第189話 消えたロウソク
「いらっしゃるか上のお部屋、見てきます」
イシスも口元を拭いて立ち上がる。
ノットは宿を借りたいと言いながら、一日の殆どを不在にしているという。
部屋の掃除にイシスが入ると、ベッドで眠っていたような痕跡はあるらしいので、部屋を使っているのは確からしいのだが。
「あぁいいよ、お休み中かもしれないし。僕、後で行くから」
僕は天井を見上げて頷いた。
◇◇◇
イシスはその後、釜の前に2時間以上座り込んで、体を洗う湯を沸かしてくれた。
「ラモさん、できました!」
煤だらけの顔で微笑むイシス。
拭ったらしく、その愛らしい頬をいくつも黒い線が横切っている。
「イシス、君が先だよ。ねぎらわれるべきは君だ」
僕は自分の袖でイシスの頬を拭きながら言う。
「ラモさんが先です!」
どうしても客人の僕が先らしく、根負けした。
どうやら、僕の着ていた服が見るに耐えなかったようだ。
焼け焦げて生地が生地をなしていない、穴だらけの黒い襤褸。
縫い込まれた刺繍から、黒なのに神官服に見えなくもないけど、傷み過ぎていてよくわからない。
そういうデザインの服ってだけかも。
それはともかく、結局何度も礼を言って、湯を使わせてもらった。
おかげで僕は身なりだけではなく、疲れを癒すことができた。
着替えもイシスが用意してくれていた。
イシスの父が着ていた、麻色の薄い作業着を使っていいと出してくれたものだ。
「本当にありがとう」
「うふふ」
イシスは今日、ずっと僕に尽くしてくれて、食事の時しか座っていない。
「ラモさん、お部屋に案内しますね」
僕の入浴が終わると、ろうそくを持ったイシスが右足で一段上がって、左足を揃えて、また右足で上がってという上がり方で、階段を上がっていく。
相当な怪我だったんだな、きっと。
「ここを使ってください」
客人用の部屋が二つ並んでおり、僕はその左側の部屋だった。
イシスが中のろうそくに火を灯していってくれる。
「なにからなにまで、ありがとう」
僕は深く頭を下げる。
記憶は失えど、こんなに他人に世話になったのは、初めてではなかろうか。
「いいんです。明日の朝は蒸し大豆と肉野菜のスープです。大豆はとっても美味しいので、楽しみにしててくださいね! 小鳥が鳴くころに起こしに来ます」
その言葉から、早起きするつもりなんだ、と知る。
「じゃあおやすみなさい、あ、これお夜食にどうぞ」
そう言ってイシスは、熟れたりんごをくれた。
「ありがとう」
やがて閉められた扉の外から、足を引きずって去っていく音が聞こえた。
僕はりんごをテーブルに置くと、きれいに掃除され、整理された部屋を眺める。
「立派な人だ」
彼女に何度ありがとうと言っただろう。
あれで12歳だというから信じられない。
記憶はないけれど、僕はイシスほど一生懸命に生きてきただろうか、とつい比べてしまう。
野に倒れ、記憶や知識の一部が抜け落ちてしまっている僕が生き延びられたのは、ひとえにイシスのおかげだ。
彼女が居なければゴブリンにやられていたかもしれないし、地理もわからず、いまだに彷徨い歩いているかもしれなかった。
◇◇◇
ぽつぽつ、と雨音だけが響く静かな夜である。
黒髪の少年の顔を、斜め下からテーブルのろうそくがゆらゆらと照らしている。
少年はソファーに浅く腰掛け、静かに考え事をしていた。
自分の失われた記憶を、辿っていたのである。
しかし、少年はやはり名前すらも思い出せなかった。
自分が記憶を失ったきっかけもわからない。
直前までどの国に住んでいて、どんなことをしていたのか。
アイテムボックスを開き、自分の手がかりとなる品を探そうとする。
だが自分で設定したらしい暗証ルールがわからず、開くことができない。
それゆえ、高レベルアイテムボックスを持つ者なら、そのほとんどが簡易とはいえ、なんらかの暗証を設けているのである。
少年は思い出せていなかったが、例に漏れず、そういった理由でロックしていたのだ。
「一銭も取り出せない……いや、そもそも中身はないかもだけど」
第一、第二アイテムボックスが存在しているが、ともに認証できない。
困ったように頭を掻いた少年は、認証なしの第三アイテムボックスを作り、今後はそこにアイテムを仕舞うこととする。
次にステータス画面を開き、自分の職業を確認しようとした。
「なんだこれ……」
少年はため息をついた。
そこはすべて【???】で埋められ、なにも情報がない。
「もしかして僕って、職業……なし?」
この世に『職業』を与えられない者がいることくらいは、今の少年も知っている。
「なんとなく冒険者だと思ったんだけどな……」
田畑を耕していたのか、商いをしていたのか、それとも何もせずにいたのか。
「………いや」
少年はすぐに考え直す。
ただの勘だが、やはり自分は戦いの中に身を置いていたのではなかろうか、と。
なぜなら、さきほどゴブリンを見た時、戦うことを当然と考えていた自分がいたのである。
感覚としても、どのレベルにあるかは不明だが、自分は相当戦闘に秀でているような気がする。
(それに)
少年は自分の右手を覗き込んだ。
そこには「剣ダコ」と呼ばれるタコが、いくつもできている。
剣か斧か槍か、はたまた、鈍器か。
そういった武器を、自分はタコができるほどに握っていたはず……。
そんな少年の思考は、半ばで途切れることとなる。
ふいに張りつめる、室内の空気。
「………」
少年が顔を上げる。
その目が鋭く研ぎ澄まされた。
直後。
一瞬にして闇と化す室内。
点けられていた3つのろうそくが、同時に消されたのである。
もちろん窓は開いておらず、風など吹きようがない。
しかしこの異常な現象を前にしても、少年は微塵も動揺していなかった。
月明かりが照らすだけになった室内で、少年が椅子からゆらりと立ち上がった。
そのまま、右側の壁に近づき、口を開く。
「――趣味の悪いネクタイだ」
「………」
少年の言葉に、壁の向こうにいた男が動揺を隠すようにネクタイに手をやった。
そう。
この男が、みえぬほどの速さで少年の室内を抜けたのであった。
「……死に干渉した者。なぜここに来た」
壁越しとは思えぬほどに減衰なく、男の発した声が少年の元へと届いた。
男は少年を威圧し直さんとしていた。
「――お前は運がいい」
しかし少年は静かに言った。
「今の俺はこの上なく機嫌が良い。そのまま消えることを許す」
「――笑止」
直後、少年の部屋のテーブルに置かれていたりんごが、斜めにスッパリと切れた。
上半分のりんごが、するするとずれて、落ちる。
「………」
振り返り、それを視界の端で捉えた少年の目に、怒りが宿る。
「歯向かうのは実に愚かな選択だ。私を誰だと思っている」
壁の向こうから、少年にさらに圧力をかける声が続いた。
それは警告だった。
自分に従えと言う、力づくの警告。
しかし少年はびくともしない。
「――死神か」
少年の呟きに、壁の向こうの男がぴくりと眉を揺らした。
「下等な存在と一緒にするな。私は
――『
それは死後の世界からやってくる、現世の死を司る者。
人という生き物は、実に高度な知性体である。
それゆえ時として、訪れた自分の死を死として認めないという、他の生物ではほとんど起こり得ない現象が頻繁に起こる。
特に、唐突に死が訪れてしまった場合にあてはまりやすい。
するとどうなるか。
魂が現実を理解できず、肉体を離れた後も生きていると信じて、現世を漂ってしまうのである。
その行末は言うまでもない。
影を持たぬ
そのような魂をなだめ、死後の世界へと正しく導くのが
彼らが『地獄界』から選抜されたエリート中のエリートで構成され、地獄の『十王』によって強力な力や特権を与えられているのは、常に危険と隣り合わせだからである。
なだめるべき魂が牙を剥き、救いに来たはずのその身に重大な被害を受けるなどは、決して稀な話ではないのである。
なお『死神』とは、『十王』もしくはそれに準じる存在がとある理由で当初の死の時期を変更した際、それが適切に生じるように手伝う下級の使い魔たちをさしている。
「光に嫌われた者。なぜここに来たか言え。事次第では命の保証はない――」
「――笑わせてくれる」
「なに!?」
男がぎょっとして振り返る。
自分の後ろにいたのだ。
隣の部屋に居たはずの少年が。
「――き、貴様も『影縫い』を――!?」
その顔は月明かりの中でもはっきりとわかるほどに、青褪めていた。
「最後の忠告をお前にやろう、ノットとやら。イシスの家を荒らすのは心外だ。――失せろ」
「――愚か者め! この私に歯向かって見せるとは――」
室内に急激に殺気が高まった、その瞬間だった。
階下でカシャーン、という何かが割れる音がした。
二人の研ぎ澄まされた耳には、「ああ、やっちゃった……」というイシスの声までもが届いていた。
互いの気が、急速にしぼむ。
「…………」
二人が顔を見合わせる。
「――休戦、だな」
ノットが言葉を発する。
「同感だ」
少年はそれに頷き、戦わないという意思を示すかのように、腕を組んだ。
「――今日のところはイシスに免じて許す」
ノットが無防備に目の前の少年に背を向ける。
「それはさっきから俺が言っているセリフだが」
「やかましい。夜が明けたらさっさとここから出ていけ」
そう告げたノットは、返事を待たずに影の中へと消えた。
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