第7話 これが落ちていたんだが。

 「小木くん、悪いんだけど私の折り畳み自転車を積んで帰って貰えない?事務所の玄関に置いておいて、よろしく。次の打ち合わせ間に合いそうにないから藤野さんと会場を出るの。」と女性は控室を足早に退出した。「ちょっと、東チーフ!」と男性は発するも、女性には届いていない。急いでいる女性は、廊下に出た所で打ち合わせ先に少し遅れる旨を伝えようとカバンから古びた携帯電話を取り出した。すると何かが落ちる音が微かになった。しかし、フロアマットは、優しくその音を包み込んだ。女性はそのことに全く知る余地はない。女性は、階段を降りて建物裏側の出口へと急ぎ、車寄せに止められていた車に乗り込んだ。

 「すみません、藤野さん。お忙しいところ、載せて頂いて。」と便宜的に女性は処理した。

「同じ場所に向かうのだから、面倒な事はありませんよ。」と男性は言う。しばらく沈黙した後、女性から話を切り出した。

「134Aの具体的な使用規制についての議論は進んでいるのでしょうか?」と少し寂しげに女性は言った。

「勿論、進んでいるよ。ただ、EUとは随分離されてしまっているけどね。」

「どうして、どうしてそんなに遅れるんですか? 随分前から代替冷媒の話は出ていましたよね?」と女性が揶揄する。

「日本は、行政、メーカー、組合が一丸となって進めるのに対して、EUは、トップダウンすなわち政府や行政から規制予告が出る。それに対してメーカーが対応している。君が一番よく知っていることじゃないか。それに国民性の違いが大きい。特に環境意識の面においては。」

「ですので、行政主導で規制予告を掛けてほしいのです。GWP(温暖化係数)が1400対4ですよ。その差およそ、350倍の抑制が期待出来るのに。インフラが整うのを待っていては、手遅れになります。指をくわえて待っているのも、もう限界です。」と女性から発する口調が少し感情的になった。

「私達を舐めて貰っては困る。ただ手をこまねいている訳ではない。土俵が違えば、当然、ルールや慣習が違ってくる。その中で精一杯、ベストを尽くしているんだよ。第一この日本でそんな事をしたら、必ず反発が出る。緊急性が無い限りはね。」

女性がすかさず言葉を挟んだ。「緊急性が無い?急務である課題です。局長の本心ですか?起こり始めてからでは遅いんです。」

「東くん、少し落ち着きなさい。少し空気を入れ替えよう。」と男性は言ってドアガラスを少し下げ、十二月の冷たい風を車内に送り込んだ。

「この分だとこの霙も夜には雪に変わるかな?」と男性が一拍おいてから続けた。

「町行く人を見てごらん。温暖化で困っている様に見えますか?まだまだ、日本人は温暖化や環境変化についての意識が低すぎる。この日本は温和過ぎる人種なんだよ。それに平和ボケしていてね。危機感をまるで感じていない。マスコミも表面的には取り上げるけど、結局、他人事、絵空事としか感じていない。無論、君みたいに志がみんな高ければ、事はすんなりと運ぶ。政府もどちらかと言えば経済主義の傾向が強い。今回のパネリストのように。」しばらくの沈黙の後、男性がこう続けた。

「私はこう思う。物事の本質は、表裏一体なんじゃないかな。君は、相反する思考にもっと耳を傾ける必要がある。君の様に強いエネルギーには相反する強いエネルギーを持って打ちのめされる。この間の様に。」

「この間の件は、とても反省しています。今考えれば、もっと上手く回せたと思います。」と溜め息をつくように女性は言葉を並べた。

「そう。相手の出方が分かれば、もっと早くに対処出来たはずです。だから、代替冷媒の件だって私は、世界動向をリアルタイムで受けているんだよ。でも、東くんのその真っ直ぐな心、私は好きだけどね。うちの部署の連中もそんな東くんをみんな気に入っているよ。ハヤブサの様に俊敏なフットワークにライオンの様な闘争心。貴方の陰ひなたのない性格に表裏は無さそうだ。それにしがらみが無いっていうのも、私達にとって羨ましい限りなんだよ。」

女性は斟酌した後、「恐縮です。」と言葉を添えた。

「お役人は、足元を固めながらしか進められない。それが難点と言えばだが。まあ、それも表裏一体といったところでしょう。我々は、着実に一歩、また一歩と進んでいる。ゾウやサイの様に。確かな一歩を。」と知命を迎えた藤野が言った。


 龍太は誰も居なくなったホールから出て、建物裏側の出口へと向かった。誰も居なくなった廊下を抜け、階段を降りた所に古めかしい赤い手帳が落ちていた。公演を聞きに来ていた人が、どうせ落としたんだろう。と思い拾い上げた。するとその反動で切り取られた一枚の写真が手帳から落ちた。もう一度しゃがみ込み、写真を拾った。その写真には、一人の子供が映っていた。よく見ると写真には、男の子が病院の様な廊下で立っていた。右手には、点滴台を握りながらピースサイン、左手には酸素ボンベを引きずっており、鼻には管が通されている少年の姿がそこにあった。小学五、六年生だろうか。にこやかな少年の笑顔とは裏腹に医療機器が一層、痛々しさを際立たせている。

 龍太は、ふと翔馬との幼少期を想い出す。翔馬はジュニアグランプリファイナルでクラッシュに巻き込まれ、全治3か月の大けがを負ったのを思い出した。幸いその後は順調に回復を見せ、医者の宣告通り3か月後に退院した。龍太はその間、何度も見舞いで病院に通っていた。そんな時期の翔馬とこの少年が何故か龍太の心でシンクロし、龍太の脳裏に焼き付いた。面影もどことなく似ている二人であったのも一つの要因だったのかもしれない。手帳の中身を見る気にはなれなかった。

 その後、受付カウンターに行き、手帳に写真を挟んで届けた。「2階から裏口へ向かう階段で降りた所に、これが落ちていたんだが」と受付室にいた男性へ手渡し会場を後にした。降り続く冷たい雨は帰社した頃、冷たい六花となって優しく舞っていた。

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