第188話 月明かりに照らされて
「逃げっ、逃げ……!」
「逃げるの?」
訊ねると、イシスは血の気の引いた顔で、こくこくと何度も頷いた。
そっか、逃げた方がいいのか……魔物だもんね。
いまいち危機感を感じないのは、頭がどうかしているせいかな。
僕はイシスの背中の籠を代わりに背負うと、ふたりで一目散にその場から逃げ出した。
◇◇◇
走りながら、僕は何度も立ち止まる。
イシスは驚くほどに足が遅かったのだ。
左脚を怪我しているのか、引きずるような走り方をしている。
こんな脚なら、魔物に見つかったら逃げられないとわかっていただろうに。
なのに助けに来てくれるとか、僕はもう、なんてお礼をしたらわからない。
「はぁ、はぁ……」
「大丈夫?」
「……こんなに、走ったの、久しぶり……で……」
イシスがたまらずに座り込み、喘ぎながら言った。
僕たちはあの森から離れ、木々がまばらに立つ草原に出ている。
ゴブリンは追ってこなかった。
「ねぇイシス、左脚どうしたの」
僕はイシスの呼吸が落ち着いたところで訊ねた。
「あ、前に襲われた時に怪我をしてしまって……もう傷とかないんですけど、痛みだけが」
「そうなの」
太ももの内側らしく、見せてと言うにはちょっと憚られた。
もう傷がないなら、相応に昔ということか。
「でもラモさん、すごい、です……」
肩で息をしているイシスが、座ったまま僕を見上げる。
「なにが?」
「だって、籠もあるのに、全然息が……」
「ああ、単に男女の差かもよ」
籠は任せてよ、と言いながら、僕はどん、と胸を叩いた。
「頼もしいです」
笑みを浮かべるイシス。
しかし、その笑みはさっきよりも少々不安げだった。
日が完全に落ちて、周囲がみるみるうちに暗くなってきているからだ。
僕の目には暗視が宿っているのか、暗闇が勝手に中和されているんだけど。
「暗くなってきたみたいだね」
「はい」
普段のイシスはこんな遠出をしないらしい。
今日は月に一度、野生の苗やキノコを拾いにいく日だったそうで、ついつい遅くまで採集に回ってしまったのだそうだ。
イシスは言わなかったけれど、僕の存在も相当に仇となって、こんな時間になってしまっているんだろうな。
「イシスには大きな借りができたよ」
「えへへ……あ、いいものがあります」
イシスが懐から松明を取り出し、白い膝を地につけて火打ち石をコンコンと打ち始めた。
「あ、待って」
僕は松明の先端に手をかざし、慣れた詠唱をする。
間を置かずに、松明の先端にポワン、と柔らかい光が宿った。
これくらいは口が覚えていた。
詠唱も短いし、毎日のように使っていたのだろう。
(ふむ……)
魔法の中に
どうやら僕の記憶は、抜け落ちているところとそうでないところがあるようだ。
「……わ、すごーい!
イシスが手を叩いて喜んでくれた。
「うん、できるみたい」
「この地区だと、お父様を入れて3人しか使える人、居ないんですよ」
「あ、そんなに貴重なの」
「ですよー」
イシスが力強く何度も頷いた。
この地区ってそういや、ここ、どこなんだろ。
随分と辺境なのかな。
まぁ今すぐ聞かなくてもいいか。
もう随分と暗くなってるから、まずは帰ろう。
◇◇◇
空の星が明るく見え始めた。
進む方向には、月明かりに照らされた、一軒の白い屋敷が見えてきている。
「……あれが?」
僕は見えてきている屋敷を指差した。
「はい、そうなんです!」
明かりをかざすイシスが嬉しそうに言う。
あれが彼女の住む家らしい。
「ご家族、たくさん居そうだね」
「みんな出稼ぎに行っているので、今は私ひとりなんですっ!」
僕は耳を疑った。
「……えっ、イシスひとりなの?」
「正確には、使用人の方が居たんですけど、やめちゃったので……」
イシスはその時のことを思い出したのか、勢いを失った。
「そうかぁ……」
なるほど、親御さんは使用人にイシスを任せて出稼ぎに行ったと。
そしたら、想定外にも辞められてしまったと。
それって、イシス、かわいそう過ぎる。
聞けばイシスはまだ十二歳。
ひとりで暮らせと言うには、少々酷な年齢だ。
しかし僕の視線の意味を理解したのか、イシスはその顔にいっぱいの笑みを浮かべた。
「でも寂しくないですよっ! いろいろしてたら時間はあっという間だし、もう少しでみんな帰ってくるし」
「すぐだといいね」
「はいっ」
力強い返事を返したイシスが歩き出した一瞬のことだった。
松明を足元に向かい、〈
ちょうど木々の合間で、僕たちの体が、まっすぐな月明かりに照らされた。
「………」
映し出されたもの。
歩き出したばかりの僕の脚が止まる。
「?」
遅れた僕を振り返り、イシスが不思議そうにする。
「ラモさん、どうかしたんですか?」
「………」
「ラモさん?」
「ああ、ごめん。あのさイシス」
「はい」
僕は再び歩き出しながら、イシスに訊ねる。
「イシスって本当に一人暮らし?」
「えっ……あ」
イシスが口を押さえた。
「……ノットさんのこと忘れてました」
イシスは言われて気づいたらしく、頬を赤くして恥じた。
「実はしばらく前から、旅の方がいらっしゃっていて」
「……旅の方?」
「うん。『食材の調達をするから、宿を貸してくれ』とおっしゃって。でも自分に食事はいらないとおっしゃるし、何日かご不在にされることも多くて」
今日もいらっしゃるかどうか、と言う。
「毎日、イシスに食糧を?」
「はい、満月鶏とか、小麦うさぎとか、食べやすいものばかりを狩ってくれるんです」
僕の記憶が正しければ、満月鶏は飼育される鶏よりも美味とされる野生の種だ。
狩るのはそれなりの技量が必要だったはず。
「いい人なんだね」
「はいっ。ぶっきらぼうですけれど、とっても」
純粋に笑っているイシスに、嘘はないだろう。
脚の不自由な彼女に食糧を提供しているといったところか。
少なくとも、この子に害をなす存在ではないようだ。
それなら僕も身構える必要はないのかもしれない。
「………」
だがこれで僕の驚きがすべて解決したわけではなかった。
◇◇◇
「うわ、大きなお屋敷だね……」
僕の背の倍ほどもある観音開きの玄関の扉を開くと、足元には真紅の絨毯が敷かれ、先には吹き抜けの二階へ繋がる逆扇状の見事な階段があった。
見上げると、頭上には豪勢なシャンデリアが備わっているが、今はろうそくの一本も飾られていない。
「お父様で四代目なんです。昔は領主も務めたらしいんですけど」
今は財産を崩して暮らしていくばかりの生活で、とイシスは辛そうに笑った。
父はさっきの森を含めたこの付近一体の土地を持つ辺境伯で、いちおう貴族にあたるそうだが、生活は貧しく、ここにいるだけでは家族を賄えないという。
そのため、一番幼い四女のイシスだけをこの家に残し、父と母、そして三人の姉は都市部で小さな家を借り、働いているそうだ。
「今、明るくしますから」
言いながら、イシスが暖炉のところで屈み、火をおこそうとしている。
僕は〈
「……じゃあイシス一人で、この家のことを全部しているの?」
僕は隅々までキレイになっている家を見渡しながら言った。
イシスは頷いた。
「みんなが帰ってきた時に、ほっとできるような家にしておきたいんです」
それに私、掃除好きなので、とイシスははにかんだように笑った。
「立派だね。十二歳なのに」
こんなに広かったら、掃除だけといわれても、僕なら気が滅入ってしまうかも。
◇◇◇
「ごちそうさまでした。すごくおいしかったよ」
僕は食べ終えた皿の前で手を合わせると、イシスがお粗末様でした、と向かいで頭を下げる。
「この肉って、そのノットって人が?」
水を飲んだ僕は、鶏肉の塩焼きがのっていた皿を指しながら訊ねる。
「はい」
聞けばノットは30代くらいの青い髪の男で、いつもきっちりとした格好をしているらしい。
「僕もお礼を言わなきゃ」
こんなに食べちゃったしな、と僕は立ち上がる。
「いらっしゃるか上のお部屋、見てきます」
イシスも口元を拭いて立ち上がる。
ノットは宿を借りたいと言いながら、一日の殆どを不在にしているという。
部屋の掃除にイシスが入ると、ベッドで眠っていたような痕跡はあるらしいので、部屋を使っているのは確からしいのだが。
「あぁいいよ、お休み中かもしれないし。僕、後で行くから」
僕は天井を見上げて頷いた。
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