第125話 美の結晶

 

「おお、ヘルデン様たちだ!」


「――おかえりなさいませ、ヘルデン様!」


「よくぞご無事で!」


 馬上で凛々しくする30人ほどの一行。

 それを幾重にも取り囲む人々が、惜しみなく拍手を送っている。


 中心にいる彼らはアリザベール湿地の【第三相浄化】までを成し遂げて帰還した、レイシーヴァ王国の精鋭兵士たちである。


 王都に足を踏み入れた彼らは疲弊しきった顔に笑みを浮かべ、民衆に手を振って応えている。


 よくよく見れば、彼らの笑みは余裕のないものだとわかったろう。

 それほどに、今回の戦いは全く生きた心地のしないものであった。


「ヘルデン様」


 王宮に入るなり、ヘルデンだけが入り口で待っていた王女つきの侍女に引き留められる。


 侍女の名はルイーダといい、酒場経営から王宮に入ったという、変わった経歴を持つ女である。


 歳は33歳、茶色の髪を一本に束ね、丁寧にアイロンがけされた侍女の衣服をまとっており、今のヘルデンから見れば、眩しいほどの清潔感であった。


「王女がお待ちかねでございます」


 ルイーダは両手をからだの前で組み、微笑む。


「わかっている。私室か」


「ええ」


「身を清めたらすぐに参上する」


「確かにそうされた方がよいでしょうね」


 ルイーダが若干引き攣った顔で笑みを浮かべた。

 もちろんヘルデンたちはアリザベール湿地を出てから湯浴みをし、鎧についていた返り血も丁寧に拭っている。


 だが、戦い続けた不死者アンデッドたちの異臭が染み付いてしまっているのだろうとヘルデンは勘づく。


 ヘルデンたちはあの魔物たちと対峙する時間が長すぎてすっかり鼻が曲がってしまい、自分の感覚に自信がなくなっていた。


「大変でございましたね」


「わかるか」


 ヘルデンが苦笑する。


「それはもう、顔を見れば」


 ルイーダはくすくすと笑った。


 終わってみればまだ首は繋がっていたが、それはただ運が良かったというだけに過ぎないことくらい、ヘルデンも理解できている。


 断言できた。

 自分たちではどうしようもなかった戦いであったと。


「で、私との約束は覚えてます?」


 ルイーダは半歩近づき、周囲に聞こえぬほどの声でそっと呟いた。

 ヘルデンの鼻に、花の香りが流れ込む。


「……約束?」


「無事に帰ったらお食事に誘ってくださる、と」


「ああ、そうだったか」


 浄化の壮行会の席でルイーダが隣に座っていたのは覚えている。

 どこから手に入れたのか、うまい酒を次々とふるまってくれたのも覚えている。


 しかし、はて、と思う。

 そんな話をしただろうか。


 酒に呑まれたことなど一度もなかったが、どうにも思い出せない。


「……あら、お忘れに?」


 目を細めて問いかけるルイーダに、ヘルデンはふむ、と唸る。


 突如復活した魔王と対峙してきたヘルデンである。


 頭の中にあった日常がまるごとぶっ飛んでしまっていても、それは仕方がないくらいには思えた。


「……わかった。約束は約束だ」


「なんなら今晩でも」


「待て待て」


 両手を前で組んだまま、素でぐいぐい押してくるルイーダに、さすがにストップをかける。


「した約束は守るが、姫、いや、仕事が優先だ。わかってもらえんか」


「もちろんです」


「今週中には連絡する」


「心待ちにしています」


 ルイーダが嬉しそうににっこりと笑った。




 ◇◇◇




 コンコン、と扉をノックする音。


「誰だ」


 扉の奥からは、トーンの高い女の声が応じた。

 ヘルデンにとっては最も聞き慣れた声でもある。


「フローレンス王女。レイシーヴァ王国第一・第二統括近衛騎士隊長ヘルデン・リヴェルディ、只今戻りました」


「入れ。開いている」


 王女と呼ばれたその人は、凛とした声を発して応じた。


 ヘルデンは扉の前で会釈するように一礼し、扉を開け、その人を前にして片膝をつき、今度は厳粛な騎士の礼をした。

 顔を上げると、少女がいつも腰掛けている黒革のソファーに脚を揃えて座り、目を閉じたままヘルデンに微笑みかけていた。


 色白のほっそりとした身体つきで、アッシュグレーの髪はさらりとして、しなやかな腰まで伸びている。

 その髪の間からは、つんと二つの耳が突き出ており、彼女が『美の結晶』と呼ばれる種族、エルフであることを意味していた。


 なお、彼女の場合、正確には古代エルフという、エルフの上位種族にあたる。


 今年で十七歳となった、第十六代国王代理フローレンス=バーバリア・ラス・ロードス王女その人である。

 そう、彼女は今、病床に伏した王の代わりに国政を担っている。


「よく戻ってくれた、ヘルデン。髭が伸びたの」


「ですな」


 ヘルデンが顎を撫でながら笑う。


「実は今回ばかりはそなたでも戻ってこれないかと気を揉んでいた」


 フローレンス王女は目を閉じたまま心底安堵した表情を浮かべて言うと、紅色のシルクのローブの裾を太もものところで小さく持ち上げて直した。


 ローブはまたとないであろう高級そうな一品である。

 王女自身は国の状況を憂い、平民と同じ質素な暮らしでも一向に構わないと常日頃から口癖にしているが、他国からの目もあってこればかりはどうにもできずにいるのだった。


「あながち間違ってもおりませぬな。正直、私もだめかと諦めかけました」


 ヘルデンは本当にそう思ったのかと問いたくなるくらい、軽い口調で言った。


「第三相が困難であったか。勇者アラービスが居ようと」


「いえ。実際に困難だったのは、言うなれば第四相」


「……ぬ?」


 王女はやはり目を閉じたまま、笑みを絶やさずに問い返す。


「それはおかしい。浄化は第三相までで終わりのはずであろう?」


 王女の当然の疑問にヘルデンが大きく頷く。

 過去、『第三相浄化』に成功した不浄の地はいくつかあったが、いずれもそれ以上の浄化を要したことはなかったのである。


「浄化自体は三回で済んだのですが」


「………」


 しばし、無言の時間が過ぎる。


「……まあよかろう」


 フローレンス王女がひとまず話を最後まで聞こうと居住まいを正した。

 もし同じことをヘルデン以外の者が述べたとしたら、それだけで王女は信じなかったに違いなかった。


「で、その第四相とやらでは何が現れた? 不死の竜か? はたまた、古文書にある不死なる高導師リッチーか」


 王女は小さく手で探るようにしてテーブルに置かれたティーカップを見つけ、両手で持つと、それにそっと口を添える。


「魔王です」


「………」


 紅茶を飲む王女の動きが、ぴたりと止まる。

 整った眉を訝しげにひそめた。


「……なんと申した」


 彼女はこの世で一番聞いてはならない名を聞いてしまった気がして、問い返していた。


「アリザベール湿地に湧いた大量の魔物の中から、魔王が現れました」


 ヘルデンが事も無げに言ったものだから、今度は冗談に聞こえて王女がぷっ、と吹き出した。


「不在だったからと言って、わらわを楽しませようとしてくれなくてもよいぞ」


「もちろんそんなつもりはございませぬ」


 しかしヘルデンはやはり、真顔のままだった。

 目を閉ざしていてもその様子を肌で感じ取ったフローレンス王女は、笑みをまたすぐに失う。


「……ならばそなたたちは第三相まで終え、ついでに現れた魔王も倒してきたと?」


「その通りです。世界に貢献してまいりましたぞ」


 どうぞ私めを『生還者サヴァイバー』とお呼びください、とヘルデンは両手を広げ、おどけてみせる。


「馬鹿を申すな。いくら勇者アラ―ビスが歴代最強といえど……」


 王女の言葉を聞いたヘルデンが種類の違う笑みを浮かべ、途中で口を挟む。


「あぁ、大事なことを申しておりませんでしたな。確かにアラービスは噂に違わぬ器でございましたぞ」


「まさか『光の聖女』抜きで魔王を倒したと?」


 王女が驚きを隠せない表情になる。


「――いえ、逆です」


 ヘルデンが王女の言葉を遮る。


「……逆?」


「あの男は魔王を前にしてひとり逃げました」


「なんと」


 フローレンス王女が唖然とする。

 ヘルデンは淡々とそうなるまでの状況と、「祝福帰還水晶」で立ち去った際の様子を話してみせた。


「……『英雄は死なず』?」


「はい、皆を置き、空舞馬車も置き捨て、高らかにそう叫んで消え去りました」


「何が英雄だ。馬鹿臆病としか言いようがない」


 フローレンス王女がその整った顔をしかめ、不快感をあらわにする。


「もちろん私の部下たちも黙っておりませぬ。もう今晩には酒場で持ちきりの話題になるでしょうから、広まるのも時間の問題。早々に表向きの『歴代最強』説は霧散するでしょうな」


 苦労して広めたのに可哀想ですな、とヘルデンは忍び笑いを漏らした。


「ちょうどいい薬になろう。……しかし、ならばそなたたちはいったいどうやって生き残った? そなたの話が本当なら、勇者と光の聖女なしで魔王を倒したということになろうぞ」


 王女が目を閉じたまま問いかける。


「まさに万事休す、我々も皆、死を覚悟しました。……ですが」


「……が?」


「突如現れた男が目を疑うほどの一騎当千ぶりでして。ひとりで魔王を――」


「馬鹿な。嘘をつけ」


 最後まで聞かずに、王女が一笑に付した。

 しかしヘルデンは真顔のまま、淡々と続けた。


「この目でしかと見ました。部下たちも全員見ております。その男、魔王を剣で上回り、さらに魔法でも魔王を完全に叩きのめしてみせましたぞ」


「………」


 王女の私室に、しばし沈黙が流れた。


「まさか真なのか」


「姫。私はこの場に嘘を奏上するために来たと?」


「………」


 王女が言葉を失った。


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