2-3
それから丸一ヶ月ほど、私達を匿う輸送艦ヒリュウの、表の業務を装いながらの航空に付き合った。というより、私達匿われる人間が異国の地で目立ったことが出来かっただけだけれど。
人類統一連合諸国内における敵味方がはっきりしない限り、艦の食料やら動力源といった物資が切れるまでは、人類統一連合の土地に足を下ろすのを避けていた。そうしている中で、帝国本国の状況は分からないけれど、人類統一連合諸国内の進まない事件調査の状況と、帝国との軍事的な対立を危惧する空気は嫌と言うほど聞き知ることが出来た。
匿われる身に甘んじて業を煮やした帝国人の一部からは、レイヤード商会所有の艦を用いて帝国本国へと直接帰還を試みるべきではないか、という話も出た。しかし、帝国本国までに補給を受けられるような施設が存在しないために、技術的にその案は実行に移しがたいと拒絶された。さらに、今回の件が人類統一連合政府という公の組織が首謀者だった場合、下手に遠洋までの不自然な航行を補足されると、一体どうなるのか分かったものではなかった。結局、私達は狭い艦内の、限られたスペースでどこか怠惰的な時間を過ごすしかなかったのだった。
日を追うごとに、人類統一連合諸国内のメディアの中では私達は死んだ人間とされ、人類統一連合諸国と帝国間の軋轢が膨らんでいく様が恐れられていた。公、民間を問わずに、メディアには真実と虚偽がいい具合に混ざり合って混沌としていった。
そんな中で、私とフランチェスカは基本与えられた個室か食堂にいた。あるいは、宿主の邪魔にならないような区間を歩き回ることで、閉鎖された空間からくるストレスと格闘していた。
艦内には、レクレーションが出来るような設備がなければ、そういう雰囲気でもなかった。ただ、そんな状況下でも、件の持病のような頭痛が起きないだけで私には小さな気休めになった。商談に向かうために乗った輸送艦内はちょっとした街といった区間まで整備されていたけれど、さすがに商業用の艦にそんなものはない。倉庫やらリッターの整備所なんかに足を踏み入れるわけもいかないので、何もない通路を運動がてらとにかく歩き倒した。その結果、艦内の構造をほとんど空で地図を描けるほど覚えこんでいた。
それでも、何の変哲も無い左角を曲がるときに自分の義手を壁に擦りつけてしまうことが度々あった。動かすことは出来ても感覚までは伴わないからだ。ちゃんと思ったように動いたのかは自分の目で見ていないと確かめようがなくて、それだけは左利きではないとは言え、不便だな、と思うようになった。
その日も自分の左側から聞こえた小さな摩擦音に気付いて、左腕を折り曲げて点検してみる。滑らかな表面に、壁と同色の擦過の跡。
「……まぁ、これくらいなら洗えば目立たないかしら。あまり無駄にシャワーを浴びるわけにも行かないけれど、ね」
私が溜息と冗談を織り交ぜて振り返って言うと、背後のフランテスカの目線が私の左腕から始まって腹部に移ろっていった。不審に思って私は彼女に正面から近づいた。
「どうしたのかしら」
「いえ、何でもありません」
「何でもありませんって言葉は、酔っ払いが自分は酔っていないと言言い張るくらいに信用ならないと思う」
そう少し意地悪に問い詰めると、暫く間を置いてフランチェスカは、おずおずと答える。
「私はフリーデ様のお役に立てなかったな、と思わずにいられないのです」
一瞬、彼女が何を言い出したのか本当に理解できなくて呆けてしまった。
「何を言っているの。お役に立ち過ぎていてむしろ休暇を取って欲しい位なのに。そもそも貴女がいなければ私はこの場にいない。だから、そう。言い忘れていたけれど、ありがとう。私を助けてくれて」
心を込めて、お辞儀をした。儀礼的なものじゃなくて、一個人として彼女に抱いていた感謝の気持ち。それを表すには不足を感じるくらいだった。けれど、フランチェスカは私の顔を上げさせても尚、どこか浮かない表情だった。私の身体を気に病んでいるらしいことは分かる。しかし、彼女は十分以上に私に尽くしてくれたというのに、これ以上どこに落ち度を感じるのか私には分からない。だから素直に聞く。何でそんな顔をするの、と。
「言ってくれないと、私が辛い」
実の妹にもかけてことがないような、自分でも驚くほど優しい声音だった。フランチェスカはまるで叱られた子供のような顔をした。その少女にそんな顔をして欲しくなかった私は思わずその頭を、滑らかなシルクのような長髪をなぞるように感覚のある右手で軽く撫でる。年下の少女の目が驚きの色を帯びる。けれど、それが功を奏したのか、親に叱られた後に優しくされて安心した子供のように、フランチェスカは胸の内を吐露してくれた。
「左腕は、どうしようもありませんでした。けれど、臓器まで機械で置き換える必要は本来無かった」
侍女のように、皇帝や皇女に付き従う者の中には主の緊急時のためにある縛りが課せられていることが多い。その一つに臓器の移植が身体及び本人の自由意志に依って可能か、なんて言う非人道的な項目が一応は存在していたことを先ほどまで私は失念していた。私がそう確認すると案の定フランチェスカはそれを認める。別に私は怒ったわけではないし呆れたわけでもないが嘆息してしまう。
「別に機械で身体を補うことは悪いことではないわよ。便利なのは良いことだし」
「それは、そういう考えも、あるとは思いますが」
「身体が機械に変化しているより、貴女が居ない方が私は嫌。だからこれでいい。貴女にはこれからも紅茶を注いでもらわないと」
最後の一言は照れ隠しとは言え蛇足だった。言わない方が綺麗だ、とも思うけれどフランチェスカを相手に着飾らなくてもいいじゃない、という思いの方が上回ったので訂正はしなかった。フランチェスカはただ一言。小さいけれど、はっきりとした口調で、はい、とだけ答えてくれた。それに満足した私は彼女の手を引いてまた当てもなく歩き出した。勿論、右手の方で、だ。
さて、そんなことを繰り返していると似たようなことをしていた同郷の人物とある日鉢合わせた。デジャヴを感じるのも無理はない。輸送艦のときよろしく帝国の英雄とまたぶつかりそうになってしまったのだった。
「また会いましたね」
「まったくだよ」
長身のルーデルを私は見上げる形になる。彼はわかりやすく目を一瞬逸らして、やれやれまた面倒なことになったな、と言いたげ。
彼を含めてこの艦には約十名強の騎士とそのリッターが同乗していた。ただ、その多くは突然の戦闘に巻き込まれた者。もしくはほとんどその間は何もできず、だからこそ助かった者。誰もがそれぞれの経験と何らかの傷を負っていた。彼はその中でもかなり派手に戦闘した部類。私達のいた現場に真っ先に駆けつけ、私とフランチェスカを連絡が取れたレイヤード商会にまで護衛してくれたらしい。それを思い出して私は彼に頭を下げた。今日は良く誰かに感謝する日だな、と思いながら。
「ルーデル少佐には直接お礼を言えていませんでした」
「仕事ですから、礼には及びません。それに、ご無事なようで何よりです」
無関心な風に応答するルーデル少佐殿ではあるけれど、私の左腕をほんの一瞬彼らの眼球が捉えていた。別に気にすることはない、と私は左腕を撫でた。
「本物の腕より綺麗ですから、これはこれで気に入ってはいます。それにしても貴女は相変わらず謙虚ですねルーデル少佐。賞賛の類には興味がない、と。以前もそんなことを言っていましたような」
「そういう話、よく覚えていますね。以前、と言ってもそんなに時間は立っていないのか。どうも、自分の人生に無いくらいの出来事が立て続けに起こりすぎて一気に老け込んだように感じます」
彼の声が沈んでいる、というよりはやけに淡泊なことにようやく思い当たった。そう。ビショップ・フォン・ルーデルの隣には、大柄でありながら気さくな人柄の相棒がセットだったな、と。私は知らずに、この場にいないその人物が居合わせたらこのあたりに立つだろうか、という場所に目を向ける。ルーデルは中央よりやや左側に隙間を無意識のうちに作っていたよう。なんでもないようなことを口にするように、彼は報告した。
「ガーデルマン大佐は戦死しました。自分達の乗り合わせた母艦は無人の民間船から特攻まがいの攻撃を受けましてね。自分は偶然リッターに搭乗して外部に出ていたから助かり、貴女達の現場へ向かった、ということです。まったく、身近だった同僚にいきなり階級を抜かれてしまうなんて、妙な気分です」
「そう、ですか」
加えて彼は、私達を救出に向かった後、人類統一連合所属の艦船の襲撃に遭った母港に残って応戦した相棒との連絡は途切れた。自分の機体に表示されるはずのバイタルデータが停止したときが最期だったのだろう、と。そういう旨の話をどこか淡々と語った。ほんの一呼吸の間、無音が横たわる。私とガーデルマンという男性はそんな親密な関係ではなかったけれど、自分が知っている人物が生者を置き去りに通り過ぎていくのは寂しい。そんな私の機を察したように、再びルーデルは口を動かした。
「ところで、です。今回も何か用はないしょうかね。もっとこう、現状に即した」
彼はかなり強引な話題変更を試みた。用と言われてもね、とこちらもやりきれない思いを引きずったまま、話題の引き出しを刹那の間に開け閉めを繰り返し、絞り出しはした。
「こんなときに何ですが、いや、こんなときだから言わなければなりません。今後の方針について、話しておきましょうか」
「あぁ、それはいい。少なくとも自分の階級うんぬんよりよっぽど生産性のある話題だ」
街中で女性を引き寄せるような微笑。そのはずなのに私には自暴自棄という言葉が浮かんでしようがない。私は取り留めもないことをこまごまと考えて、胸中にぼんやりと整っていないものをストレートに伝えることにした。
「では、単刀直入に。ついでに貴方方を通じて同乗する騎士たちにも伝令して頂きたい」
「何だろうね。近頃は寿命が縮む経験しかしてないものだから、あまり驚かしてほしくないけど」
「ことの推移によっては、私のことは見捨ててくれても結構ですよ」
「……はぁ。詳しく聞きましょうか。どういうお考えがあって?」
ため息一つでルーデルが職業軍人といった表情に変化する。スイッチが切り替わったとでもいうべきだろうか。私の付き添いのフランチェスカの、なんとなくそんな予感はあったのか、けれどやや身じろぎした気配が背中に伝わってくる。私は普段通り、いや少しばかり素の自分がむき出しになりつつあるのを自覚しながら言う。
「字面通り、ですよ。私は戦う人間ではありませんが、事が楽観視できる状況ではないのは分かっているつもりです。現段階で何が厄介か、といえば人類統一連合諸国という敵対国の内部に孤立した我々は本国との直接的な通信手段を持たないこと。そして、その敵国内のどこまでが私達が姿をさらすべきではないのか、その線引きが出来ない点にあります」
今自分達を匿っている相手もどこまで信頼できるか怪しい、とまでは言わないでおく。この艦内に自分達のプライバシーがないという可能性を考慮しつつ続ける。
「帝国へ帰還することを仮の目的と設定して、機械仕掛けの騎士団に護衛してもらいたい、という思いはあります。けれど、もし貴方方が自身の幸福のために私が重荷になるなら切り捨てて頂いても構いません」
「随分とお優しい言葉、痛み入ります」
ルーデルは不機嫌さを隠そうともせず、言った。
「ほかの連中は喜ぶでしょうよ。ご自分のことをどう思っていらっしゃるかは知りませんが、貴女は結構な人気者ですから。通常であれば自分は一層貴方への忠誠を誓うのでしょうね。我々一回の兵士を君のように高貴な人間が、健気な女性が憂いてくれるのだから」
「恩だとか、義理を感じてもらうための策略、というわけではないのですよ」
私の発言に、そんなことは言われるまでもない、とルーデル少佐。
「ぼくは、君のそういうところがどうにも気に食わない」
彼は私への義憤を隠そうともしなかった。その男にしては、荒々しい過ぎるきらいがある言葉。その相棒が横に立っていたとすれば、おいおいお前らしくもない、と諫そうなくらいに珍しい姿だった。彼は言う。
「ここの商会との会談に向かう途中、君は言ったな。ひどく日常生活が薄っぺらなものに感じることはないか、と。そんなことを発想したこと自体が、君がそういう思想の持ち主だ、という遠回しな宣言だ」
「それで?」
私は本来の自分より幾分か低い声で尋ねた。いや、この声が本来の私かもしれないという思いもある。私、ジークフリーデという人物の本質を、この男はほぼ洞察しきっているであろうことは既に嫌というほど分かっている。だからこのときの私は必要以上に表面を取りつくような素振りを見せなかった。その必要性が微塵もないのだから。
「一旦場所を変えましょう。ルーデル少佐、どうも貴女の言動は私人として私に用がある、と言いたげですから」
さすがにこ込み入った内容になりそうだったから、私はルーデルとともに近場の一室。本来は何らかの在庫倉庫になるはずだった空きスペースに足を踏み入れることにした。付添人であるフランチェスカには扉の前で待ってもらって。監視カメラや盗聴はされてはないか、と一応は点検する。正直、この艦内の持ち主が私達の敵対者なら私が目覚めるまでにしかるべきところに私達の身を提供しているだろうから、そこまで神経質にはならなくても良いかも知れないけれど。
そして、私達は向き合った。互いの顔からつま先まで視界に捉え合って。二人きりになると、ルーデルはすぐ様切り出した。
「君は日常的にああいう、社会集団における職務だのそれに付随する責任感のような退廃的な概念に精神を削っていたものだから、今回の出来事がいい機会だとでも思ったのだろう。あぁ、今更白を切らないでくれ。嘯いて見せているつもりだろうが骨まで透けている。詰まる所君は、最悪自分が死んでも良いとか考えている口だろう。他人とか組織のために身を投げるような」
「正確には死にたい、ではなく現在の自分がどうにかなってしまっても構わない、ですか。まぁ、ね。大体あなたの言う通りではあります。ビショップ・フォン・ルーデル少佐。そして、貴方がそこまで私のことを知っていてくれた、という前提で聞きますけれど。それが、何か問題でもあるのでしょうか」
「何?」
相手がいら立っているな、と自覚しつつ続ける。
「事実、私が死んだということにでもなれば、今頃帝国では次の皇帝なり皇女なりが選出されているでしょう。政治的空白を許すような体制ではありませんから。そうなれば私は一介の小娘に過ぎない。帝国軍人はあくまで国家に、そしてそれを運営する者の矛。過去の人間にまで忠を尽くす必要はないでしょうし、そこまでの義理もない」
「そうでしょうかね。存外、貴女一人が生きているだけでも帝国の人類統一連合諸国への態度は変わりそうなものだが。それに、元皇女殿下というネームプレートは、今尚帝国にとって要人であることに何ら変わりは無いし、帝国軍人の給料分には帝国臣民の防衛も含まれている。つまり、ただの帝国人である女性を敵国内で保護する、という仕事を我々は果たす義務がある。そういうことくらい、思いつきそうだとおもうよ、貴女は」
自分の頭でも分かっていることを返されて二の句も告げない馬鹿な私。同時に自分の中に渦巻く何か、彼に関する違和感が本格的に首を出した。そもそも、どうしてこの男は私にそんなに食って掛かるのか、と。そういう、職業倫理とか道徳心を抜きにしてもやけに熱心だ。
ふと、私は身体ごと彼に思いっきり引き寄せられていた。ロマンス小説だったら接吻でもかわすような距離まで私たちの顔は近づいたけれど、そんな甘い展開はなかった。第一、私は胸元をつかまれていたし。むしろ、殴りつけられるのではないか、とう本能的な恐怖が脳裏をよぎった。ルーデルは本来の私を透視するように、言う。
「さっきも言ったはずだ。ぼくは、そいつが気に食わないって」
「代名詞が何を指すのか、よくわかりませんし、何のつもりです、これ」
私は身じろぎするけれど、驚くほど彼の拘束が緩むことはなかった。けれど、その声音は反対に穏やかだった。
「君は――あくまで想像だが、皇女として良い子ちゃんごっこに興じているのが嫌でしようがないんだろう。要するに、いくら賢しいフリをしてみせたって、根本的に君はメンタリティが幼い」
あまり気分の良い指摘ではないけれど、図星だった。ルーデルは私の反応に感触を得たというように私の首元から手を離して、一言侘び、
「君の生い立ちくらいは知っている。公には君は実の母親の体調悪化から代理母に預けられて育てられたことになってはいるが……」
「知っているのね、母さんのこと。いや、私とその女性との関係性を」
公には隠し切れても、噂程度には蔓延るそのグロテスクな皇女の身の上話をどこかで聞いていても不自然ではない。確かめるような声音でルーデルは口を動かす。
「ぼくの、いや、一部の血族関係者の邪推が正しいのなら、君は自分が母親として愛着を抱いていた人間を被差別階級者の暴動によって失ったことになる。そしてその後、どこか鬼気迫るような勢いで君は継承者の一人として権力闘争に加わっていた」
「そこまで分かればあとは簡単、ね。私が皇女となったのは母さんの仇討ち、いや、仕返しかしら。あのひとを殺した連中に同じ目を合わしてやろう、っていう話」
私の言葉遣いすら置き去りにした呟きに彼は息を呑んだ。そんな反応に、やはり私は腫れ物だな、とどこかやりきれない思いになる。
「貴方も、多分そういう任務に担ぎ出されたから知っていると思うけれど、ジークフリーデ・フォン・フォーアライターの即位直後の反乱分子の鎮圧が。いや、弾圧や差別が、私という女の本性。なのに、何。貴方たちは私を狂った女だとか愚劣な皇女とかって侮蔑なり嘲笑するどころか、前代を上回る若き姫君、とでも人を担ぎ出して。連中も連中よ。私の母さんをつぶれた蜘蛛みたいにした獣みたいな下劣な連中。そいつら全員、一人一人真心こめて、権力に物言わせて潰してやるつもりだったのに。あっさり、降伏なんてしてくれて。みんな、とっくにどうかしているわね。私みたいなのを皇女に置いておくなんて」
そんな皇女だった女の独白。しかし、それだけではないだろう、と言いにくそうにルーデルは付け加えた。
「心理学者の類いではないから、確実なことは言えない。けれど、君の根本的な人格的な欠陥は、いや、特徴は他人への依存だ」
「母さんに、死んでしまったひととの思い出に縛られているって?」
「いや、そういう次元の話では、ない。こんな言い方は自分でもどうかと思うが、よくあることだ。程度の差こそあれ子供は親に依存する。特に親からの虐待の対象になった子供が、それでも親を庇うような言動をするなんて有名な例だ。親の存在は子の生存にはほぼ絶対の条件だから必死に親との関係を守ろうとする心理が働く」
そう言われて、ひどく腑に落ちた。彼に言うことは正しい。私が常に感じていた息苦しさは、単なる社会的責任からくるプレッシャーだけではなかったらしい。依存対象の喪失感こそが大部分だと気づいた。
以前にも語ったのかもしれないけれど、私は自分の母さんとの歪な何かを感じながら生きていた。子供にとって親は世界のすべて。私は血の繋がっていない女性が、自分の生まれをはじめとしたアイデンティティの獲得を恐れていた匂いを感じ取っていた。だから、自分とは誰でどういう人間か。そういう問いを可能な限り回避してきた。ルーデルは私の表情から言葉選びや表現に注意を払いつつ続ける。
「ぼくは君の母さん、というその本人を知らないから憶測で物を語るようにはなるが、共依存の関係性だったのだろう。君は母さんに捨てられるのなんて論外だし、その女性も君を手放したくはない。少なくとも、後ろめたい基盤によって立つ親子関係なのだから、尚更そうだ。依存先である女性が消えた君には新しい動機が必要だった。母親の仇討ちという生きる目的が。だが、その可能見込みもなさそうな課題設定は、達成されてしまった」
彼は語る。かつての帝国軍人の主たる敵対者は国家に反抗的な勢力やそのイデオロギーであり、その戦いの殆どは内紛や内輪揉めといったものだった、と。彼の愛機足るリッターが発展してきた理由はまさしくそういう弱者と正規の軍隊とが衝突するシチュエーションに依るところが大きい。彼らの本職は艦隊戦に参加することではなくもっと小規模な戦闘の制圧にある。国家に反抗的な組織の温床は、インフラが届かない辺境地や無数の資源惑星にひっそりと築かれた小規模施設。戦闘はもちろんだけれど、土木的な使用法が出来る人型兵器の発展はそういった背景が色濃い。英雄と呼ばれるための華々しい戦場より、自分が経験した多くの光景はそういうどん詰まりだった、と自嘲気味に言う。
「結果論だと言われるが、ああいう必死な連中は武力では抑えきれない。押さえれば押さえるほど、人間というのは跳ね返るものだからな。その点、君のやり方は理に適っていた。いや、適いすぎていたというべきか。君個人としては彼らのような敵が。母親の敵として自分の視線を釘付けに出来る対象が存続できていた方がかえって都合が良かっただろう。けれど、そうはしなかったのは、何故か」
「私が単純にそこまで思い至らなかっただけの話でしょう」
自分のことなのに疑問形で尋ねると、他人事のはずなのに彼は、いやそうではない、とどこか確信を持った様子で答える。
「最初に言っただろう。ぼくが思うに、君の特徴は他者への依存だと。一見すると、効率よく被差別階級者を統制してしまったのは、長期的な視点では母親への依存心を慰めることに失敗したように思える」
「そうではない、と?」
「おそらくだが。君の依存対象は母親だけではない。帝国という国家組織へ現在はシフトしているのではないか、というのがぼくの解釈だ。ぼくたちのご身分は一般的とは言いがたいが、世間一般を構成する大多数が疲れた、と表現する疲労感は自分を取り巻く環境から受ける肉体と精神双方の疲労だ。そこで君の倦怠感が何から来るかといえば皇女という役職に依るものとするのが、まぁ、常道ではある。何かと責任も重大であるしそういう側面もあるのだろう。だが、君が疲れる根本的原因はやはり依存心だ」
途中までは理解できていたはずだけれど、彼の論理展開に取り残されている。だから正直に、つまり、と彼に端的に言うように要求する。
「君は帝国という組織にかつてのような、国内の治安の大幅な改善をはじめとした貢献が出来ない。自己の存在理由が、他人への貢献によって認めてもらうという依存心を満たすことが出来ていない。だから君は疲れている、いや、強迫観念を覚える。違う、か?」
「そんな風に聞かれても、困る。自分のことなんて分からないから、ままならないんじゃないの」
私がそう口にすると、ルーデルはただ一言、そうだな、と頷いて、しばらく私をじっと見つめた。かと思うと、こちらに歩み寄った。
「な、何」
彼の真意を測りかねて一歩を下がるけれど、壁に阻まれてそれ以上後退できなくなった。彼は、私の前に立つと、私の肩に触れた。きゃ、といった具合の、自分でも情けないような声が漏れる。ルーデルは、言った。まるで親が子へ何かを託すような声で囁く。
「君は、貴方は、自分を貶すのだろうけれど、一つだけ確かなことがある。人として、これは優れているって。自分みたいな男にも保証できることが一つある。例えその根底がどんなものであったとしても、他人の手前勝手な期待に応えようと努力したこと、だ。それが君の人間としての美点だと思うし、ぼくには、それが難しい。ぼくは正直他人なんざどうでもいいと思っている人間だ。英雄なんて言われてはいるが、ぼくは好きだから、という理由でリッターという兵器を公私混同に乗り回すような性格破綻者だからな」
「貴方は、貴方も、普通、とやらになりたいと思うの」
私がそう聞くと、男は苦い笑みを浮かべた。
「それをするには、少しばかり長く生きすぎた。そもそも、普通とは何かがまず分からない。自分が所属する組織の人間のパーソナリティの平均値でも取った言動でも心がけていれば良いのだろうが。人間は一定以上の年齢に達すると自分を変えるより周りを合わせようとしてしまう。けれど、君はまだ若いし、他者のために自分を犠牲に出来るのであれば、自分のために自分の価値観を変えることだって出来るはずだ。ぼくが君の立場なら、そうだな。とりあえず、国を傾かせるようなヘマをわざとしでかして、じゃあ、私は退職金でも貰って自由に暮らすんで、貴方たち頑張ってね、とでも言って颯爽と逃げ出す、とか。そんな我が儘を押し通す、かもしれないな」
「何、それ。ふざけているのかしら」
余りにも滅茶苦茶な話で笑ってしまう。だって、彼女と同じ様なことを口にするのだから。彼も普段の調子を取り戻しながら続ける。
「とっとと逃げればいいんだよ、君はまだ間に合うだけの若さがあるから。意図的に自分にとって都合の悪い倫理観とか責任感とかを視界から外して」
「そんな無責任なこと、出来ないでしょう」
「責任なんて、誰に対してのものだい。ぼくは、他人のために死ぬのなんてまっぴらだ。死ぬよりは、生きているほうがましだ。生きてさえいれば、他人がどうこう言う割には何とかなる。いっそ、放浪人染みた身の上になっても案外楽しいかもしれん。死ななきゃ大抵のものは存外どうでもいい良い筈なのにな、皆」
それは半ば、自分に言い聞かせているようでもあった。英雄であることを彼はなるべく認めなかった。けれど、この男はどこかで自分に与えられたペルソナを受容する折り合いを付けていたらしい。その点、私より大人だ。彼は持論を語るけれど、組織の中で生きる人間には、けれど、その生き方はあまりに難しい。理想ではあるけれど、彼は彼なりに現実を飲み込んで生きている。しかし、そんな強いけれど険しい生き方を。自己の観念を、けれど私に同じ道を辿れとは強いなかった。
彼は言う。私という他人を救うために。あるいは、自分が諦めたものを他者に託すための彼なりの儀式だったのかも知れない。他人のためだけでは死ぬな、と。せめてその前に、自分のために勝手に生きてみせろ、と彼は私に願う。それを出来なくなった自分の代わりに、そういう生き方もあるのだと、証明して欲しいかららしい。
暫くの間、私は何もできなかった。目の前の男性からぶつけられる嘆願に、ずっと呆けていた。けれど、なんとなくだけど、心の中に一つの空想が芽生えた。
――大丈夫ですよ、女二人くらい。
そんな、かつて有り得ないと断じたものが思い出される。だから、答えることにした。言わなくてはならない。彼の言葉に、願いに応えるために。
「分かりました。貴方の願いを聞き届けましょう。皇女として、生きて、帝国に帰ります」
「他者のために、あるいはぼくのために、かい」
私の宣言に、彼は問う。押し問答か、これは。でも、自分でも不思議なくらいに素直に言葉が生まれた。
「まさか。私は、そこまで出来た人間では無いと思うし、今はそれでもいいと思う。あくまで自分のために、ですよ。どこかで掛け違えた何かを、取り戻してみたくなりました。具体的には、そうね。正式に辞表でも出してみようかしら。すんなりとはいかないだろうけれど、ね。どこかに小さい家でも買って、それで――うん。人生を楽しむ、というのがどういうものなのか、確かめてみようとは思う。私は、自分が何をしたいのかを見つけたいのかも知れない。あまりにも贅沢な悩みなのかも知れないけれど」
「いや、いいと思う。そういうのも、きっと。忘れそうになるが、現代人は生存するだけならどうとでもなる生き物だから」
「取り敢えず、毎日好きな時間帯に食っちゃ寝食っちゃ寝。そう、引きこもりましょう。それがいい」
「待て。それはどうかと思うぞ」
唐突に優しい彼の眼が険しく変貌した。まるで戦場のそれのように。現実問題を度外視した脳内願望を垂れ流しにしてみたら、最後の最後に止められた。興醒めして彼を睨む。
「何故です。好きにしてみろと、貴方が言ったのではありませんか。自分のために、というテーマを突き詰めると畢竟辿り着くのはそこです」
「そうかもしれんが。いや、さすがに労働を忘れて衣食住を満たされた人間はもはや、人間ではないのでは。毎日餌を楽しみにして生きるペットのようなものだぞ、それは」
彼は見るからに呆れていた。どうも私の結論と彼と乗りそうに余りにも大きな溝があるらしい、というのだけははっきりしていた。私には一切、父親との記憶はないけれど、平凡な家庭だったらこんな風かな。娘が妙な口走った場合。そうすると彼が娘に振り回される男親に見えてきた。構わず私は屁理屈をこね始める。
「でも、ですよ。もう金銭面は十分蓄えがあるのです。身分が身分ですからね、私。衣食住が存分に満たされたのならその人間はもう、引き籠るのは道理でしょう。だって労働の必要が無いではありませんか。社会貢献という観点からすれば労働は必要な義務でしょう。けれど、現実問題どうです。ほぼ全ての人間がそれこそ衣食住や納税といった直接的な問題から金銭を得たいのであって、極端な話、高収入なインテリやエリート層はもうお前達は生きるに十分な蓄えがあるから無償で馬車馬の如く働け、なんて言われても従わないでしょう。ルーデル少佐、綺麗事は止めましょう。貴方も言ったではありませんか。他人のために自分を犠牲にするのはおかしい、って」
「何時から資本主義にどっぷりはまっていたんだ、この皇女様は。なぁ、嘘だろう。今からでも遅くはないから冗談だと言ってくれ、皇女殿下。さもなければ何でそんなあんまりな結論になる?」
畳みかけるように私が、そういえば私の可愛い侍女はどこにでも付いてきてくれるそうです。家事とかできないから少し不安でしたが、これで安心です、と胸を張ると、彼はついに嘆きだした。曰く、
「皇女になれなれしく話しかけた挙句、穀潰しにしてしまった男がいたと歴史に語られるのか。そんなことになったら末代まで笑われることになるぞ、主にぼくが」
何だか不憫に思えてきたので冗談ですよ、と苦し紛れに付け加えると息を吹き返してくれた。おいおい驚かせるなよ、君も人が悪い。そんな風に年上の男をからかうな、と。彼は肩をすくめて安心したけれど、私は割と半分くらいは本気だった。
それ以上私の理想を語ると話が拗れそうだったので彼を伴って退出した。通路ではフランチェスカが待っていた。私たちの間にどのような会話が繰り広げられたのか見当もつかずどこか落ち着きがないような気がした。その根拠というわけではないけれど、壁に耳を押しつけでもしたのか右耳がほんのり赤く染まっていた。フランチェスカのほうに私は笑いかけた。
「帝国に帰ったら、何時の日かの貴方の提案に則ることにした。貴女こそ責任とってね。私に付いていくなんて言ったツケだから」
短い言葉だけど、それでフランチェスカには伝わったらしい。その顔が朗らかな、穏やかな表情に変貌した。
「そう、ですか。私の知らない内に固まったのですね。お気持ちが」
「何、ジェラシー、感じてしまうの」
思わず口元がほころぶ。すねるようにフランチェスカは、
「はい。その役割は願わくは、私が果たしたかったものですから」
その割には、満足げにフランチェスカは言う。私達人の、秘密の会話。礼を言うべきだ、あのひとに。ふとルーデルの存在を思い出す。けれど、もう背中しか見えなくなっていた。
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