第257話 聖堂に降り立ちし者
(著者より)
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「な、なぜあの短剣が抜けている!」
教皇チャピンが、その大きな腹を揺らすようにぎょっとした。
光の鎖で完璧に拘束していたはずの男が、意識を失った少女を抱きかかえて石畳の床に舞い降りる。
その顔に静かな怒りを湛えて。
篝火の灯りに照らされる男の影が異様に大きく見えて、聖者たちは無意識に後ずさった。
「お、おい! どうするんだ! あいつを自由にしたら、また悪魔を出してくるぞ!」
チャピンは振り返り、側近たちに怒声を浴びせた。
そう、今しがた短剣が抜けた男は、世にも恐ろしい大悪魔を複数従えているのである。
「教皇様。心配無用です」
うろたえ始めた教皇を、一人の男が背にかばうように立ち、剣を抜く。
【偽勇者】ケビンである。
「ご覧の通り、奴の体はまだ淡く輝いています。あれは主神の短剣の効果が消えていない証拠」
やかましい男がこれ以上喚かぬよう少々大げさに告げたが、実際サクヤが悪魔の従者を喚び出すにはまだ数分は必要だろう、とケビンも見ていた。
「加えて奴らはいまだ【聖域結界】の中。こちらとしてはなんら不利な要素は出ていない。今のうちに私が息の根を止めてみせます」
結界内では邪なる者は力を大幅に失う一方、光の神の下僕は【不死】を得る。
この【聖域結界】がある限り、主神側に負けはないのである。
「ほ、本当か、ケビン!?」
「はっ」
ケビンは短剣から逃れた男を不敵に見据える。
サクヤが失った記憶を取り戻したであろうことはその表情でわかる。
しかし抗って聖域結界から出ようとしないところを見ると、立っているのがやっとの状態であろう。
あれを倒すのは、赤子の手をひねるようなもの。
「よ、よし! この場から僕を救い出したなら、どんな望みでも聞いてやるぞ!」
「ありがたき幸せ」
口では恭しく言いながら、ケビンは内心で全く別のことを考えていた。
この騒ぎに乗じて、ついでにこいつを殺しておくのも悪くない、と。
さすれば、おのずと次代の教皇は自分に降ってくる。
こういう予想外の事態は、経験上10年、いや20年に一度あるかないか。
逃す手はない。
「どこから迷い込んだか、あの女の悪魔も名のある存在らしいですね」
ケビンの横に並び、剣を構えながらそう言ったのは、先ほどまで審判を務めていた男である。
ケビンと同じ枢機卿職のひとつ、
「ふむ」
ケビンもサクヤという男の腕の中で気を失っている女の悪魔に目を向ける。
女の悪魔は神の短剣の創をその身に貰い受けながら、いまだに命を繋いでいる。
到底、只の悪魔ではない。
「そうだな。だが、飛んで火に入る夏の虫。この勇者ケビンがもろとも成敗してくれる!」
「微力ながら手伝います――!」
ケビンに続き、ハンクスも動いた。
「死ねぇぇ――!」
枢機卿の二人が一迅の風のように駆け抜けて一気にサクヤと少女に近接する。
見て取ったサクヤは少女を抱いたまま、懐から剣を抜いて応戦せんとするも、先ほど戦った時のような力強さがないのは誰の目にも明らかだった。
しかし。
「――させません」
キィン、キィン。
ケビンたちは、上から現れた何者かの見事な剣さばきで退けられる。
「なに」
ケビンとハンクスが驚いて距離を取る。
サクヤたちの前に、二人の女がふわりと降り立っていた。
「どういった理由があるか知りませんが、サクヤ様への危害は許しません」
凛とした声。
白いドレスの中で、揺れる黒髪。
割り込んだのは『剣の国』リラシス王国第二王女フィネスである。
そして、彼女のそばにはもうひとり、重装している赤髪の
二人がここに来ることができたのは言うまでもない。
戦の神ヴィネガーがアリアドネらの危機を救うべく、さらにゲートを開いたのである。
「剣姫フィネス。なぜ邪魔を――」
ハンクスが食って掛かるのを、ケビンが手で遮る。
「『聖剣アントワネット』……? なぜお前がヴィネガーの祝福武器を使える?」
ケビンの問いかけに、しかしフィネスは黙っている。
「これは面白い。リラシスの王女が当代の【戦の聖女】というわけか。まさかこの時代に3人もの聖女が遣わされていようとは」
ケビンはハッハッハ、と声高に笑い出す。
「それは違います。私はそんな立派な存在ではありません」
戦の神は信仰すらしていません、とフィネスは言う。
「自分で否定しているだけだ。……今はお前に説明してやる暇などないが」
ケビンは剣を突き出し、その切っ先でサクヤを指し示す。
「目を開いてよく見ろ、戦の聖女よ。お前たちが守ろうとしているそいつらは悪魔。聖女が主神の行いの邪魔をするなど聞いたこともない」
「下がれ、リラシスの王女。その行いひとつで、我が国とリラシス王国の友好関係をふいにすることになろうぞ!」
ケビンに続き、ハンクスがフィネスを説き伏せようとする。
だがフィネスは顔色一つ変えない。
「サクヤ様を害するというのなら」
フィネスが剣を構え直す。
「
「オホホ。あなた方こそ他国の使者になしていることをお考えになったら?」
フィネスに寄り添って立つ赤髪の護衛も、細身の剣『宝剣ジュラーレ』を構える。
そう、彼女はカルディエである。
「――なんだこの女どもは!? どうやって入ってきた!」
教皇チャピンが再び騒ぎ出すが、もはや誰も相手にしない。
「いいだろう。聖女といえど、勇者の私には決して敵わぬことを知れ!」
ケビンが剣を構え直した、その時。
どこからか、ピロロ……という澄んだ音が響いた。
普通の楽器では作り出せぬ澄み切ったこの音は、貝を削って作られた笛によるものであった。
「むっ」
ケビンは顔をしかめて、手を止める。
その音は地下聖堂に反響しているが、減衰しない。
明らかに力をもって響き渡っている。
「……まさかこれは」
ケビンが気づいた時にはもう遅かった。
200人を超える聖者たちがバタバタと倒れ込み、大いびきをかいてその場に眠りこけてしまったのである。
ハンクスまでもが眠らされてしまっていた。
「おい、ハンクス!」
ケビンはその肩を蹴りつけるが、ハンクスのいびきは止まる気配がない。
「オホホ、本当に微力でしたわね」
カルディエは笑うのを忘れない。
もたらされたのは、【呪歌】による眠りであった。
これはエリアに効果を発揮し、エリアの範囲内であれば、何人いようとも効果に含めることができる。
さらに【呪歌】による眠りの場合、一定時間の行動不能を強制し、外からの刺激では覚醒しない。
このように作用は非常に強力だが、【呪歌】を知っている者なら抵抗自体は極めて容易である。
音が聞こえてきた段階で、笛の方に向き直るだけで効果に抗うことができるのである。
「くそ、何者だ!」
ケビンはフィネスたちから大きく距離を取り、声を張り上げる。
「面白そうだから来てみたのよ」
思わぬ方向から声がして、ケビンは振り返る。
カツカツ、とヒールを鳴らす音。
その声の主は倒れた聖者たちをヒョイヒョイと飛び越えてこちらにやってくる。
女だった。
手にはガラス細工のような笛を持ち、その体は精霊に守られ、淡い蒼色に包まれている。
「くそ、貴様か……」
ケビンが歯ぎしりをした。
「フィネス。気を引いてくれてありがと」
この殺伐とした状況で明るく手を振る。
「ふざけた真似を……」
ケビンはこの神聖とされる場所でつばを吐き捨てた。
さすがに感情を隠しきれない。
『聖者』たちの詠唱が途絶えたことで、その力を吸収していた
聖堂内を明るく包んでいた【聖域結界】のヴェールも、その光を弱め始めている。
【聖域結界】が失われれば、どうなるか。
そう、サクヤを抑え込んでいる力も当然減弱化してしまう。
ケビンが目を向けると、蒼白だったサクヤの顔に生気が宿り始めていた。
「――感謝する、みんな」
「サクヤ様!」
フィネスがサクヤに駆けより、その肩を支える。
「アーリィを頼む。治癒が効かない」
胸から血を流し、意識を失っている少女を二人に預けると、サクヤが剣を構えてケビンを睨む。
「サクヤ様、まだ顔色が悪いです。悪い予感しかしません。ここはいったん逃れましょう」
「そうですわ。命はひとつしかありませんのよ」
フィネスとカルディエがアリアドネの肩を支えながら、聖堂の出口を視線で示す。
「歌の眠りは3分しかもたないわね。逃げるなら今よ。どうする?」
ローレライはサクヤの反対隣に並ぶようにしてレイピアを構える。
「アーリィを頼む」
もう一度それだけを言うと、サクヤが前に出ていく。
「サクヤ様……」
サクヤに迷う様子などなかった。
しかし、その脚がふいにピタリと止まる。
サクヤは漂い始めた、全く別の気配に気づいたのだった。
「こ、これは」
少々遅れて、ケビンもその肌が粟立つような怖気に、あたりを見回す。
" くくく……待っていたぞ、この時を…… "
聖堂に野太い声が響いていた。
サクヤもケビンも、声がした頭上を見上げる。
だが姿は見えない。
「いったい何者」
ローレライが声の主を探るべく、
だが四方に放たれたそれは、ジュ、という音を立てて一瞬で蒸散させられる。
「えっ……」
" ラーズの下僕も愚かになったものよ……同族の争いでその水晶を使ってくれようとは…… "
何者か気づき、サクヤが目を細めた。
「まさか、これは……」
はっとして、フィネスとカルディエも息を呑む。
この声に、聞き覚えがあったのである。
突如、ピキィィン、という何かが割れる音がした。
いや、実際に割れていた。
聖域結界に黒い亀裂が入っていたのである。
" この我が窺っていることを忘れたか "
直後、なにかが天井から降ってきた。
ドォォン、と石畳を揺らして、漆黒の巨体が仁王のように立つと、サクヤたちを背にかばい、光の神の信者たちと相対する。
「………」
サクヤが一歩引いて、現れた真紅のマントごしの背中に剣を向ける。
それが何か、すぐに理解できたのは3人。
以前に目にしているサクヤ、フィネス、カルディエだった。
聖堂ながら、禍々しい空気があたりを包む。
そう、降り立ちしは魔王であった。
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