第5話 少しは、環境について学んで下さい
視察当日、龍太は珍しく早起きだった。なかなか寝付けなかったにも関わらず、早朝から目が覚めてしまった。もう一度、眠りに就こうと思ってベッドに潜り込んだが眠れなかった。昔から朝の気だるさが苦手で、いつも「朝なんて来なくていいのに」と思う程だった。いつもより二時間も早く起きるなんて龍太にとっては、有り得ない事だったが煙草を吹かしながら、やかんに湯を沸かし始めた。早朝のコーヒーは、いつもと違う味だった。いつもと同じインスタントコーヒーなのだが何かが違った。その何かは分からない。だだハッキリと確信が有った。何かが違うのをハッキリと龍太は感じた。湯気が上るマグカップを眺めても、それはいつもと同じ光景だった。「こんな日は、何も悪いことが起きなければいいが」と思った。時間を持て余し、早々に会社へ行く事にして車を走らせた。その理由は、今日は役所が経過視察に来ることを思い出したからだ。流石に今日ぐらいは大嫌いな整理整頓や掃除をしなくてはと、今更ながら思ったが思う度に気持ちが滅入って来た。やるせない気持ちに苛立ち、吸っていた煙草を車窓から投げ捨てた。その煙草は、火花を散らしながら道路を転がり、秋風と共に何処かに消えてしまった。
龍太は、会社に着くと真っ先に工場に入った。晩秋に入った場内は、静けさとひんやりした空間にどことなく優しさと温もり、なつかしさを感じていた。それは、早朝に感じたのと同じ感覚であることを思い出した。いつもの様に今朝、コーヒーを飲んだ時に感じた感覚がそれであることに間違いなかった。いつもとは違う感覚に龍太は違和感を抱きながら、場内を見渡し始めた。床はいつもより歩きやすく、排水溝と分離槽も驚くほど綺麗に清掃されていた。自動車を載せて昇降させる二柱リフト前に設置してあるオイル受けも見事に綺麗になっていた。龍太は二人の仕事ぶりに少しは安堵した。先程の違和感は気づかない内、そっと消えてしまっていた。さっきまでの感じは何だったんだろう?と龍太は首を傾げたまま、とりあえず今日の視察は一先ず切り抜けられそうだと思った。この状況だと大嫌いな掃除をする必要も無く、安堵と共に煙草に火をつけた。銜え煙草で構内をうろつき改善要件を満たしているのを何度も確認した。吸い終えた煙草を地面に投げ捨てようと思ったが、思い留まって止めた。折角あいつらが綺麗にしてくれたんだから今日ぐらいはと思い、休憩所の吸い殻が山盛りになった灰皿スタンドで押し消した。やる事が無くなった龍太は、社長室の様な部屋にある、いつも昼寝をする長椅子で仮眠する事にした。一抹の不安も解消し、朝早く起きたせいもあって段々と瞼が次第に重くなっていくのを感じた。意識も次第に薄れ、誰もいない光と闇の狭間に吸い込まれていった。
この狭間は、龍太にとって最も重要な領域であり、唯一心を開ける神聖な場所でもあった。幼少期の楽しかった思い出が一面に広がり始め、父が営んでいた整備工場での思い出や不動車のエンジンが掛かった時の喜びは今でも色褪せずに心の中に大切にしまわれている。そして最初で最後の親友、翔馬との想い出も大切に、いや厳重に厳格に箱でしまわれ保管されていた。この箱という名の想い出は、龍太本人ですら開ける事が出来ないでいるパンドラの箱なのだ。鎖がそこかしこに繋がれ、錠前が至る所に掛けられている。そう、本当は一番開けたい箱なのだが、想い箱自身ですらその開け方を知らないでいる。まるで監獄の牢に繋がれた囚人みたいに孤独で力無くひっそりとそこに有った。光が届かない海底の様な奥深くに。誰も寄せ付けない様にと、そっと、そっと、ひっそりとそこにあった。想い箱は半色の靄に包まれ、中の様子ははっきりとは伺えない。黒い靄の切れ間から微かな光が針のように差し込んで時より見えるだけだ。形状や大きさ、色合いなども皆目見当も付かないでいる。やがてその靄は、霧となり龍太にとって大切なモノたちを次第に襲い掛かる算段でいるらしかった。時間を掛け、ゆっくりではあるけれど確実に龍太の心を蝕んでいた。
長椅子の上で目が覚めた時にはいつも「さて、午後からも頑張るか」と伸びをしながら思うのだが、壁掛け時計を確認すると午前9時を過ぎていた。一瞬、いつもと違う状況に少々戸惑った。「やれやれ、慣れない事はするものではない。」と龍太は思った。
工場に入ると社員たちは、既に仕事を始めていた。一人の社員が話しかけて来た。
「何処にいたんですか?心配していたんですよ。」と半ば便宜的に質問して来た。
「いつもの部屋で仮眠を取っていただけだ。」と愛想ない口調で答え、自動車の解体作業に入った。車内に張り巡らされた銅線を回収する為、内張は無残で修復不可能なぐらい粉々の様相になった。茶褐色の錆に浸食した穴だらけのマフラーを外し、クタクタのサスペンションが降ろされ、最後に自動車の心臓部であるエンジンが引き抜かれた。今まで大切に乗られてたであろう自動車が一台、また一台と息を引き取って行く。様々な理由で乗り捨てられた彼らからは、悲鳴のような感情を抱かずにはいられない。「私は年式が古いだけで、まだ走れます、、、、。」「私も少し修理すれば、まだまだ元気に走れます、、、、。」「私もご覧の通り古ぼけて錆が酷いですが、まだ走る事は可能です、、、、。」と乗り捨てられた自動車たちの胸中察する所、万感な思いが沸き上がって来るはずだが、そんな儚い心中も虚しく、淡々と勘酌する余地無く作業は続いた。
しばらくすると女性従業員が工場に入って来た。
「社長、道庁の環境生活部の方がお見えです。」
龍太は、使っていた工具を放り投げ、無言のまま事務所に入って行くと、男性二名が玄関前に立っていた。一人は五十歳ぐらいの中年男性で典型的な昔ながらの風貌だ。髪は白髪が多く、量も年々薄くなって来ている様子でキッチリ七三に寸分の狂い無く分けられている。地味なスーツを身に纏い黒縁メガネを掛け、顔には所々消える事は無いであろう小さな肝斑が幾つかあった。一見、脆弱そうに見えるが実は、部をまとめる部長の役職に就いている。もう一人は、対照的に体格がガッチリとした大柄な男だった。大学時代まで柔道かラグビーを間違いなくやっていても不思議ではない体格だった。スーツがピッタリしていて、見ているこちらまで窮屈に思えたし、余りにもスーツが気の毒に思えた。おそらく何も入っていないであろう手提げ鞄もまるで豆粒でも摘まむみたいに持っていたし、体臭を惑わすかの様に、清潔感たっぷりの男性用オーディコロンが時折香ったが、煙草臭い空間に揉み消されていた。
形式的な挨拶を早々に済ませると中年男性が話を切り出した。
「今回の訪問は、文書でもお知らせ致しました通り、施設の運用方法、特に環境面での経過視察となります。今回で三度目となることを考慮すれば、視察結果によっては然るべき対応をしなければならない事を承知しておいて下さい。」と切迫した面持ちで言葉を放った。
「早速、施設の方を見せて頂きますか?」と中年男性は続けた。龍太は「では、こちらへ」とだけ言って工場を案内し始めた。天井、壁、床は依然として黒ずんだままだったが指摘した要件事項の改善ぶりに中年男性は、関心し頷きながら目を丸くした。大柄の男性は、珍しい物でも撮るように熱心にカメラのシャッターを無言で切った。
「改善要件の方は、満たしているのを確認しましたが、今後も不定期に経過措置として視察を行います。視察日程は、日を改めて文書にて通知致します。」と中年男性が言ったのに対し、龍太の射るような眼差しで男性を捉えていた。
「言われた事を言われた通りに改善したのに、なんで経過措置を取る必要があるんだ?」と龍太は少々、声を荒げて質問した。
「光野社長の仰る通りなのですが、今回の視察で改善が見られた事は大いに評価するに値しますが、本当の意味では、まだ綺麗になっていないとの結論です。」
「本当の意味?」と良く理解できない言葉を反復した。
「はい、本当の意味で綺麗になってはいないのです。簡単に申し上げますと一時的なモノでしかないとの結論です。本来、地域環境に配慮した場合、行政指導や処分(命令)が出る前に人として地域環境としての客観的かつ人道的道徳感情から申し上げますと、やはりエンジンオイルが滴る大地やエンジンオイルが浮遊する河川では人類は愚か生命の存続が危ぶまれるのは目に見えているからです。ですので御社は本当の意味に置かれまして、事業の本質を良く理解出来ていない様なので、今後も継続的に経過視察を行う事になります。」と龍太の眼光を難無くすり抜け、中年男性は口を噤んだ。
「じゃー聞くが」と龍太は切り返した。
「一社だけの問題でも無いだろう。以前に同業他社に用事が有って寄ったが、汚れ加減なら遜色ない様子だったし、下手をすればうちのより汚れ方が酷かったのを覚えているが違うか?うちの会社だけ綺麗にした所で地域環境なんて変わりっこないだろう。」
「そう感じたので有れば、そうなのかもしれません。私たちの指導力不足も一因であるのも事実ですが、一社、一社が地域環境に配慮した作業を我々は、粘り強く指導する義務を全うして行きますのでどうか御理解頂きたい所存であります。あ、それとこの様な講演とシンポジュウムが開催されるのをご存じですか?」と言って中年男性は、話を切り返し丁度良い事が閃いたみたいにポンと握り拳を手の平で叩き、大柄の男性が持っていた似つかわしくない鞄からA4ファイルに挟まれた用紙を龍太に手渡した。そこには、財団法人環境保全ネットワークス主催「消費する本当の意味 ~今使ったその消費、本当に必要でしたか?~」との見出しが書かれた用紙だった。
「もし興味が御座いましたら、聴いて見ては如何でしょうか?出席も無料ですし。」
「単刀直入に言って、全く興味がない。これは、義務か?」
「いえ、任意です。色んな方にお勧めしています。」
「これを受ければ、うざったい視察は無くなるのか?」
「それは一概には言えませんが、光野社長次第とだけ申し上げておきましょう。少しは、環境について学んで下さい。」と言って二人は深々と礼をして乗って来たハイブリッドカーに乗り込み帰って行く。大柄の男性は、終始一言も発する事は無かった。
龍太は、チッとだけ舌打ちを鳴らし、右手で持っていた用紙を両手でグチャグチャに丸めようと思ったが思い直して止めた。任意と言いながら義務であるかの様な言葉尻がとても気に食わなかったからだ。事務所に戻った龍太はこう考えた。俺にとって講演とシンポジウムの所要時間を合わせた3時間は、無駄な時間の浪費でしかない。しかし、視察の間隔が少しでも長くなるのであれば、少なくともあいつらのいけ好かない面を拝まないで済むのなら3時間という無駄な浪費も悪くないと思い直したし、大好きなオートマガジンを読んだって、居眠りをしたって出席した事実には変わりないだろうと安易に思い、用紙の出席欄に氏名と住所を書き主催者側にファックスした。ついでにいけ好かないあいつ等の所にも送ろうと考え、送信ボタンを力強く押す。
もう一度、開催場所と日時を確認するため用紙に目を通した。そこには、講演者やパネリストの経歴と顔写真が載っていた。
講演者、東 祐希 財団法人 環境保全ネットワークス ユニットマネージャー。
パネリスト、富沢 博之 経済評論家、柳田 智子 NPO法人市民ネットワーク代表、松下 健人 北海道大学院 地球環境科学研究院教授、藤野 康士 環境省 総合環境政策局 局長。
龍太は読んでいてパッと思いつく人は、もちろん誰一人としていなかった。東 祐希と言う名前と顔写真だけが少しばかり気になったのだが、なぜ気になったのかは本人ですら分からなかった。
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