第115話 二人の時間

 


「……好きに暴れてよいのでしょうな。我が主よ」


 黒窮奇が凶気を宿した眼光をあたりに向けながら、告げた。


「いや、戦うんじゃない。この人をちょっと空に連れたい。頼まれてくれ」


 フードの男は苦笑したように、その魔物に答えた。


「……承知」


 魔物は承諾の意を口では示しながらも、あからさまに不満げであった。

 その証拠に空ではなく、辺りに研ぎ澄まされた視線を向ける。

 まさに食い殺せそうな獲物を探すように。


「乗ってくれ」


 そんな不満げな巨体の魔物の背に跨がると、勇者の男はフィネスに向けて手をさしのべた。


「ば、馬車では……ないのですか」


 いつの間にか座り込んでいたフィネスは、かろうじてそれだけを言った。

 それを聞いた男は頭を掻き、やや困ったような素振りを見せる。


「確かにお姫様なのは知っている」


 申し訳ないが、と男は真摯に謝罪する。


「……あっ、い、いえ! そういう意味では……ちょっと驚いただけです」


 フィネスは慌てた様子で立ち上がる。

 そして、すぐに差し出されたままの男の手を掴もうとしたが、ふと思い留まった。


 男の手が、なにもない宙を掴む。


「す、すみません……」


「………?」


 その様子を目にした男が不思議そうにしながらも、黙してフィネスの言葉を待った。


「……私、こんな身体で本当に乗せてもらえるのでしょうか」


 フィネスがさきほどを思い出し、俯いた。

 ペガサスに置き去りにされたことが、想像以上にフィネスの心を傷つけていたのである。


 それを見た男は、フードの奥で微笑んだ。


洛花らくばなに聞いてみるといい」


「……らく……ばな?」


「こいつの名前なんだ」


 そう言って、フードの男は跨がっている魔物を指差した。


 黒窮奇が頭を回すようにして、じろ、とフィネスの顔を見る。

 はっとして後ずさりそうになったが、フィネスはそれをなんとか堪える。


「………」


 フィネスはしばし、魔物と視線を通わせていた。

 漆黒の双眸は凶悪さを持ちながらも、すべてを見通すような深い静けさを湛えている。


「……あ、あの……」


 この魔物が言葉を話せることを思い出し、フィネスが恐る恐る訊ねようとした時、黒窮奇が先に口を開いた。


「我は細かいことは気にせぬ」


「………!」


 フィネスの目頭が、一気に熱くなった。

 屍喰死体グールを乗せることの、どこが細かいことなのだろう。


「行こう」


「あ、あの……きゃっ」


 そう言ってフードの男に手を握られ、抱き寄せられるようにして窮奇の背中に乗せられる。

 黒窮奇はやはり、かけらも気にしていなかった。


「おいアラービス、後ろをついていけば良いのだな」


「どちらの方角に行くんですの」


 フユナとカルディエがそれぞれ累武るいぶ四方しほうを呼び出し、跨った。


 フユナが乗る累武るいぶが真っ先に宙に舞い上がり、待機し始める。


「北北西に飛ぶ。着陸場所には狼煙を上げておく。――じゃあ最初だけ失礼する」


 男はフィネスの両手を掴むと自分の腹の前で組ませ、掴んだ。


「……え?」


「いいぞ、洛花」


 男がそう言うなり、黒窮奇がゆっくりと羽ばたき始める。


 次の瞬間。


 ――ドォォン!


「――きゃっ!?」


 黒窮奇が突然、弾丸のように宙へと加速した。

 大地を蹴って飛び上がったのである。


 その速さたるや。


「ふぃ……!」


 すぐにフユナたちの声が聞こえなくなった。





 ◇◇◇





 黒窮奇は速度を緩めているが、まだフユナとカルディエは遠くで点になっている。

 フィネスはやっとその速度に慣れ、眼下を見下ろせるくらいには、気持ちの余裕が出てきていた。


「しっかり掴まらないと落ちるぜ」


 フードを被ったままの男が横を向くようにして言う。


「こ、これで大丈夫です……」


 フィネスは髪をたなびかせながら俯き、男の外套の腰元に小さく小さく掴まるだけだった。

 体がぶつからぬよう、気持ち数センチ余計に離れて座ったりもしている。


 自分が屍喰死体グールだということで、他人に触れることに気が引けるというのも、もちろんある。


 だが、もっと強い感情がフィネスの心の中を占めていた。


 ――サクヤ様。


 愛する人ならいざ知らず、アラービス相手にそうすることが耐えられない。


 わずかでも肌が重なってしまうことすら、フィネスは嫌で嫌で仕方なかった。


(……サクヤ様……)


 もし……もしこれが、あの方であったなら。


「………」


 腰元で男のローブを掴んでいる手が、震えた。


 抱きしめて抱きしめて……痛いほどに抱きしめて、もうずっと離さないのに。


「これから、もう少し横風が強いところを飛ぶ」


「………」


 フィネスの頬を、雫が静かに伝い落ちていく。


「……うっ」


 もう自分はあの方にはお会いできないのだ。


 そう気づいてしまうと、抑えていた気持ちが暴れだして、嗚咽が再開してしまった。


 ……もう一度だけでいいから、お会いしたかった。

 ゆっくり、そのお顔を見つめていたかった。


 まさか想いを伝えられずに、こんな終わり方をするなんて。


「……フィネス?」


「……わ……かりました……」


 フィネスが応じたのを確認してから、黒窮奇が力強く羽ばたいた。


 言われた通りに吹きつける風が力を増した。

 目元の雫が、風に連れ去られていく。


 ミニスカートの裾がひらひらとはためいて、誰も見ていないとわかっていながらも、手首で押さえ続ける。


 フィネスは右手に流れ行く山の頂を眺めながら、ふいに高ぶった感情を抑え込み、違うことを考えようとする。


(……でもいったい)

 

 これから自分は、どこへ連れて行かれるのだろう。

 今になって考えてみれば、死の国ミザリィに治癒者がいるとは思えない。


 かといって、国外に出られるだろうか。

 北北西に飛ぶと言っていたから、向かうとすればエルポーリア魔法帝国。


 だが『エーゲ国際条約』では、二国間の了解なく国境を空騎獣で飛び越えてはいけないことになっている。

 誰でも知っている常識である。


(………)


 勇者なら大目に見てくれる可能性もなくはないだろうが、 エルポーリア魔法帝国は特にそういった決まりごとにうるさい。

 正式な国の出入りでさえ、取り調べの項目が多く、他の国の倍以上の時間がかかるくらいなのだ。


 しかも今は自分という屍喰死体グールを連れている。

 見つかれば、ただでは済まないに違いない。


(やっぱり無理だわ……)


 フィネスは目を閉じた。



 ――ひとり知っている。



 そう考えると、男のさっきの言葉はやはり偽情報なのかもしれない。


(おのずと期待しすぎていたのかもしれない……)


 フィネスは小さく唇を噛み締めた。


 勇者の男はただ、自分をどこかに連れ去ろうとしているだけなのだ。



 ――屍喰死体グールを治せる人間を、ひとり知っている。


 

 噛んだくちびるが小さく震え始めた。


 夢のような話だった。

 だから、フィネスはすぐにそれが嘘なのでは、と感じた。 


 フユナたちも真っ先に気づいた通り、自分を連れ出すための、体の良いエサ。

 

 だが、あの場でそんな嘘はいらなかった。

 フィネスは立ち去りたくとも、オリビアに去られて立ち去れずにいたのである。


 ただ空騎獣に乗せる、と言ってもらえるだけで、自分には十分魅力的な提案だった。


 なのに。


(なぜこんな嘘を……)


 フィネスは、男の物言わぬ背中を見つめた。

 左手で風で遊ばれっぱなしの黒髪を押さえる。


(………)


 何度見ても、今、その背中には善意しか感じない。

 自分を騙そうとしている人なのかもしれないのに。


 浄化中は、向き合っていることすら苦痛だったのに。


「大丈夫だったか」


「………」


「フィネス」


「……はい」


 やっと返事をしたフィネスに、男が横を見るようにしながら、頷いた。


「さて、ここでしようと思う」


 男が黒窮奇を止めた。


「……えっ……ここ?」


 なんの変哲もない、ただの中空である。


「今回は、地上でやると飛び火するんでな」


「……なにをするのでしょう?」


 フィネスは理解できなかった。

 ちらり、と後ろを振り返ると、フユナとカルディエはまだ点だった。


「聖剣使いに協力してもらう」


「……え?」


 男はまずじっとしていてくれとだけ言い、背を向けたまま低い声で何かをつぶやき始める。

 そして、そっとフィネスの手に触れた。


「あっ………」


 突然のことに驚き、フィネスは身を固くする。

 黒い恐怖が、心を一気に占拠していた。


 しかしその直後、フィネスの身体にどこか懐かしい温かさが流れ込んできた。

 そう、それは母に抱かれたような温かさによく似ていたのである。


「………」


 急に心が安堵に満ちて、止めていた息を大きく吐いた。

 フィネスが再び目を閉じる。


 そして、フィネスは気づく。


 ――屍喰死体グール化しておいて、これ以上何を恐れるというのだ。


 自分はこれから間もなくして、最悪の形で死ぬ。


 ならば今においては、なにも恐れることはない。

 もはや、死すらも歓迎していい。


(いや、むしろ)


 むしろこんな温かい中で死ねるなら、どうか死なせてほしい。


「………」


 フィネスの頬を、再び涙がすっ、と伝い落ちた。


 フィネスは、この時気づかなかった。

 全身が白い光で包まれていたことに。


 もし吟遊詩人がその光景を目にしたら、間違いなくフィネスは天使の歌の主人公となったことであろう。


 やがて、ゆっくりと目を開けたフィネスは、目の前のフードの男を眺める。

 男は何も変わらず、背を向けたまま座っている。


「あの……今、何を……」


 フィネスがその背に問おうとした時。


「――掴まれフィネス!」

 

 男がフィネスの右手を掴み、自分の背中へと引き寄せた。

 

「きゃっ!?」

 

 温かい背に、フィネスの頬が重なる。


 はっとする間もなく、黒窮奇がばさり、と翼を大きくはためかせると、ぐん、と滑降を始めた。

 ふわり、と内臓が浮くような感じがして、目を閉じ、とっさに男にしがみつく。

 

「――ガァァァァ!」

 

 次の瞬間、足元の魔物が恐ろしい咆哮を上げていた。

 

「――フィネス!」

 

 しがみついている先の男が再び叫んだ。


「目を開けろ、フィネス!」


 フィネスが恐る恐る、目を開けた。

 そして、男は言ったのだ。


「――アントワネットで、あれを斬れ!」

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る