第212話 芋虫
「……わらわは……期待するのが怖くなっているのだ」
そう、この期待はあまりに大きすぎて手に負えないのである。
もし今度も外れだったならば、フローレンスは立ち直れないほどに心が折れてしまうかもしれない。
それがわかるから、信じられないのだ。
「探し続けて、見つからないのが当たり前だった。期待していいことなどなかった。そうであろう?」
「姫……」
ヘルデンにはその気持ちが手に取るようにわかった。
二人は全く同じ思いでその人物を探し続けてきたのだ。
「本当は聞くまでもない。わらわとて心の中ではわかっているのだ。今回は本物かもしれぬと」
「それだけに怖いのですな」
ヘルデンの言葉に、フローレンスは深く頷いた。
「このわらわに神が微笑む……まさか、ありえぬと思っていた」
居ないわけではないものの、エルフ、ドワーフ、獣人などの異種族の者たちは概して神を信仰しない。
「神にはあるのかもしれませんな。我らのような無神論者を救う気まぐれも」
「だといい」
フローレンスがやっとその顔に笑みを浮かべた。
「お迎えに上がりましょう、姫。そして、なんとしても我が国にお力添えを願いましょうぞ」
「そうだな。これほどの人材の登用など、歴代の王たちとて経験してはおらぬであろう」
「違いありませぬ」
二人が歩みながら、決意を新たにする。
「姫様、いつもの段差がございます」
「わかった」
侍女サリアとともにフローレンスが広間の最後の段差を超えたところで、ヘルデンが、おっ、と声を上げ、遠くに視線を向けた。
「気が利くな」
開け放たれた門の先では、二人のための馬がいつでも駆け出せるように待たされていたのである。
二頭の手綱を持ってヘルデンたちを見ているのは、篝火に照らされた一人の女。
茶色の髪はきりりと一本に縛られている。
侍女ルイーダである。
「助かる」
「用意しましたけれど、すぐ近くみたいですの」
「それでもありがたい。ついでにもうひとつ頼まれてくれぬか」
ヘルデンがルイーダから手綱を受け取りながら、口を開く。
「もしかして晩餐の用意かしら」
「なんだ、わかってたのか」
「勝手かとは思いましたけれど、もう下準備に動いておりますの」
ルイーダが地下にある食堂の方に視線を向けながら言うと、ヘルデンがニヤリとした。
「さすがだな、ルイーダ」
「わらわからも礼を言おう」
フローレンスも感謝の言葉を口にすると、ルイーダはもったいないお言葉を、その場で畏まった。
「……おい、ところで肝心のサクヤ殿はどこに居て頂いている?」
ヘルデンがそばで畏まっている手柄の部隊の兵士に向き直ると、兵士は立ち上がって直立不動になり、褒めてくださいとばかりに胸を張った。
「捕縛したまま、王宮西の『最下房』にぶち込んでおきました!」
「……は?」
「さ、最下……?」
それを聞いたヘルデンとフローレンスが、立ち尽くす。
確かに捕らえることばかりに頭が行っていて、捕らえた後のことまでは、周知していなかった。
『最下房』とは軍内部の略語であり、正式には『最下刑徒監禁房』と呼ばれる。
二度と地上に出ることが叶わぬような極悪犯を収容する房であり、周囲を分厚い石で四方を封じられたそこは、脚を伸ばして寝転がる広さすらない。
立ち上がった膝の高さに細長い小さな横長の窓があるだけで、房の中は空気すらも淀み、暑く、常に息苦しさにさらされる。
日の光に当たることも許されず、時間の概念が与えられるのは二度の食事のみ。
「……姫、大変申し訳ございません」
誇らしげな兵士に背を向け、にべもなく謝罪するヘルデンに、フローレンスも苦笑した。
「いや、私もそこまで考えが及ばなかった。後は態度で誠意を見せるしかないであろうな」
「はっ」
ヘルデンがもう一度頭を下げると、立ち上がり、ルイーダが準備してくれた馬に跨って手綱をとった。
「私がご案内します!」
そんな二人の考えなど知らず、ひとり威勢が良いのは、手柄の部隊の兵士であった。
◆◆◆
「……ああ、ここにはこれもあったな」
「やれやれ、そうでしたな」
螺旋型の階段を延々と下りている間は二人は毅然としていたが、地下牢の入り口までやってくると、いよいよその顔を顰めることになる。
そう、理由は漂う悪臭であった。
ここは王宮や街内と違い、下水が通っていないのである。
「――国王陛下に礼!」
二人が鼻を押さえながら中に入ると、嬉々とした兵士たちが笑顔のまま、一斉に畏まった。
「よくやってくれた。褒賞を待つが良い」
フローレンスはそれでもなんとか笑顔を作り、手柄の部隊の者たちにそう声を掛けてねぎらった。
「ありがたき幸せ」
「おい、早く案内しろ。このままでは姫の美しい鼻が曲がってしまう」
ヘルデンがまだ跪いている隊長を立たせ、急かす。
「はっ。ですが王もご同行なさいますか? なにせこの中は……」
部隊の隊長が、あからさまに戸惑いを見せた。
しかしヘルデンはその言葉を遮り、語気を強めた。
「姫が希望されてのことだ。急げ」
「はっ、た、直ちに! こちらにございます」
隊長は血相を変え、奥にある第三の地下牢へと二人を案内する。
「おお」
「女……女だ……!」
案の定、目を輝かせた、いかにも不潔そうな囚人たちが牢に張り付くようにして歓喜し始める。
白い肌をしたその美しい女を掴んで引き寄せようと、薄汚れた手を伸ばす囚人もいた。
「心配ありませんぞ。こちらです」
ヘルデンは自身の体を盾にして囚人たちから盲目のフローレンスを守りながら、奥へと進む。
その後ろを、血の気の引いた表情で口元を押さえた侍女サリアが続く。
「構わぬ。わらわもわかっていたことだ」
サリアと違い、フローレンスは背をピン、と伸ばし、堂々と歩く。
ここに投獄されているのは、自らが敷いた国政のルールをはみ出した人間、いわば自分が裁くと決めた者たちである。
目が見えぬと言えど、そのような者たちに、僅かでも臆した姿を見せるわけには断じていかなかった。
一方、囚人たちはフローレンスとサリアを食い入るように眺めている。
「くくく……」
その中にひとつ、狂気の視線が混ざっていたことには、誰一人として気づかなかった。
「――あそこであります!」
進む先にある、石づくりの房を隊長が手で指し示す。
8つある、手のひらほどの小窓しかない石の房が、『最下刑徒監禁房』である。
「どれに入っている」
ヘルデンが険しい表情で一歩前に出た。
「はっ。右手の最奥の房でございます!」
兵士が手で指し示す。
最下房の中でも、そこだけ門番が三人も配置されている。
「開けろ」
ヘルデンは小窓から覗きもせずに言った。
「はぁ?」
ヘルデンの言葉に、門番をしていた兵士二人が素っ頓狂な声を発した。
そう、彼らにとっては予想もしていなかった言葉だった。
「開けて中にいる者を出せ」
「……え……?」
威厳に満ちた様子で告げるヘルデンを見て、部隊の兵士たちがその顔を見合わせる。
「早くしろ!」
「――はっ! し、失礼を!」
理由もわからぬまま、門番の兵が慌てて鍵束を取り出し、厳重に閉められた扉を解錠し始める。
「開けるぞ」
「せえ、のっ!」
兵士が数人がかりで扉に力を込めると、ミシ、ミシミシ、と重そうな音を立て、石の扉がゆっくりと横にずらされる。
「………」
手が入るほどの隙間ができるなり、すぐにヘルデンが近くにあった燭台をかざして房の中を照らした。
そこでは、なにか芋虫のようなものが不気味に蠢いていた。
もっと照らそうと燭台を掲げたところで、ろうそくが倒れ、明かりが消えてしまった。
「前を失礼いたします……おい、出すぞ、それ!」
兵士たちがそんなヘルデンの前を通って房の中に入り、隊長の男の指示のもと、芋虫を転がして外に出す。
そう、それは縄でぐるぐる巻にされた人間であった。
「………!」
そこで初めて、ヘルデンがその素顔を目にする。
わずかな間を置いて、ヘルデンの顔に勝利の笑みが浮かんだ。
「――姫、間違いありませぬぞ!」
「……あっ……」
ヘルデンの第一声に、フローレンスは感極まり、口を押さえた。
もはや返事もままならない。
「この者、偽名を名乗っておりました!」
縄の先を引っ張って芋虫を抑制しながら、隊長が声高に叫ぶ。
「……偽名?」
ヘルデンが眉をひそめた。
「『タブンラモ』と」
「……タブンラモ?」
ヘルデンがはて、という顔をしながらも、黒髪の少年に視線を落とした。
「僕、盗みなんかしていません!」
ぐるぐる巻の少年が真顔で、必死にヘルデンに訴えている。
「――解け」
ヘルデンがそんな少年を凝視したまま、静かに隊長に告げた。
「は?」
「このお方の縄を解け」
「……お、お方?」
隊長たちが呆然とする。
「早くせんか!」
突如、ヘルデンが怒声を発した。
「――はっ! お、おい!」
隊長の男が慌てて部下とともに、少年の縄を切りにかかる。
「……えーと?」
数分後、自由になった少年は軽く面食らった顔でヘルデンらを見ていた。
「このたびは大変な御無礼を」
そう言って、ヘルデンが少年に向かって片膝をつき、深々と頭を垂れた。
「……へ?」
「私は軍部司令官兼近衛騎士隊長のヘルデンと申す。そしてこちらはレイシーヴァ王国の代理王、フローレンス=バーバリア・ラス・ロードス姫君」
「……え……?」
「へ、ヘルデン様、なにを……」
その様子を見て、隊長たちが絶句する。
「もちろん盗みの容疑などでお連れしたのではない。手違いを心から詫びさせていただく。この場までフローレンス王自ら足を運んだことが、なによりの謝罪の意思」
ヘルデンが隣に立つエルフの少女を手で指し示し、畏まる。
「サクヤ殿。私からもお詫びする。申し訳ないことをした」
続けてフローレンスまでもが膝をつき、少年に頭を下げる。
「……ええぇぇぇ!?」
それを目にした部隊の者たちは、失禁しかねない勢いで震え上がった。
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