第121話 アシュタルテ生誕5

 


「殺せぇぇ――!」


 好機と悟った勇者パーティの面々が、一斉に突っ込んでくる。

 続けてラインハルトやリッキーの剣も魔王に突き立つ。


「……ふざけた真似を……」


 磔のまま、ごぼっと血を吐いた魔王が、ぎろりと勇者を睨む。


 魔王はここで負けを悟る。


 ――人間どもが一枚上手で、自分はまたもや出し抜かれたのだ、と。


 だが魔王の顔からは、怒りがゆっくりと去っていった。


 ――まあよい。


 自分はこれで終わりではないのだ。


 月日が経てば、必ず復活を遂げることができる。

 そのための種は、すでに撒いてあるのである。


 そして口元に、他にはわからぬほどの笑みを浮かべた。

 今回の敗北を屈辱に感じないほどの最強の一手を、魔王は思いついていたのである。


 ――次からは、断じて負けぬ。


「 ……Συμφώνησε με την κλήτευση μου Πριγκίπισσα του Καθαρτηρίου…… 」


 魔王はその身に武器を突き立てる人間たちを意に介せず、囁くような声で詠唱を始めた。

 気が遠くなるような長い詠唱である。


 しかし魔王は、どうなってもこの詠唱を止めるつもりはなかった。


「死にさらせー!」


 勇者たちの槍が、剣が、斧が、繰り返し魔王を貫く。


 とうとう魔王の首が飛び、石畳を転がった。


「Αριάδνη, η ιερή γυναίκα του πολέμου, κάτω στο χέρι μου」


 それでも魔王の詠唱は止まらない。


「しぶといぞ! まだ生きてやがる」


「――アリアドネ、聖剣でとどめを!」


 槍を突き刺した姿勢のまま、エドガーが聖女を振り向く。


 アリアドネがはっとした。


 相手が悪魔の王とはいえ、取り囲んで殺すというのが性格上どうしてもできなかった彼女は、ひとりそれに加わっていなかったのである。


「………」


 頷いたアリアドネが最後の一撃を魔王の頭部に見舞おうと、踏み込んで聖剣アントワネットを振りかぶった。


 血を流す頭部だけの魔王と、アリアドネの目が合う。

 そこでとうとう魔王はニヤリ、と笑った。




 ◇◇◇




 ――大丈夫? お姉ちゃん。

 最近、朝から顔色良くないよ。


 心配ないわ。

 ミロに比べれば、こんなことくらい。


 アリアドネは隙間風の入ってくる窓に布の切れ端を差し込むと、きしむ床に膝を折り、寝たきりの弟の頭を撫で、微笑みかけた。


 聖女であることを申し出て二週間ほどが過ぎていた。

 王宮での鍛錬の日々が始まっている。


 まだ序の口だが、今は【生命力微分】の能力の確認作業で、命の瀬戸際で負傷し続ける必要があった。


 想像以上の恐ろしい苦しみだった。

 それでも、弟のためと思えば耐えられた。


 自分は魔王を倒すまで耐えればいいだけなのだ。

 そうすれば、有り余るほどの大金を手に入れられる。


 そのお金の百分の一もあれば、弟の病を完治することなど容易いでしょうと言われた。


 だから毎晩泣きながらでも、一日一日をひたすら耐えようと心に決めていた。

 

 天井を見つめている弟の横顔を、もう一度見る。


 あれほどに血色がよくて、いつも羨ましかった弟。

 ずっと自分の病の世話をしてくれていた弟が、今は逆に床に伏している。

 

 今まで天井を眺め続けていたのは、アリアドネ。

 そう、アリアドネは聖女となった際、持っていた病を弟に移されたのだ。

 

『戦の神ヴィネガー』ならば、病を取り去ることなど簡単だったに違いない。


 だが、神はそうしなかった。

 アリアドネに聖女たらんとさせるべく、弟を人質にとることを選んだのである。

 

 

 ――お姉ちゃん、今日は何時に帰ってくるの。


 うーん。夜の七時はすぎちゃうかしら。


 ――これから12時間以上も?


 そうよ。仕方ないの。

 世界のためなんだもの。


 ――お姉ちゃん、僕、不安なんだ。

 最近、急に目の前が暗くなるんだよ。


 暗くなる?


 ――ねぇお姉ちゃん……僕、このまま、死んでしまったりしないかな。


 アハ、と冗談のように笑ってみせる弟の顔を見て、アリアドネは胸がずきんと痛んで、言葉に詰まった。

 だが努めて冷静に、言葉を紡いだ。


 大丈夫。ミロは死なないわ。

 もうすぐ魔王を倒して、お金が入るの。


 そうしたら光の大司祭様に頼んで、ミロの病気も治せるから。


 ――そうだよね。

 もうすぐなんだよね。


 弱音吐いてごめんよ。

 僕、頑張るよ。


 でもお姉ちゃん……終わったらすぐ、本当にすぐに帰ってきてね。

 

 うん、約束するわ。


 ――絶対だよ?


 うん。必ず走って帰ってくる。

 

 ――よかった。


 ミロはやせ細った顔で、幸せそうに笑った。



 これが、ミロとの最後の会話になった。




 ◇◇◇




 これで終わり。

 やっと弟の墓のそばに居られる。


 病を代わってからは、聖女の役割を果たすのに必死で、ほとんどミロのそばに居てあげられなかった。


 ミロには、とにかく寂しい思いばかりさせてしまった。

 鍛錬を一日くらい休んで、どうしてそばにいてあげなかったのだろう。


 思い出すと後悔ばかりが募って、胸が痛みで張り裂けそうになる。


(でも……)


 これからはずっと一緒にいられる。

 この長く苦しかった日々も終わる。


 墓地では石造りのきれいな墓が並ぶ中、ひとりだけ手作りの貧相な墓に入ってもらっているミロ。

 

 約束した通り、稼いだお金で、立派な墓に建て替えるから。

 ごめんね。待っていてね。

 

 寂しくないように、私もすぐに入るから。

【生命力微分】があろうと、自分が死ぬことができる方法はひとつだけ残されていることを、アリアドネは知っている。


 最後の一撃を見舞おうとしたアリアドネが、魔王の顔を見る。


 魔王は笑っていた。

 背中がぞわりとして、振り下ろすだけの剣が止まってしまう。


 だが、躊躇したのも一瞬。


 首だけになった魔王に、何を恐れる。

 アリアドネは意を決して、剣を振り下ろそうとする。


 その時。


「――弟を蘇らせ、お前に逢わせてやろう」


 ふいに魔王がそんな言葉を口にした。


「……えっ」


 アリアドネの剣が、ぴたりと止まる。

 止まらないはずがなかった。


「戦の聖女よ。弟を殺した『ヴィネガー』ではなく、我に従うがよい」


「………」

 

 アリアドネは今が戦いの最中であることも忘れ、呆然と立ち尽くす。

 魔王はアリアドネの心を掌握したことを確信し、高らかに詠唱を完結させる。


「……Να γίνω η παρθενική παρθένα του Καθαρτηρίου!」




 ◇◇◇




「……Να γίνω η παρθενική παρθένα του Καθαρτηρίου!」


 魔王がこれほどに詠唱を重ねなければならない魔法である。

 難度が高い魔法であることは疑いようがなかった。


 しかも狙う対象は神に選ばれ、庇護下にある娘。


 本来なら到底成功するはずのない、無謀とも言える行為。

 だが。


 魔王の魔法は、心に隙を見せたアリアドネにすんなりと染み込んだ。


 直後。

『聖剣アントワネット』が手を離れ、カラン、と石畳を鳴らした。


「うぅ……」


 アリアドネが顔を歪め、片手で口元を押さえる。


 同時にアリアドネの背後で、巨大で真っ黒ななにかが五つ、ぬっ、と現れた。

 それらは奪い合うようにアリアドネの頭上でせめぎ合うと、最も力強かった一つがアリアドネに覆い被さるように重なっていく。


「……み……ミロ……?」


 アリアドネの目が焦点を失って、虚空を見つめ始める。


「……アリアちゃん!?」


「どうした!? 大丈夫か!」


 聖女の異変に、仲間たちが動転する。


 刹那、アリアドネの白かった顔や手脚に、禍々しい漆黒の紋がかっ、と現れた。


「―――!?」


 仲間たちがはっと息を呑む。

 理解できた者はいなかったが、それは数ある悪魔の紋の中でも、とりわけ強力な『煉獄』の紋であった。


「……ミロ……ここ……に……いた……!」


 紋の刻まれたアリアドネの頬を、すっと涙がこぼれ落ちた。

 同時に身にまとっていた黒銀のチュニックが壊れ落ち、色気のある漆黒のドレスに変わっていく。


「……そうだ。従うがよい。我がお前の願いを叶えてやろう!」


 頭部だけの魔王が、大声で笑い始めた。


「……くっ……!」


 ここにきて、仲間たちはさすがに認めざるを得なかった。


 魔王が死に際に、アリアドネになにか仕掛けたことを。

 そしてアリアドネが今まさに、堕ちようとしている現実を。


「………」


 やがて、アリアドネの呻きがぴたりと止まる。

 一点の曇りもなかったアリアドネの銀色の瞳が、どす黒いなにかを湛えていた。


 その瞳が仲間たちをぎろり、と睨む。


「おい、アリアドネ……?」


「嘘だろ、聖女が……悪魔に……?」


 呆然とする仲間たち。


 直後。


「 απόγευμα αιώναςέκρηξη ἔκρηξις…… 」


 アリアドネの口から、魔王と同じ音節の言葉が流れ出した。


 そう、仲間たちの推測の通り、彼女は悪魔に堕ちていた。

『戦の神の聖女』という、比類なき力を持った少女の堕天。


 それだけに、悪魔の中でも桁違いの存在と化していた。


 まぎれもない、『ソロモン七十二柱』。

 その中で選ばれしは、【怨嗟】の鏡を持つ最凶の剣の使い手、『煉獄の巫女アシュタルテ』。


「Έλα, το σπαθί μου……」


 時を同じくして、アリアドネの両手に、磨き抜かれた銀色の長剣が現れる。


 聖剣の対極となる魔の剣。


 それは『聖剣アントワネット』に唯一抗う力を持つ、『呪縛された長双剣ル=ヴェルサイユ』。


「――もうダメだ、逃げるよ!」


 魔術師リタが意を決して『祝福された集団帰還水晶』を使用した。

 このリタの機転がなければ、勇者パーティは全滅したに違いなかった。


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