第190話 台所での話
あれから五日が過ぎている。
僕の記憶障害は治らず、まだイシスの屋敷に居候させてもらっていた。
出ていくことはできたが、そうしなかった理由はいくつかある。
記憶も戻らず、アイテムボックスも使えないだけに、安全な場所から出るべきタイミングではない、と思ったのがひとつ。
でも一番大きい理由は、これだけイシスに世話になっていて、なんの恩返しもできずに出ていくことが心苦しかったからだ。
だから僕は毎日、イシスと同じぐらいに起きて、薪割りなど男手の必要な作業を手伝った。
掃除や洗濯、畑仕事も折半してこなした。
そして空いた時間でイシスと向き合い、彼女が【
せめて使用頻度の高い〈
そうやって過ごしていた、昼時。
「これが今日明日の食糧です」
僕たちが昼食を終える頃を見計らってか、ノットがいつものように玄関脇に狩ってきた獲物をドサドサと置いていく。
一緒に住んでいるものの、ノットは一度も僕たちと食事をとったことがない。
「あ、ありがとうノットさん。あの、一緒にお茶でも――」
イシスが立ち上がって、ノットに駆け寄る。
ノットはそれが嬉しいらしく、必ずそれを目で確かめてから、イシスに背を向け、そのネクタイを直す。
「どうしてですか」
「え? あ、前にも言った通り、お客さんが来ていてご紹介を……」
「言ったはずです。そんな不快な男とは、一緒に飲めないと」
ノットは僕を一瞥すると、そう吐き捨てる。
「そ、そんな……」
僕たちの不和に巻き込まれ、イシスは困り果ててしまう。
誰が見てもわかる通り、ノットはイシスのことが好きで、僕を毛嫌いしている。
夜になると決まって、この間のように早く出ていけ、と僕を煽る。
最初は、イシスの気が少しでも僕に向くのが面白くないのかも、と思っていた。
だが、どうしても「イシスが好きだから」では説明がつかない部分がノットにはある。
僕が居なかったころからずっと、ノットはイシスとほとんど一緒にいないということだ。
そこが謎だった。
「ではまた出掛けてきます。 私の食事は当分不要です」
「あ、はい。いってらっしゃい!」
イシスが重そうにしながら、 狩られた獲物を両手で抱えてくる。
僕はそれを受けとり、一緒に台所へ運ぶのを手伝う。
「……ごめんなさい、ノットさんが」
「こちらこそごめんね。嫌われてるみたいなんだ」
「……どうしてなの……ふたりともこんなにいい人なのに……」
イシスが涙目になる。
「肉は僕がやるよ。……あ、そうだ。聞こうと思ってたんだけどさ」
このままだとイシスが泣き出しそうだったので、僕は気づかぬふりをして、全く違う話題を振った。
「イシスの将来の夢って、もう決まってるの?」
「………」
「ねぇ、イシス?」
「も、もちろんです。五歳のころから変わってません」
イシスは目元を拭い、笑顔を作った。
「なにか聞いても?」
「アーノルド様のお嫁さんになることです!」
イシスは少女らしい無垢な笑顔で言った。
「ほうほう、アーノルドって?」
なるほど。
ノット、もしかして知っていての行動なのか。
「この付近一体を治める領主様の家の長男でいらっしゃって、とってもお強くて、格好いいんです」
「へぇぇ」
「昨年の『武器祭・真剣部門』で二位だったんですよ! 18歳とお若いのに、真剣部門で国内二位ですよ! 信じられます?」
隣でイシスがニンジンを握りしめながら、すごいことなんですよ、と息巻いている。
振った話題は、見事正解だったようだ。
「すごいね」
言いながら、僕は肉の下処理に手を動かす。
どんな大会であれ、入賞するのは素晴らしいことだ。
「今年の『武器祭・真剣部門』で優勝した人には、
「ほうほう」
話を聞きながら、気づく。
そういえば、今自分がいる国を訊くのを忘れていた。
「ねぇイシス、話の途中で悪いんだけど、ここってどこの国だっけ」
僕は肉包丁を止めて、イシスに訊ねた。
「……えっ? あ、ごめんなさい、こんな大事なことを言ってませんでした!」
イシスが包丁を動かしながら、アハハ、と笑う。
「この国は――きゃっ」
その時、イシスが切っていたニンジンのかけらが落ちて、ころころと足元を転がった。
「ごめんなさい、えっと……」
屈んでニンジンを拾い、水洗いしたイシスが訊ねてくる。
「ここ、どこの国だっけって話」
「あ、はい、ここは『レイシーヴァ王国』です」
「レイシーヴァ……ごめん、どんな国か教えてもらえる?」
結構覚えていることもあるのにな。
国のことはまるで思い出せない。
「もちろんです。レイシーヴァ王国は……」
イシスの説明はこうだった。
存在する6つの国の中で最も貧しく、次に亡国になるであろうと噂される国。
理由は、国土の三分の二を魔物の蔓延る深い森が占めていることだ。
過去に『シーヴァス文明』と呼ばれる古代文明があった土地ゆえに、研究されていた強力な魔物が森に根づいてしまっており、生命線となる街道を通すことができないのだ。
問題はそれだけではない。
国の北部には人の住めぬ氷山地帯が広がり、南部には南部で荒廃した砂漠が広がっている。
いずれも古代文明で行われた、大規模な魔法実験による跡と言われている。
そういった国土の問題を抱えているがゆえに、生産性の低い国になっており、歴代に渡って続く財政赤字を改善できずにいるという。
現王ストックリン十六世も、何一つ改善しないうちに病で倒れ、現在はうら若いフローレンス=バーバリア・ラス・ロードス王女が代わりに国政を担っているらしい。
「……お姫様は国を保とうと一生懸命してくださっているんですが」
イシスは苦しそうに言った。
交通の要所で地下道を造設するなど、思い切った改革で善政が行われ始めたのは多くの民が知るところとなったが、
「
「へぇぇ……」
小国ながらも経済力は一番の大国である「剣の国リラシス」を上回り、第一位とされるほどらしい。
しかしやってくるであろう併合を、多くの民は望んでいないという。
理由の一つとして、『完全宗教国』ゆえに民は一人残らず『光の神ラーズ』への信仰を強制され、思想の自由が大きく制限されることが挙げられる。
さらに国外に聞こえてくる教皇(同国では国王にあたる)の評判が地に落ちているとくれば、民の反応も当然だった。
「私も……併合されるくらいなら、と考えてしまいます」
イシスは次の野菜を手に取りながら、僕に目を合わせずに言った。
「ごめん、話が逸れちゃったね」
「あ、えーと」
「元はイシスのお嫁さんの話」
「あっ」
イシスがぽっとその頬を赤くする。
「イシスはそのアーノルドっていう人の、どこが好きなの」
「とってもお強いところです」
イシスは、僕の顔を見て即答した。
「へぇ……イシスは強い人が好きなのかな?」
僕の問いかけに、イシスはいつもの笑みではなく、複雑そうな顔で頷いた。
「……たぶん私だけじゃなく、この国の女の人はみんなそうだと思います」
そう言ってイシスは手を止め、遠くを見るように視線を上げた。
レイシーヴァ王国で食を得るためには、隣にある魔物の森に入らなければならない。
森から畑を荒らしにやって来る魔物も、退治できなければならない。
さらに、盗みにやってくる野盗や山賊をも追い払えねばならない。
それができなければ、淘汰される。
「とくにこの国では、女性は男性の後ろに付き従うのが美徳と考えられていまして」
イシスが切り終えた部分の野菜を、包丁に載せて鍋の中に移す。
「この国の女性は家事は得意なんですが、戦う力なんてない人が多いんです」
だからこその、『男の強さ』。
男の強さが妻の命の保障となり、財力となり、家族の生活の安定となる。
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