかしら」
妙な例えだな、とは思ったけれど言わんとすることは理解できたと思うので視線で頷き、
「楽しいから続けられているのね。継続する忍耐と情熱。それこそが貴女の何よりの才能なのかも知れない。私なら途中で飽きてしまいそうだから」
「そんな大それたものではないのだけれど。だって、こう考えてみなさい。地位や名誉を支えるのは金。でも、それはただの数字にしか過ぎない。一定数の人間の信頼なんて言うあやふやな価値によって支えられているだけのくせにして、あたかもそれがすべてのように人間を縛り付けている。あぁ、本当にそういうの、好き。縛られるのは御免被るけれど、その分自分だけが自由に振る舞えたり、あるいは他者を縛れるのは楽しくて仕様がない」
「悪趣味ね」
とは言いつつ、私はそんな彼女の、自分とは異なる生き方に一種の畏敬の念のようなものをどこかに感じていた。私と彼女の何が違うか、というのが少しずつ鮮明に見えてきた気がする。彼女は、自身とその生き方を心底愛くるしく思っているし、貫徹している。身勝手ではあるけれど、羨ましい。そういう感想を抱く時点で、私はそういうものを無い物ねだりしているという証拠だ。
そんなアイデンティティの確立のために青少年が思い悩みそうなことは、口に出すには躊躇われた。自分の年齢でそういった問いを投げかけるのは何だか気恥ずかしい。だから、あくまで一連の、ただ過ぎ去って行くだけの時間と同程度の価値しかないような、会話を構成するにあたって無くても困らないような。要するに、何気ない風を装って私は尋ねてみる。嘆息して、肩をすくめて、やれやれ、なんて風に。
「全く。どうやったら、貴女みたいに自分の我が儘に生きていくことが出来るのでしょうね」
少しばかり、芝居が下手だったかしら。耳が赤くなるような思いで彼女の瞳を覗く。メルクーア・レイヤードは、どういう意味かは分からない笑みを浮かべた。
「それ、言われ慣れた言葉ねぇ。私には、何故そう口にする人たちはそういう生き方をする思考や行動をどこかに置き去りにして成長するのか、幾つになっても分かりそうにない」
その笑みの対象は、文面通り自身の幸福に妥協を示す人々に向けられたものなのだろうか。私は違う、と勝手に感じた。成長した先に待ち受ける未知の世界。完全に大人か、あるいは子供ではない何かに変貌する成長。彼女の言葉は、そういう人間が通るはずの道程から外れた位置にあるメルクーア・レイヤード自身に向けられた自嘲のようにも受け取れた。
彼女の見た目は時計の針を止めている。精神が肉体になんらかの依存をするというのであれば、彼女の精神もどこか静止した世界に置き去りのままなのかも知れない。健全なる精神が健全なる肉体に宿ることを過去の風刺詩人は願ったらしいけれど、その願いが果たされるのであれば、私の下手をすれば数倍の人生経験を持つ彼女の魂魄は私よりも若いことになる。子供から違う何かへと変異する成長。それが、人間にとってプラスなのかマイナスなのか。そんな妙なことを真剣に考える日が来るなんて、私は想像もしていなかった。
「どうしたのよ、急に黙りこくって。有り触れた台詞だけど、言ってみようかしら。私の顔に何か、付いていて?」
まるで人生を物語に見立て、その登場人物のロールプレイをするかのように彼女は聞いた。私は答える。
「いや、ただ少し自分の過去に後悔が芽生えまして。もっと友人だとか、自分以外の人間に興味を持って生きてくれば良かったな、と」
そうすれば、自分が知らないチャンネルに自在に切り替えることが出来るようになったのでしょうね。自分と違う価値観の存在を知識としては知れる。でも、それを生かすために柔軟な変化をすることは困難で、今の自分が抱える課題だ。
時間を浪費するような、けれど心地の良い時間を会話という形で私達は意外に長い時間を費やした。いい加減そろそろ借家にでも帰りますかね、そんな去り際、メルクーアは何気なく言った。
「体調には気をつけなさいねぇ」
「ご忠告痛み入ります。ただ、元々妙な頭痛なんかを持っていたものだから、痛みは大して苦ではないの。そういう不調に慣れきってしまった、なんて自分で言っていて悲しくはなるけれどね」
私がそう答えると、一呼吸間を置いて、本当に難儀ね、と彼女は顔をしかめた。
「頭痛、か」
出口へ向かって背を向ける彼女は、反芻するようにその単語を口にした。
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