第214話 僕の噂を?


「Ο βασιλιάς των υψηλών-θελών τριαντ άφυλ λων……」


 どこかから響く、聞き慣れぬ言語の旋律。

 はっとしたのは、古代語魔術に通じる王女フローレンスであった。


「こ、これは……!?」


 そう、フローレンスでさえ知らぬ、音の繋がり。


 その刹那。

 

 何者かが、音もなくヘルデンの前に立つ。

 まるで恐れなど無縁とばかりに、悠々として。


 その者は、すっ、と左腕を伸ばし、ヘルデンの動きを制した。

 先程まで囚われていた、黒髪の少年であった。


「サ……」


 踏みとどまったヘルデンが、その名を呼ぶ間もなかった。

 その者がゆらりと右手を突き出すと、突如、木が倒れたかのような轟音と揺れが牢獄内に響いた。


「――ごぶっ!?」


 直後、ザフランの巨体が「く」の字になって、宙に浮いた。

 目を見開いたザフランが驚愕の表情のまま、部屋の石壁に叩きつけられる。


「うばばば!?」


 その手から剣が落ちると同時に、ザフランの体が壁に沿ってぐぃーん、と二倍以上に伸びた。


 だがそれも一瞬のこと。

 ザフランは元の丸々とした体格に戻り、地にドスン、と落ちた。


 そのまま、音のない数秒が過ぎる。


「……なっ……!」


 ザフランは恐怖に青ざめた顔のまま、自分が五体満足であることを目で確かめる。


「な、なんだ、この程度……」


 思いもよらぬ攻撃に虚を突かれたが、ザフランは笑みを取り繕いながら立ち上がった。


 結局自分は防御に成功し、その身になんらダメージを負っていなかったのである。


「お、おもしれぇ。てめぇからぶっころ……」


 狙いを変えたザフランが視線を少年に向けたまま、屈んで落ちた剣を拾い直す。


「………」


 だがそんなザフランが、突然、硬直する。


 ザフランの目が、見開かれる。

 その視線は少年から若干斜め上にずれ、なにもない宙の一点に固定されていた。


「………」


 ザフランの手から、拾い直したばかりの剣がまたガラン、と落ちた。


「――はわぁぁぁぁ!?」


 直後、ザフランが発狂したような悲鳴を上げた。

 顔がみるみる蒼白に変わっていく。


「た、助け、あひぁぁ――!」


 ザフランは尻餅をつき、大口を開けて、ひたすらに吼えていた。

 その畏怖する様はあまりに常軌を逸しており、周りの肝まで冷えるほどであった。


「何だ、何が起きている」


「だ、脱獄した囚人が叫んでおります」


「なにゆえだ」


「こ、このヘルデンにもさっぱり……」


 フローレンスはもちろん、すぐそばで見ていたはずのヘルデンですら、何が起きたのかわからなかった。


「うわ、すごいな……使い方に気をつけないと」


 その時、ふと小声の呟きがヘルデンの耳に届いた。


「サク……?」


 ヘルデンが後ろから声を掛けるや、急にラモが居住まいを正して振り返り、指をさす。


「もう動けません。今がチャンスです」


「……し、承知っ! 今だ、捕らえろ!」


 はたと我に返ったヘルデンが、周りの兵士に叫んだ。

 兵士たちは思い出したように立ち上がると、一斉に衰弱したザフランへと殺到する。


「た、頼む……あれは嫌だぁぁぁ……!」


 縄で縛られながら、ザフランは抵抗することすら忘れ、涙を流していた。

 していることといえば、ひたすらに殺さないでくれと、声にして願っているだけである。


「……急にどうしたんだ、こいつ?」


「頭を打ったんだろ」


 兵士たちはイマイチ納得がいかないまま、手を動かしている。


「姫、よくわかりませぬが、脱獄した囚人は捕縛いたしました」


「………」


 奇妙な解決の仕方に、フローレンスも言葉を失くしていた。


「……やめ、やめてぐれぇぇぇ……!」


 実は、ザフランは凍てつくような恐怖に囚われていた。

 そう、少年の能力の一つである【蟲王の睨み】に曝されたのである。


 あの衝撃の後から、黒髪の少年の後ろに、常識外の化け物が目に映るようになっていた。

 その複眼を形成した眼が、今もまだ、ザフランをじっと見据えているのである。




 ◆◆◆




 捕縛されたザフランが、さっきまでラモが居た最下房に兵士数人がかりで押し込められている。


「礼を言うぞ。そなたにさっそく助けてもらったな」


 フローレンスがラモに微笑みかけて謝意を告げると、ヘルデンや兵士たちも手を止め、その場で改めて畏まって礼をした。

 しかし先程までの殺伐とした空気のためか、フローレンスの顔はまだ青褪めていた。


 そもそも、なにがどうなって自分たちは危機を脱したのか、目の見えないフローレンスはわからなかった。

 だがそれを言うなら、ラモが唱えたらしいはじめの詠唱から、ひとことも理解できなかった。


 自分の頭でこの人物を理解しようなど、おこがましいのかもしれない、とフローレンスはこのたった数分で考えるようになっていた。


「いえいえ。でも変わった能力でしたね」


 ラモは身なりを直しながらさも驚いたことのように言う。

 が、その淡々とした声音は特に新鮮味がなかったことを告げていた。


「あの男には全ての攻撃が効かんのです」


 歩み寄ってきたヘルデンの言葉に、しかしラモは首を横に振った。


「全てではないですよ」


「……まさか、効くものがあると?」


 ヘルデンがラモをしげしげと見る。


「このタイプは十中八九、矢が刺さりますよ。魔物では取り立てて珍しくない能力でして」


「……矢が?」


 ラモは頷き、同じ能力を持つ『グレンスライム』という魔物で説明をした。

 その魔物は『軟体』という能力を持ち、ザフランと全く同じ動作で攻撃をいなすが、矢だけはどうにもできないのだという。


「………」


 ヘルデンは顎に手を当てた。

 言われてみれば、あの巨漢とは常に近接した戦闘ばかりだった気がする。


 過去の山中での戦いでは矢を射かけたこともあるはずだが、それはたいてい乱戦になる前の、敵の位置が大まかにしか掴めない最初の段階のみである。


 近接して矢を放ったことは一度もなかったかもしれない。

 ザフラン側がわざと乱戦を好んで仕掛けていたとすれば、それも頷けることだった。


「麻痺毒の矢だけで、かんたんに倒せるかと」


「なんと」


「あの囚人はいつでも牢から出れたんでしょうね。でも苦手とする攻撃があったからこそ慎重に人質を求めた、といったところでしょうか」


「なるほど、ああ見えて案外に頭を使う奴だったということですか」


 ヘルデンが顎をさすりながら、ザフランの収容された最下房へと視線を向ける。


「とはいえ、人間では相当強い部類に入るでしょうね。初見なら狼狽している間にやられるでしょうし」


「おっしゃる通り。だがもはや何も怖くはありませんな。さすがはサクヤ殿。感謝いたすぞ」


 再びヘルデンが頭を下げると、兵士全員が先程と同じように、その場で深い礼をし始める。

 苦笑したラモがヘルデンに近寄り、その顔を上げさせる。


「ところで、なにか話の途中だった気がします」


「……あぁ、そうでした。実は貴殿に折り入って、重大なご相談がありましてな」


「重大な話? 僕に?」


「そうです」


 言いながら、ヘルデンがフローレンスを見る。


「姫」


「わかっている」


 フローレンスが意を決し、その想いを言葉にしようとした時。


「……まさか僕の噂を?」


 ラモの顔が急に何かを確信した、神妙な顔つきに変わった。

 ここにきて、ラモは自分が『ドブ掃除の救世主』と呼ばれたことを思い出したのである。


「まさにその通り」


 フローレンスとヘルデンは真顔で頷いた。


「……そうでしたか」


 ラモは大きく息を吐き、清々しく天井を見上げた。

 すべてを理解した男の顔だった。


「まさか王宮にまで、この僕の噂が……」


「この王宮だけではありません。世界に広まる勢いですよ」


「せ、世界に!?」


 ラモが目を見開いた。


「そうです」


「……そ、そこまでだなんて……」


 ラモは足元がふらついた。


 わかってはいた。

 自分のドブ掃除能力が群を抜いていることは。


 細い側溝のところも丁寧にとったし、汚れが消えるまで擦ったし、ネズミたちも全部きちんと地上へと連れて、離れたところで放した。


 でも、まさかそれで世界レベルだなんて……。


「我らは貴方様のことを神のように崇めておりました」


「か、神……」


 ラモはもう、言葉が出なかった。


「そうです」


 フローレンスとヘルデンが力強く頷く。


「………」


 ラモは真顔を保っていたが、その頬が軽くぴくぴくと痙攣していた。

 ニヤけそうになるのを必死にこらえていたのだ。


「――けほっ、けほっ」


 そこでフローレンスが立て続けに咳き込んだ。

 ヘルデンが気づき、サリアと頷き合う。


「ひとまずこの臭い房から出て我らの王宮へとご案内しよう。一緒に来て頂けますかな」


「いいでしょう」


 ラモは謎の腕まくりをして、意気揚々とした。



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