第213話 十一年越しの脱獄
「もちろん盗みの容疑などでお連れしたのではない。手違いを心から詫びさせていただく。この場までフローレンス王自ら足を運んだことが、なによりの謝罪の意思」
ヘルデンが隣に立つエルフの少女を手で指し示し、畏まる。
「サクヤ殿。私からもお詫びする。申し訳ないことをした」
続けてフローレンスまでもが膝をつき、少年に頭を下げる。
「……ええぇぇぇ!?」
それを目にした部隊の者たちは、失禁しかねない勢いで震え上がった。
ヘルデンが振り返り、棒立ちのままの隊長たちをぎろりと見る。
やっと理解した隊長たちは、泡を食った様子で次々と跪いていく。
「いや、ちょ……」
少年は硬直した。
当たり前である。
さっきまでただの囚人だった少年に、国のトップたちがひれ伏しているのである。
「わ、わかってもらえればいいんです。あと、僕に頭は下げなくていいです」
少年は戸惑いを隠せない様子で続けた。
「許していただけるか、サクヤ殿」
「全然気にしてません」
少年は、全く根に持たない性格だった。
ヘルデンたちはほっと安堵し、やっとその顔に笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がる。
「その寛容な心、感謝いたす」
「いえいえ。ところで、さっきから僕の名前をサ……」
少年がそう切り出した時のことであった。
穏やかな笑みを浮かべていた少年の顔が、一気に研ぎ澄まされた。
「き、貴様――!」
ふいにヘルデンたちの背後から、切迫した声が響いた。
皆が険しい表情になって、振り返る。
「なぜここに――ぐあぁぁぁ!?」
直後、それは絶叫へと変わる。
皆の目に映ったのは、ひとりの衛兵が「く」の字になって崩れ落ちる光景であった。
「くくく」
衛兵の前には、囚人服を着た巨漢の男が立っていた。
でっぷりとしており、服はサイズが合わず、毛の生えた腹が覆いきれずに露出している。
「なんだ!?」
「……ど、どういうことだ!」
周囲の兵士たちが、目を疑った。
その男は、牢の格子の中にいたはずであった。
「……厄介事か」
不穏な空気を感じ取り、フローレンスは懐から大水晶が先端に鎮座した大杖を取り出す。
古代王国期に用いられていたとされる、強大な力を宿す杖である。
しかし『
目が見えないために着弾点を正確に定めることが難しく、このような閉鎖されたスペースでは味方をも巻き込んでしまいかねないからである。
「姫。お下がりください」
それをわかっているヘルデンは、フローレンスを背にかばい、素早くハルバードを取り出して構えた。
(ふむ)
そして、現れた囚人と衛兵たちの位置関係を素早く確認する。
フローレンスのところまでやってくるには、まだ30メートルはある。
「いつか来ると思っていたんだぁ!」
現れた巨漢の男は倒れた衛兵から剣を奪い取ると、ヘルデンの方を向いて、喜悦した表情を浮かべた。
その顔には、見覚えがあった。
「こいつは……!」
それが何者かを理解したヘルデンが、絶句する。
「どうした、ヘルデン」
「……少々まずい奴が」
フローレンスの問いかけに、ヘルデンは苦々しい表情を浮かべてそう応じた。
そして奴から見えないよう、フローレンスを完全に自分の背中に隠す。
(まだ気づかれてはおらん)
このまま気づかせないように動いて――。
「目が見えなくて、耳が尖ってやがる。あれはこの国の姫様だろう?」
巨漢の男が顎をしゃくるようにしてヘルデンの後ろを指す。
ヘルデンが舌を鳴らすのと、ザフランがにやっとしたのはほぼ同時だった。
「くくく……!」
巨漢の男は剣を軽々と振り回しながら、ヘルデンの方へとやってくる。
歩くたび、ドス、ドス、と小さく地面が縦に揺れた。
この男の名はザフランという。
十一年前に捕らえられた山賊の用心棒を務めていた男である。
当時、この男を捕らえるにあたっては百人以上の兵が出動していたが、そのことを覚えていたのは、この中ではヘルデンのみであった。
「待っていたぜぇ、この時を」
ザフランがたまらずにグワッハッハ、と笑い出す。
この男、何の考えもなしに牢から出てきたようにも見えるが、そうではなかった。
ザフランは十一年もの間に兵士たちの会話を盗み聞きし、脱獄の策を練っていたのだ。
目隠しされて連れられたこの場所がどこなのかも、すでに理解している。
ここは王宮西にある建物の地下三階。
地上に出て逃げるために突破せねばならない難所は八つあることも知っている。
ザフランは、自分の能力には相当な自信があった。
それを用いて4つ目までの難所はたやすく突破できると踏んでいる。
しかしどんなに足掻いても、弓兵の居並ぶ5つ目の難所で殺されるだろう、と理解していた。
ここを抜け出せる方法があるとすれば、それはひとつ。
――重要な人物を人質として確保すること。
それしかないと知ってからは、ザフランは日々何の希望もない囚人のふりをし、時間の感覚すら与えられないこの牢屋で、それに足る存在の来訪をじっと待っていた。
そして、やってきた念願の日が、今日この時だったのである。
「――近づけるな! 斬り捨てて構わん!」
「はっ。……おい、かかれぇ!」
ヘルデンの鋭い声に応じて、そばに居た五人の兵士が剣を抜き、ザフランへと飛びかかった。
兵士の一人目は袈裟に剣を振り下ろし、二人目と三人目は駆けた勢いをそのままに突きかかる。
四人目と五人目は、回避するであろう動きに備え、ザフランに近接してそこに剣を突き出した。
「殺った――」
剣を振るった三人が三人とも、自分が討ち取ったと確信していた。
ザフランはその鈍重な姿の通り、全く避ける気配すら見せなかったのである。
「――なっ!?」
しかしいずれの剣も、ザフランの体を傷つけるには至らなかった。
剣はザフランの体にめり込み、なにも傷つけることなく跳ね返っていたのだ。
これがザフランの能力、【軟体】であった。
鈍的なものはもちろん、鋭的な武器でさえ緩やかに受け、威力を吸収し、その攻撃をなきものとするのだ。
加えて生来、魔法に対して強力な抵抗力が備わっていたのも、ザフランにとっては大きな恩恵となっていた。
それゆえ、あらゆる攻撃を真正面から受けることができるのである。
「――すっこんでろ、雑魚どもが!」
ザフランがその手にあった剣を一閃した。
「うおっ」
「ぐはっ」
ガァァン、という金属がぶつかり合う音。
剛力に吹き飛ばされた兵士が牢に激突し、そのまま座り込むようにして、意識を失った。
「な、なんだこいつ……」
「くくく。しかし噂通り、えれぇべっぴんさんだなぁ……」
ザフランが足元に倒れていた兵士を邪魔とばかりに蹴飛ばすと、ヘルデンの奥に立つエルフの少女に視線を向ける。
「………」
その下卑た視線を感じ取り、フローレンスが顔をこわばらせた。
「ザフラン、牢に戻れ!」
ヘルデンが威圧のこもった声で、叫んだ。
しかしザフランは笑みを浮かべたまま懐かしそうにすると、親しげにヘルデンに声を掛ける。
「よぅ、老けたな黒ヒゲ。今日はあの網を用意しているのかよ? くっくっく」
「牢に戻らなければ、その命まで失うことになるぞ」
ヘルデンはひとり気圧されることなく、言い返す。
しかし内心では、舌打ちどころでは済まないほどに、この状況を憎んでいた。
(最悪だな……姫のいるこのタイミングで……)
十一年前という月日が経っていながら、ヘルデンはこの囚人を覚えていた。
いや、忘れるはずがなかった。
当時このザフランを捕らえたのは、部隊の兵長を務めていたヘルデンだったのである。
「まさか、その細い格子すら抜けられることを十一年も隠していたとはな……」
だが貴様などこれで十分、とヘルデンがハルバードを突き出すように構える。
それを目にしたザフランは、こらえきれない様子で笑い出した。
「おいおい、お前が一番知ってんだろ? そんなへなちょこ武器、オラには効かねぇことをさ」
ザフランが不敵に笑い、その顎を引っ張って、びろーん、と伸ばしてみせた。
そう、ザフランはその頭部でさえも軟化させ、ほとんどの攻撃をいなすことができるのである。
この能力に翻弄され、過去にザフラン討伐に向かった多くの冒険者や兵士たちが数え切れないほど返り討ちに遭った。
ヘルデンが知恵を回してドワーフ匠に作らせたミスリル製の網を用いなければ、もっと多くの命が奪われていたに違いなかった。
(……この阿呆……真っ当な奴だったなら、出世もしたであろうに)
ヘルデンが小さく歯噛みする。
とんでもない大悪党なのだが、この国でヘルデンを超える力を持つとすれば、この男ただ一人だったからである。
「オラは無敵だぁ」
ザフランが余裕の表情のまま、のしのしと近づいてくる。
こうやって自分の防御に絶対の自信を見せつけるザフランであったが、その実、防御は完璧ではない。
だがそんなことはおくびにも出さない。
この世に生きている者で、それを見た者はいないのだ。
「黒ヒゲ、その女をよこせ。
「……サリア、私が盾になる。姫を連れて駆けろ」
ヘルデンが一歩前に出て体を呈しながら、背後の侍女に告げる。
「は、はい……」
サリアがその顔を真っ青にしながらも、フローレンスの手をいっそう強く握った。
「だめだヘルデン、そなたを失いたくない」
フローレンスが、とうとう不安げな声を発する。
ヘルデンはちらり、とフローレンスを振り返ったのみで、何も言わなかった。
「――今だ!」
ヘルデンの言葉に従い、サリアがフローレンスの手を引き、決死の覚悟で駆け出す。
「――援護せよ! なんとしても姫を逃がせ――!」
「はっ!」
ヘルデンが残る兵士に向かって吼えると、死を覚悟した兵士たちが壁になる。
「逃がすわけがねぇだろ――!」
気づいたザフランが剣を振りかぶり、ドスドスと駆け寄ってくる。
「――させぬ――」
鬼の形相となったヘルデンが刺し違える覚悟で突貫しようとした、その時だった。
「Ο βασιλιάς των υψηλών-θελών τριαντ άφυλ λων……」
どこかから響く、聞き慣れぬ言語の旋律。
はっとしたのは、古代語魔術に通じる王女フローレンスであった。
「こ、これは……!?」
そう、フローレンスでさえ知らぬ、音の繋がり。
その刹那。
何者かが、音もなくヘルデンの前に立つ。
まるで恐れなど無縁とばかりに、悠々として。
その者はすっ、と左腕を伸ばし、ヘルデンの動きを制した。
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