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 遡ること、ちょうど十年前。私の人生は変わった。いつもと変わらないその日、母さんは死んだ。無論、血がつながっていない、今や幻想世界の住民の方の母が。


 何の変哲もない集合住宅の一角。きっと歴史の一瞬にも浮かばないような平凡に、私と母さんは暮らしていた。


 効率的に設計された家々は、その内装はともかく外装はほぼ均一的で、幼少期それをつまらなく感じたことを覚えている。直方体を組み合わせた建物が、歪みなく整然と立ち並んでいて、その中を特に有名でもない道が走っていた。名前すらもう思い出せない。


 当時、社会的地位の低い人間達や、特権的な階級になり損ねたようなひとびとは、自分たちの不満を発散させるために、何気なく歩いているような特別でないひとたちの命を消費していた。自分達は、生まれながらにして不幸な人種であった。だから、そういった社会構造に巣食う寄生虫を、卑劣な支配者を淘汰せねばならない。自分たち弱き者たちの幸福を勝ち取るために。それが必要なことで、正義なのだと。


 支配体制を、等と言う割に、皮肉にもその行動の結果によって非起こされる被害の大部分は何の罪もない一般人に降り注いだ。だから、より一層彼らは弾圧され、そしてより一層彼らは不当な圧力を強いる私達に反骨精神をみなぎらせた。悪循環、という一言で片付けるには誰も報われないような状態だった。


 私が住んでいたその街は、忘れてしまおうと努めた故郷は、表面上は中の上くらいの社会的立場にあった。しかし、その街を作り上げた特権階級者にとっては、少しは有名な土地だったらしいことを今の私は知っている。そこは、やむごとなき身分の方々が作った不思議の国。そこには、あまり公にしたくないような、彼らのパートナーやその子どもたちがたくさん住んでいた。


 この話は、裏を返せばそういった人々たち以外には、まったくもってシャットアウトされていた。さすがに噂くらいのものはたつだろうけれど、自分達の秘部を隠すために多くの大人たちが気の遠くなるほどの注意と年月を払ってその作品を築いたらしい。だから、偶然にも過激な人間達が、彼らの持ち得るだけの暴力を振りまいたのはまったくの偶然だったらしい。


 運のいいことに。いや、悪いことに、か。その日、私は熱を出して家で寝込んでいた。病の峠を超えた所といった頃合いだったと記憶している。学校にも行かず、体調不良をいいことに惰眠を貪っていた。昼過ぎくらいだと思う。人々の騒々しい声が突然聞こえてきて、酷く狼狽した記憶が鮮明に今の私の中にも残っている。


 騒ぎが大きい方角へ母が買い物に出ていたのを朧気ながら思い出して、幼い私は靴を履くのも忘れて家から飛び出した。ひどく、理由のない不安が私を襲ったから。九つになる直前くらいの私の足で、その目的地は走って十分もしないところにあった。けれど、その騒ぎから離れようとする人の波に遮られて、実際には二三倍も時間がかかったと思う。


 私が到着した頃が、まさに混乱の絶頂だった。眼の前で暴走した重機が人間ごと地面をえぐり取っていた。裏道からも不気味な声や音が聞こえてきて、とても怖くて確かめようとも思わなかった。警察や軍隊の介入までの間、この世から切り離されたかのような世界が確かに私の前に広がっていた。


 私が母だったモノと再会したのは、派遣されてきた軍によってその暴動が制圧されたあとになってからだった。はじめ、私にはそれが母とは分からなかった。本能が必死に理解を拒絶したから。


 母さんは、建物の壁に刳りこんでいた。その上に、他の多くの人たちもまるで潰れた蜘蛛みたいになって折り重なっていた。辛うじて、見慣れた髪の毛の色と、朝に目にした服装との一致が、私にそれが母さんだったのだと知らせた。あまりわかりたくない事実を、それらが如実に証明していた。


 気がついたら、家に戻っていた。多分、兵士か警察官にでも無理矢理にでも家に押し込まれたのだと今では思う。その晩、やっぱり母さんは帰ってこなかった。そのときになって、現実を認めて、初めて、泣いた。そして吐瀉した。胃液しか残っていなかったけれど、それでも吐いた。涙とともに、自分が見てしまったものを忘れようとして、出来なかった。


 それから何も食べずに2日ぐらい立ったころ。心身共に枯れ果てたころになって、私は他の遺族たちとともに近くで一番の病院へ国から呼び出された。そこでもう一度、母さんだったモノと対面した。めちゃくちゃになっていたはずの母さんは、一部欠損していたけれど、可能な限り人の形に戻されていた。母さん以外の死体も何とか接ぎ合わせて、見せられるようになってからその遺族や親しい人々へ送り届ける予定だったらしい。


 私の担当者は、母さんがどのように亡くなっていたかを、可能な限りオブラートに、けれど正確に教えてくれた。少女にそれを告げることが、その人にとっても多大な心的な疲労を強いただろうと思う。でも、私にとってそれはもはや聞くまでもないことだった。私は知ってしまっていたから。きれいに繋ぎ合わせられる前の母の、本当の姿を。後にも先にも、あれ以上の悲惨な光景を私は見たことがない。人間は、あんな風に、なっているんだ。そんなイメージが私の深いところに根を張ってしまった。どんなに見つめたって、母さんは死んでいた。いくらか死化粧までしてもらっていたけれど、生者特有の匂いが完全に途絶えているのがまじまじと感じられた。


 いつの間にか、担当者の話す内容は母の話から私の話に変わっていた。母を失った娘を引き取るような親戚のたぐいが見つからなかったから。その代わり、我ながら特異な血を、あるいは宿命とでも言うような何かに拐かされていることが分かった。母さんの前で静止していた私を迎えに来たのは、個人とかの施設の職員ではなかった。そうして、初めて私は自分がどういう人間なのかを知らされたのだった。



「それが、ジークフリーデ皇女殿下のルーツですか」


 フランチェスカの相槌に私は小さくうなずいた。


 前述したよりもう少しまとまりのないことを私はフランチェスカに話した。彼女の知らなかった話。これでも親しい間柄だけれど、彼女を雇って半年も経っていなかった。だから、もしかしたら何らかの記録でおおむねの事情は知っていたのかもしれないけれど、彼女に私の身の上話を直接聞かせたのは初めてだった。そもそも、フォーアライターの姓を経てから自分語りをした覚えすらないし、そんなナルシストな趣味もない。


 ルーデル少佐との会話から何日間か、私は何かを忘れるのに努めようと仕事に打ち込んでいた。その結果、逆に手持ち無沙汰となってしまったものだから、艦内の専用室で侍女と二人きりの時間を生む結果となった。私は話を続けた。


「最初は、あまりに子供らしい発想だった。皇女になれば自分みたいな小娘でも大きな権力が得られるって思った」

「復讐のために、ですか?」


 フランチェスカの声に批判的な意味合いはなかったものの、今度はうなずくのをやや躊躇った。他の候補者を蹴り落としたのに引け目を感じる理由の一つだった。復讐という単語に、美を感じる手合いではなかったから。


「えぇ。私が赴任してから国内情勢の安定のため、という建前で治安維持を推進した理由」

「その頃は……私はまだ半人前でしたが、それでも情勢の変化といったものを肌に感じてはいました。明らかに下層階級の治安は改善されましたよ。ただ、治安維持、というと暴力的な性質を感じますのでやや不適当な表現かと。フリーデ様は旧世代の歴史について学ばれておりましたね。オットー・フォン・ビスマルクという人物をご存知ですか?」

「飴と鞭、って言いたいの」


 フランチェスカが同意を示して、冷たくなった紅茶を下げた。


 私が正式な皇女となったとき最優先とした政策がそれだった。結論から言って、徹底的なまでに敵対勢力を懐柔した。帝国の、フォーアライターら封建貴族に対するマイナス感情の主たる由来が貧困なのだから、それを取り除いてやった。


 本来、皇帝や皇女にはその孫の世代まで遊んで暮らせるほどの富が懐に入る。でも、私にはそんなモノは全く必要が無かったものだから、その殆どを自分が推進する下層市民の福祉に当てた。それは落ち着いた今でも細々とは続いているし、それが臣民がますます私を好む温床にもなってしまっていた。


「これはあくまで私の持論だけれど、力を持った組織というのは危機に面したときより平時のように穏やかな帰還の方が維持は難しい。辛いときは何かにすがってでも戦う。それが物質的なものであれ観念的なものであれ、自分を支えるモノがさえあれば必死なまでに戦う。けれど、一度心が失速してしまったら終わり。巨大な力を持った艦も、一度動力を止めてしまうと再び動き出すのに時間が掛かる。人間もそれと同じ」

「そして、それでも刃向かう相手を撃滅する大義名分を掲げられるわけですね。一粒で二度おいしい。あ、紅茶入れ直しましたよ。今度は飲んでください」

「ありがとう」と私はそれを一口飲み、「私としては寧ろ、それでも刃向かう連中の相手こそが本番だと思っていたの。母さんの仇も弱体化したし、世論も味方についたし。虐殺皇女とか言う類いの汚名を浴びても満足だった」


 私は母さんを、自分の世界を壊した連中を潰すことを原動力にして生きていた。母さんがそうされたように、徹底的に、人としての尊厳を笑いながら踏みにじってやる。そんな心持ちだった。いざ外堀を埋めて、泣いて謝ろうがその泣き顔を蹴ってでも畜生風情共を潰して回ろう。そんな殺意と人生の絶頂のとき、しかし、殆どの武力勢力は碌な反抗もせずに投降してきた。結果的に、最小限の血の量で永遠と続いていた内紛まがいの帝国内の乱れは収まっていたのだった。


「あのときは、そう。白状すると、興醒めだった。その頃には私の生活を殺した組織もまだ反抗を続けてくれていたの。けれど、肝心の主犯格はその仲間によって殺されていて、私はその顔すら直に見ることすら出来なかった」

「降伏したわけですね、彼らは。そのまま交戦し続けても先は見えていますし。それで、投降してきた捕虜は扱ったのです」

「記録にもあるでしょう。ちゃんと法の手引きに乗っ取った」


  私は二杯目の紅茶まで捨てるのは勿体なく感じたからそのタイミングで一気に喉の奥へ注いだ。これがアルコールなら体に悪いでしょうね、きっと。そんな飲み方で、普段の優雅さとかはどこかに忘れていた。飲み込んだモノを吐き出すように私は言った。


「お陰様で、私はそれなり優秀な皇女として奉られている。平和の少女、みたいなメディア向けの二つの名とか、数え切れないくらい創作されたんじゃないかな……」

「そうでしょうね。事実、帝国に長年くすぶっていた火種を見事鎮圧したのですから。帝国指定の教科書に将来記載されても不思議ではありませんよ。フリーデ様の前代、前前代と愚策はなかったものの、目覚ましい活躍もされていませんので、余計に」


 フォーアライターの皇帝、皇女は終身制ではない。フォーアライター血族以外の人間による年毎の臣民投票で過半数を切った場合、その時点で普通の人間に成り下がる。前皇帝は働きの地味さに反比例するかのように、あまり上品ではない趣味に帝国の予算の一部を注いでいた。


「私にとっては、先代のスキャンダルの宝庫は幸いだったな。現皇帝、皇女が優秀なら、そもそも席が空かなかったでしょうし。本当に、運が良かっただけね、私」

「それでも、貴女がなさった努力はひとに誇れるものだと思いますが」

「努力、か。でも、ひとの行いを正当化するのは結果よね。頭の出来は私より優秀なひとはたくさんいる。強いて言えば、そう。リッターの操縦くらいかな、一番になれたのは」


 どこか古くさいけれど、フォーアライターの統率者は文武両道が理想だった。ただ、ライバルの大半はその肉体面で私に劣るのは数えきれるほどしかいなくて、そこで利用したのが、前述した人型兵器リッターだった。あれは、勿論肉体が優れているに越したことはないでしょうけれど、何より反射神経が重要な武器だった。


 自分で言うのもなんだけど、才能はあったらしい。訓練時に出した模擬戦等の記録は男女区別無く、同年齢の訓練兵に未だ抜かれていないらしい。そういったことを後々その筋のスペシャリスト――無論、件の彼、ルーデルだけど――から耳にした。私がルーデルら騎士に関心を抱くのはそういう背景があるかも知れない。


 そういった諸々の回想を通して、私は結論した。


「今の私に過去の私が持っていたような、熱い意思は残されてはいないな。理由がないと頑張れないなんて、人間って面倒な生き物よね」


 一応、完全に私が今のような状態になるための最後の一押しとして、血の繋がった実の妹が私と母さんの秘密を暴いてしまったという重大事件がそこに続くのだけれど、それについてまで語るには少し疲れてしまっていた。そんな私を見つめていたフランチェスカは、明確な表情に出す代わりに提案した。子供がふとした思いつきを親に語るように。


「ならばいっそ、辞めてはいかがです」


 愛を告白する純粋な、初心な少女のように、フランチェスカは決心するように静かに、けれどはっきりと口にした。ジョークだとしたら、中々。そうでなければ、どうしよう。私は息を呑みかけたものの、踏みとどまった。平常心を装うことに失敗はしなかった。私は可能な限り、普段通りの調子を装う。


「皇女を?それこそ、前代未聞ね。自分から冠を捨てたフォーアライターがいたかしら。でも、もし私がそうしたら、貴女はどうするの。また、次の皇帝や皇女に仕えるのかしら」

「もし貴女が皇女の位を捨てたとしても私はお供しますよ」


「え」と情けない音が漏れた。


 今度こそ、本心から驚いたし、隠せなかった。皇女をやめてしまえ、と本人に提案するのも中々衝撃的な事だとは思うけれど、そんな相手のお供します、なんて。泥船に喜々として自ら乗り込むようなものじゃない。


 文字通り、言葉を詰まらせた私のカップに、真っ赤で、あまりに熱い液体をフランチェスカはもう一度注ぎ直した。


「フリーデ様が主ですからそれに着いて行くことは自然です。私はフォーアライターではなく、ジークフリーデという個人に仕えたのですから。国家の責任はどうともすれば宜しいでしょう。どなたかが引き受けてくれますし、我々にはあずかり知らぬことです。けれど、私のことは責任をとってもらいませんと、困ります」

「困りますって……貴女の冗談は、心臓に悪い。それに、国家より自分の身に重きに置くなんて、中々に傲慢」

「本気ですよ。それに、私は元来そういう人間です。契約書には目を通しませんと。生憎、返品の類いは受け付けておりませんと書いていませんでしたか?」

「だとしたら、私はとんだ買い物をさせられたのね。でも、皇女の座を捨てた私に仕えて貴女に何のメリットがあるの」


 気取っては見せた。でも、気が弱っていたせいなのか、告白すると例え冗談でも嬉しい申し出だった。でも、それでもユーモアの域を出ない、と私は思った。何ら現実味もない。なのに、彼女は続けた。あまりにも簡単なことだと言いたげに。


「これは私の持論ですが、すべての人間が損得勘定だけで動くわけではありませんよ。まぁ、幼児ではありませんからそういう人種が多い、ということまでは否定しませんが。何、最悪貴女が無職の穀潰しになっても、存外何とかなりますよ。私もフリーデ様のようにあまり私事に金銭を必要としませんから、女二人が慎ましく隠居生活するくらいの蓄えはあります。だから、何も心配なさることは無いんですよ」


 フランチェスカは優しく、諭すように言った。全くノーガードで。何の包みも持たずに。対人関係では、あまりにも無防備に過ぎる。致命的だ。純粋無垢な子供のそれに近い。私は何か熱い感情を流してしまうのをやっとの思いで抑えた。


「それでも、私はそんな生き方は出来ないと思う。でも」私は、久しぶりに純粋な笑みを浮かべ、「ありがとう。正直、うれしかった」

「ありがとう、ですか。ふふ、言われ慣れない言葉です、それ」


 彼女のそう言ったときの表情を、表すべき言葉が私には見つけられなかった。


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