第256話 笑っているよ


 ヴィネガーの開いた転移窓ゲートをくぐった先は、純白の円柱が並び立つ、荘厳な広間だった。


 降り立つや、すぐさま合唱のような男たちの低い声が、アリアドネの耳に飛び込んでくる。


 移り変わった視界では、百人ではきかぬほどの神官服を着た者たちが広間に円を作るように集まり、一心に詠唱を行っていた。


 アリアドネはそばにあった柱に背を当てて身を隠すと、息を殺した。


「…………」


 そのまま、1秒、2秒、3秒。


 周りが動き出す気配はない。


 彼女は神官たちが作る円から20歩ほどのところに出現していた。

 幸い、並び立った大円柱の陰になるように降り立ったため、直接、彼らの目には留まらなかったようだ。


 腰に『聖剣アントワネット』を帯剣し、乱れていた呼吸を正すと、柱の陰からそっと顔を出す。


 左右の柱沿いに等間隔で篝火が焚かれており、視界の下方が炎の熱で揺らめいている。


(あの男……)


 集まった神官たちの中心には、でっぷりとした体格のおかっぱ頭の男が立っており、二重の顎を広げるようにして、頭上を楽しげに見上げていた。


 あれが教皇チャピンであることは、疑うべくもない。


(あの二人も……やっぱり)


 チャピンの後ろには、先程までサクヤと戦っていた相手の男や、審判だった男が控えている。


 アリアドネが想像していた通り、審判もチャピンの息がかかった者が行っていたようだ。


 アリアドネはそのまま、大聖堂の内部にさっと視線を走らせる。


「………」


 合唱された詠唱が、アリアドネのかすかな気配を消しているのだろう。

 彼らは全くこちらを伺う様子がない。


「サクヤくん……」


 アリアドネは頬にかかる銀髪を後ろに払うと、頭上に目を向ける。


 5階ほどにもなりそうな高さの天井でシャンデリアのように吊るされた十字架。


 そこにサクヤが鎖で縛りつけられ、磔にされていた。


 意識を失っているようで、サクヤは目を閉じ、ぐったりと脱力している。

 胸に刺さった短剣のみが、煌々と輝いていた。


 その白い光のせいかもしれないが、サクヤの顔色はひどく悪いものに見える。


「…………」


 アリアドネはぐっと唇を噛み、溢れそうになる涙をこらえた。

 今は泣いている場合ではない。


(大丈夫、まだあの人は生きている)


 アリアドネはそう言い聞かせて、なんとか平静を保とうとする。


 自分がしっかりしないと。


(………)


 アリアドネはちらりと、自分の指に視線を落とす。

 指輪がかつてないほどに指を締めつけている。


 それでも、締めつけの程度にはまだ余裕がある気がした。


 なんの根拠もない。

 だが、今は自分の勘を信じることにした。


 もはや指輪など、どうでもよかった。

 あの人を救うまで、自分の身が保てばいいだけのこと。


 今はただ、一刻も早く、あの人を救う方法を考えなければ。


(あの短剣さえ掴めたら……)


 アリアドネはできるだけ静かな呼吸をして、冷静に思考を巡らせようとする。


 そう、成すべきことは決まっている。


 短剣が、あの人を苦しめている。


 私はあれを取り去るだけでいい。

 後のことはきっと、あの人がなんとかしてくれる。


「………」


 アリアドネは目を凝らし、元凶となっているそれを睨む。


 失活していた短剣は今、力を得て動き出している。

 今ならば、自分の手で掴み、抜き去ることができるかもしれない。


(でも……)


 アリアドネの心を占めている不安は、決して小さくはない。


 あれほどに手をすり抜けた短剣である。

 もし飛び込んで掴めなかったら最後、彼を二度と救う方法はない。


 神の力まで借りてここに来ておきながら、である。


(失敗したら……)


 そう考えてしまうと、時間がないとわかっていながらも、膝が震えて足が踏み出せない。


 そんなアリアドネの指からは、今もとめどなく血が滴り落ちている。


 アリアドネはいっさい意識を向けていないが、指輪はどんどん深く食い込み、出血は止まらないものになってきていた。


 と、その時、神官たちが発する合唱がひときわ力を増した。


「………」


 突如、サクヤの顔に苦悶の表情が浮かぶ。


「………!」


 アリアドネは声を出しそうになって、とっさに手で口を覆った。


 床に赤いものがぽたり、ぽたりと降ってきた。


 サクヤの胸からしたたっている。

 短剣が力を得て、さらに深く刺さり始めたのだ。


「ハハハハハハハ!」


 突如、教皇チャピンが高笑いし始めた。


「終わりだよぉ、死ね死ねぇ!」


 そのチャピンの不吉な言葉を皮切りにして、更に神官たちの合唱が高鳴っていく。


(時間がない……!)


 アリアドネは唇を噛んだ。

 迷っていたら手遅れになる。


 行かなければ。


 もう一か八かで、飛び込むしか――!


 アリアドネが震えを制御できぬまま飛び出そうとした、その時だった。


 突然、ピキン、という音とともに、回りが固まった気がした。


「……え?」


 アリアドネは、周りを見回さずにはいられなかった。


 気がした、だけではなかった。


 本当に、空気の流れが止まっているのだった。

 ずっと聞こえていた神官たちの合唱の声も、ぴたりと止んでいる。


 サクヤの胸から滴り落ちていた血は、水滴の形のまま、宙で止まっていた。


「これは……」


 アリアドネが呆然としたまま、目を瞬かせる。


 時間が……止まっている?

 まさか、ヴィネガー様が……?


 そう考え始めたところで、ちょうど脳裏に響く声があった。


 ”抜キたいカ……”


 アリアドネは、息ができなくなった。


 ”あレヲ、抜キたいノカ……”


「だ、誰……」


 違う声だった。

 先程まで聞こえていたヴィネガーの厳かな声とは、明らかに異なっている。


 ”我ラが、助ケよウ……”


 ”提案ニ乗レ……” 


 ”我ラの言ノ葉を聞ケ……”


 頭上から次々と響く、しわがれた声や甲高い声、野太い声。

 そのいずれにも共通して感じるのは、寒気がするほどのドス黒さ。


「誰なの……?」


 ”抜ク方法ガ、あル……” 


 後ろから別の声がした。


「……えっ……」


 アリアドネは、声のした方を振り向いた。

 今の彼女が、その言葉に惹かれぬはずがなかった。


 ”あレを、抜キタいのだろウ……”


 アリアドネはその声の方へ、前のめりになった。


「短剣を掴むことが……できるの!? いったいどうすれば」


 ”我が信徒よ、耳を傾けてはならぬ”


 別な方向から、緊迫した声が警告を発した。

 ヴィネガーがアリアドネに起きようとしていることに気づき、割り込んだのである。


「ねぇ! 抜く方法があるの!?」


 だがヴィネガーであっても、今のアリアドネを振り返らせることはできなかった。


 ”あノ男を助ケよウ……”


 ”ヴィネガーでは掴メぬ……”


 ”我らなラ、忌々シいアレを抜ケる……”


 ヴィネガーの救いの言葉を上塗りするように、闇の声が次々と響く。


「――教えて! どうすれば抜くことができるの!?」


「………」


 アリアドネの叫びからやや間をおいて、闇が嗤った気がした。


 まもなくして、氷のような冷たさがアリアドネの肌を撫でた。


 声の主のひとりが、にじり寄ってきたのである。

 それでもアリアドネは、逃げることは考えなかった。


 ”我の元へ……”


 アリアドネの耳元で、声が響く。

 それは若そうな女の声だった。


「……誰……なの……」


 アリアドネの声が震えた。

 いつのまにか、全身に鳥肌が立っている。


 ”我の元へ……”


 刹那、アリアドネの前に姿を現したもの。


 それは山羊のような湾曲した二本の角を生やし、ひょろりと細く、異様に長い四肢を持った漆黒の異形。


 その顔だけは人間の女のようであった。


「あ、あなたは」


 そう呟いた時だった。


 アリアドネは、はっとして自分の右手を見る。

 バリン、と音を立てて、何かが弾けていた。


 アリアドネの強い愛に反応し、とうとう人差し指に嵌められていた指輪が2つに割れたのである。


「――そんな!?」


 その意味を理解し、アリアドネの顔が蒼白に変わる。


 割れた指輪から放たれた、もうもうとした白い煙。

 その中から姿を現したのは、人の背丈ほどの大口を持つ魔物。


 朱色に紫の斑点を持つ体躯。

 吸盤のついた手足。

 自在に伸縮する舌。


『蛙妖』と呼ばれる、ヒキガエルを巨大にしたような妖であった。


 その口から滴るのは、強塩基の液。

 その舌に捕らわれれば、鱗に包まれた強靭な飛竜たちですら、その生命をたやすく奪われ、その餌と成り果てる。


「キヒヒヒ……!」


 蛙妖は久しぶりに降り立った大地を踏みしめながら、粘つく口を開け、喜びの声を上げる。


 この妖は指輪の中で、二百年以上の長い時をひたすら待ち続けていた。

 自分の踏み台となる人間が現れるのを。


 この蛙妖に限っては、生来から蛙妖ではない。

 古代王国期に用いられていた遺失魔法ロスト・マジックのひとつ、〈刑罰魔法パニッシュメント〉により、人がこの醜い姿に変えられているのである。


 しかし今、【身体交換条件】が満たされ、嫉妬の指輪が分割し、蛙妖はこの自由な世界に出現することができた。


 指輪に付与されていた【身体のっとり】が発動中となり、これより蛙妖だったものがアリアドネの身体を手に入れ、アリアドネだったものは代わりにこの醜い蛙妖へと押し込まれる。


 そして数日の後、新たに生まれた蛙妖は、自己修復した『嫉妬の指輪』に再度封じられることになる。


「キィヒヒ……ヒヒヒヒ!」


 蛙妖の歓喜は留まるところを知らない。


 当然と言えよう。


 自身が手にすることになった身体は、想像を遥かに超えた逸材。

 なんと戦の神ヴィネガーに祝福されるほどの高貴な乙女であったからだ。


「キィヒヒヒヒヒヒヒ!」


 いよいよ人になれる。


 永劫とも思われた過酷な世界は今、天国のような夢の世界へと変わる――。


 ――はずだった。


「――アァァ!?」


 そんな蛙妖の幸せな夢は、瞬きほどで終わった。


 描かれる、幾本もの光の線。

 時が止まった世界に、血が撒き散らされる。


 アリアドネに取り憑こうとした蛙妖は、一瞬にしてその背後から八つ裂きにされたのである。


 結局、蛙妖が大地を踏んだのは、たったの三歩であった。


 ”我の元へ……”


 虫を払うかのごとく、蛙妖をたやすく斬り捨てた漆黒の異形が、アリアドネに一歩近づく。

 その左手には、アリアドネの腰にあった『聖剣アントワネット』が握られていた。


「あなたは……」


 アリアドネが異形と向き合う。

 剣を握ったその姿を目にし、奥底に眠っていた記憶が呼び覚まされていた。


 そう、彼女は知っていた。

 これが、何なのかを。


「…………」


 たまらず、視界が滲んだ。


 ”戻れェェ……”


 漆黒の異形が、語りかける。


「……そう……なのね」


 アリアドネはあふれる涙のまま、微笑んだ。


 そうしながら、知った。

 自分が笑うことができるのは、これが最後になることを。


(いい……構わない)


 アリアドネは涙を拭う。


 構わない。

 あの人を……あの人を、助けることができるのなら。


 ”戻れェェェ――!”


「いいわ」


 アリアドネはその異形を迎え入れるように、両手を広げた。


 笑みは絶やさない。


 だって私は、とても幸せだったから。




    ◇◆◇◆◇◆◇




 宙に吊り下げられている感覚。


「…………」


 霞む視界。


 目を開けても霞がひどく、何も映り込んでこないが、視界の下方から照らされているような眩しさを感じていた。


「…………」


 耳には、合唱のような重なった声が絶え間なく響いている。


 ここはどこだ……。


 何が起きている……?

 自分は何をしているところだったか……。


 しきりに瞬きをするが、視界の霞みは一向にとれない。


 息を吸い、ゆっくりと吐くと、視界と同様にぼやけていた頭の中がやっと洗われた感じがした。


 霞む目で、動けなくなっている自分を見る。

 両手両足からは、チャリ、という音。


 自分の四肢は拘束され、身動きができなくされているようだ。

 たかが鎖程度で、と思うのだが、今はなぜか体に力が入らず、この状態をどうすることもできない。


 なぜ、こんなことになっている……?


「……ぐっ」


 やがて、胸に走る激痛で、ああ、と思い出す。


 自分はレイシーヴァ王国の代表として、セントイーリカ市国に来ていた。


 国を救うという任務のほか、もう一つ重大な目的があった。

 この胸の短剣を抜く方法を見つける、というものだ。


 短剣を抜くことができれば、死を免れるだけでなく、失われた記憶も取り戻せるかもしれないからだ。


(そうだ、俺は……)


 記憶の大半を失ったままだ。


 自分の名はサクヤというようだが、今も他人の名のように理解されるから、まだ記憶は戻っていないことは明白。


(ここは……さっきまでと違う)


 やっとはっきりしてきた視界で、あたりを確認する。


 闘技場に立っていたのを覚えている。

 セントイーリカ市国の代表と決勝を戦っていた。


 しかし、ここは神殿のような建物の中。

 束縛されている理由もわからない。


「……ぐっ」


 突然、口から血が溢れた。


 見れば胸にある短剣が強い輝きを発している。

 自分の胸を貫かんと動き出したのだ。


「………」


 誰かの笑い声が聞こえる。


 とたんにまた、頭が朦朧とし始めた。

 一気に体に力が入らなくなる。


(そうか……)


 自分は相手との勝負に負けて、囚われたのか。

 短剣を刺した人物まではわかっても、結局短剣を抜くには至らなかったということ。


(終わり……なの……か……)


 このまま、俺は……。

 そうやってまた視界が白く霞み始めた時。


 異変は起きた。


「………」


 急に胸が軽くなる。

 ふいに体に猛烈な力がみなぎってくる。


 これは……。


 離れかけた意識が、確固とした力を持って舞い戻る。


「ぅぅ……ぁ…………」


 誰かの声が、目の前から聞こえてきた。


 目を開ける。

 さっきまでとまるで違う、鮮明に開けた視界。


 その色づいた世界に、少女が居た。

 黒い身なりに白い肌をした、少女。


 少女は血に濡れていた。

 そして、彼女の右手には、あの短剣があった。


「……ああぁ……」


 直後、彼女の胸になぜか穴が空き、血がどっと溢れ出す。

 反対に、俺の胸の穴は、急速に閉じていく。


「……さ……サァァ………」


 呻き声のようなものを上げながら、少女が苦痛に顔を歪める。


 その口の端から、つつつ、と血が伝う。

 そんな苦悶の表情の少女と、目が合う。


 少女はかすかに笑ったように見えた。


「あ……」


 見開かれた俺の目。

 重なる笑顔。


 喉の奥が熱くなって、息ができなくなる。

 それが過ぎると、一気に涙があふれた。


「――アーリィィィィ――!!」


 俺の絶叫が、建物の中に響き渡った。



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