第216話 天国か地獄か



 ルイーダのもたらした勝利は、計り知れないほどに大きい。

 ラモを満足させたことで、この重大な局面において、フローレンスは物が言いやすくなっているのである。


「ヘルデン」


 フローレンスが始めるぞ、と合図をする。


「はっ。……ところで私を覚えておりませんかな? 以前、アリザベール湿地でお会いしておりますが」


 口の周りがトマトソースだらけになっているラモに、まずヘルデンが切り出した。


 微笑を浮かべながらも、ヘルデンは鋭敏にラモの表情を読み取ろうとしていた。

 僅かな心の動きも見逃さぬとばかりに。


「へ? 僕ですか?」


 しかしラモはきょとんとする。

 それは本当にわからないと言った表情であった。


「……あなたはサクヤ殿だろう。黒い外套を着て颯爽と現れ、我らの、いや世界の危機を救ってくださった救世主様のはずだ」


「僕が、世界を……ですか?」


「覚えていらっしゃらない?」


「いやー実は最近の記憶しかなくてですね」


 ラモは照れた様子で頭を掻いた。


「記憶を失っていると……?」


 フローレンスとヘルデンが急に真顔になった。


「そうなんです。あの、王様たちはもしかして以前の僕を知っていて……?」


 フローレンスとヘルデンが何度も頷く。


「いかにもその通り」


「各地をずっと探しておりましてな」


「……じゃあ、僕を呼んだのはドブ掃除ではなくて?」


「ドブ掃除ですか?」


 ヘルデンは意味がわからず訊き返す。

 しかしラモは「なんだ、てっきり……」と唇を噛んだ。


「そなた、本当に何も覚えておらぬのか?」


 フローレンスが確認するように問い返す。


「そうなんですよ。もしよかったら知っている部分だけで良いので、僕の過去を教えてもらえませんか」


「………」


 その言葉にしーん、とあたりが静まり返った。


「……そうですな」


 間を置いて、返事をしたのはヘルデンである。


「間違いを申してはいけませぬので記録を見直して参ります。少々お待ちを」


 そしてフローレンスに、姫、と小声で囁いた。

 フローレンスは頷き、サリアを呼んだ。


「すぐ戻る。ここの皆としばし、歓談を楽しんでいてほしい」


 笑顔を残して、フローレンスとヘルデンが広間を後にする。

 




 ◇◇◇




「姫……」


「言うな。わかっている」


 二人は別室に入り、ろうそくがひとつだけ置かれた意匠の凝らされたテーブルを挟んで座っていた。


 もちろん『記録を見返す』というのは体の良い嘘で、行われているのは密談であった。

 全く同じことを、二人は考えていた。


「あまりに我々に好都合すぎるのではないか」


「姫。これは現実です。利用しない手はありませぬ」


「……だがわらわは、嘘はつきたくない」


「姫」


 ヘルデンが立ち上がり、前のめりになる。


「国のためでございますぞ。国が救われてから事情をお話すれば、サクヤ殿とて理解してくれましょう」


 ヘルデンは記憶のないサクヤをうまく騙し、政治的に利用すべきだと言っているのである。


 もちろんヘルデンとて、こんな手は使いたくなかった。

 しかし代償はフローレンスの身である。


「このヘルデンがすべて話し、すべての責任を背負います。姫はただ、聞こえぬふりをしてくだされば良い」


 そのためなら、自身が汚れ役となることくらいはなんでもない、とヘルデンは考えていた。

 利用し、全てがうまく行った後は自分が責任を取り、処せられれば良いだけなのだ。


「できぬ」


 それでも、フローレンスは首を横に振った。


「嘘をつけば、人の嘘がわからなくなる。上に立つ者はそれではならぬ」


「姫……」


「それに明日にでもサクヤ殿の記憶が戻ったらどうする? 我が国の信用は地に堕ち、わらわが退いた後ですら、助力を願えぬぞ」


「………」


 ヘルデンが険しい表情のまま押し黙る。


「どんな状況であれ、騙して利用するなど断じてならぬ。包み隠さず話し、その上で力を貸して頂けるよう、誠心誠意お願いしてみようではないか」


「……もし、我々に協力していただけぬ場合は」


 ヘルデンの言葉に、フローレンスは力なく微笑んだ。


「それはそれで仕方ないのだ。わらわの人生は、それまでということ」


「姫……!」


 ヘルデンが唇を噛む。


「少しは……少しは、ご自分のことを大事になさっては!」


 もはや我慢が限界に達し、ヘルデンは失礼を承知で、フローレンスの両肩を掴んだ。


 それでもフローレンスが首を横に振る。


「ありがとう。ヘルデン。……さあ戻ろう。あの御方をこれ以上待たせてはならぬ」




 ◇◇◇




「そうだったんですか……」


 ラモは呟いていた。


「我々が知る限り、サクヤ殿はそういった方のはずです」


 ヘルデンはサクヤという人物について知っていることを簡潔にまとめて話した。


 魔王を倒した生還者サヴァイバーであること。

 リラシス第三国防学園に通っていたこと。

 そしてアリザベール湿地において、復活したばかりとはいえ魔王を討伐してみせたこと。


 リラシスの剣姫と恋仲だったかもしれないことは、話さなかった。

 こればかりはフローレンスにとって都合の悪すぎる話であり、忘れているふりをした。


「お会いに行ったのですが、サクヤ殿は学園から居なくなったとのことで」


「なるほど」


「どうしてこの国にいらしたのか……まぁともかく見つかってなによりでしたな」


 ヘルデンは微笑を浮かべた。


 一方、フローレンスは緊張のあまり、膝が震えていた。

 ああ言ってはみたものの、本心ではフローレンスとて恐ろしいのだ。


 サクヤに頼みを拒絶され、側室行きが確定してしまうことが。


(今日、決まる……わらわに待つ未来は天国か、はたまた地獄か……)


 フローレンスはテーブルの下で、強くワンピースの裾を握りしめていた。


セントイーリカ市国への慰みものになる』と決まってからは、仕方のないことなのだ、と言い聞かせていた。

 王女として生まれた以上逃れられない運命なのだ、と。


 しかしどんなに他のことで頭を一杯にしても、常に胃はきりきりと痛んだ。

 夜、ベッドに入れば、止まらなくなる嗚咽のせいで、衛兵に聞こえぬよう布団を深く被らねばならなかった。


 そう、一日たりとも、泣かなかった夜はない。

 フローレンスとて、ひとりの女。

 怯えぬはずがないのだ。


 だが、もしこの男が助けてくれるなら、自分はこの恐怖から解放される。


 そう、たった今、この瞬間から。


「あ、あの……」


 フローレンスが、口を開きかける。


「サクヤ殿は……その……」


 だが、事が重大すぎた。


 反対の結果に転じることが恐ろしくて、言葉がどうにも出ていこうとしない。

 その差はまさに、天と地ゆえに。


 そんな時であった。


「わざわざ探していただいてすみませんでした。僕で協力できることがあれば、なんなりと仰ってください」


「………」


 フローレンスが、はっとした。

 ラモは、フローレンスたちが望んでやまなかった言葉をあっさりと口にしたのだ。


「よ、よろしいのですか?」


 ヘルデンがフローレンスをちらりと見て、堪えきれない笑みを浮かべた。


「ちなみに報酬はコレで頂けます?」


 ラモは指で輪をつくり、悪徳商人のような笑みを浮かべた。

 そう、ラモは金に困窮していたのだった。


「――も、もちろんいくらでも! 言い値でいい!」


 フローレンスが、がばっ、と立ち上がった。


「……い、言い値?」


 少年が気圧され、軽く仰け反る。


「では、わらわたちのために働いてくれるのだな!? いいのだな! そなたにはセントイーリカ市国での大会に出てほしいのだ!」


 前のめりになって、早口でまくしたてるフローレンス。

 言いたかった、だがずっと我慢していたことが、口から溢れ出ていた。


「あ、もしかして『武器祭』で優勝した人が出るっていうあれですか」


 ラモが訊ねる。

 以前イシスからアーノルドの話を聞いていた時に、ラモはそのあたりの事情を小耳に挟んでいた。


「そう、それのことだ!」


 フローレンスが力強く頷いた。


「そなたが適任だ。そなた以外には考えられない!」


 フローレンスは興奮のあまり、声を震わせていた。


「……僕、武器祭に参加すらしてないですけど、大丈夫でしょうか」


 フローレンスに勢い負けしながらも、ラモが絞り出すように言った。


「もちろん!」


「全然OKですとも!」


「むしろ是非ともお願いしたい」


 周囲から一斉に声が上がった。


 ラモが振り返ると、王宮の者たちが皆、自分を見てこれでもかとばかりに頷いていた。

 なんとしてでもYESと言わせるためのラモ包囲網が、すでに出来上がっていたのである。


「ちょっと自分の体に心配があるんですが――」


そんなラモの言葉は、いやいや若いから大丈夫、と周囲にあっさり否定された。


「ちなみにそれに出て頂けるなら、報酬にも色をつけさせて――」


「――引き受けましょう」


 ヘルデンの言葉をラモは手を上げて遮り、自信に満ちた顔つきで言った。

 そう、生活の基盤を得た、一人前の男の表情であった。


「引き受けてくれると!?」


「当然です、今のお食事の礼もありますし」


 ラモは皆からの視線を一身に浴びながら、立ち上がった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る