第116話 癒やしてくれた人は

 

「――アントワネットで、あれを斬れ!」

 

「――えっ!?」


 フィネスは驚いて辺りを見回す。

 そして、目を見開いた。


 なにがどうなったのかわからなかったが、男はいつの間にか現れた黒い幽体と戦っていた。

 その幽体はどうやら拘束を受けているらしく、宙で一点に固定されたように身動きができなくなっていた。

 

 そう認識している間に、黒窮奇は黒い幽体の真横を猛烈な速度で駆け抜けた。

 

 駆け抜けてから、今自分が斬るべきだったのだ、と気づいた。

 

「――ご、ごめんなさい!」

 

「大丈夫だ、もう一度行く」

 

 黒窮奇は大きく羽ばたき、宙を反転して再び固定された黒い幽体に向かっていく。

 男は手綱を絡ませた右手を前に突き出し、左手は胸の前で合掌しているようだった。


 その左手で、男はどうやらあの魔物を束縛しているらしかった。

 フィネスとて知らぬ、未知の術である。


「洛花にもう一度ヤツの横を駆け抜けさせるから、その間に斬ってくれ」

 

 男は穏やかな声で、もう一度説明してくれた。


「わ、わかりました!」

 

 フィネスが、聖剣アントワネットをすらりと抜き放つ。

 

「洛花、もう一度だ」


「――承知」

 

 意を汲んだ黒窮奇が、猛烈な速さで幽体へと向かう。

 

(なんて速さ……!)

 

 今さらだったが、それはとてつもない速度だった。

 

 グリフォンいちの速度で飛翔すると言われる累武るいぶに騎乗したことがある上、ペガサスの急加速【ダッシュ】も何度も経験して知っている。

 

 だが、この黒窮奇はそれとて手ぬるく感じさせてしまうほどの速度を出していたのである。


(――次は斬る)

 

 フィネスはいっさい瞬きをせず、近づいてくる幽体の距離を正確に掴み続ける。

 

「やぁぁぁ――!」


  そして駆け抜けざまに幽体を袈裟に斬り裂いた。

 幽体は、見事にふたつに分かれる。


「……グオアァァァ……!」


 背後から聞こえてくる、絶望するような叫び。

 それは、どこかで聞いた声だった。




 ◇◇◇




「やったな」


 前に座っている男が親指をぐっと立てた。

 フィネスは自分が息をしていなかったことに気づき、はぁ、と息を吐く。


「い、今のは……」


「魔王の残体だ。同じ声だったろ?」


「ま、魔王の……?」


 フィネスが息を呑む。


「おかげで完全討伐になったはずだ。当面出てこれないだろう」


「………」


「フィネス?」


「よ、よかったです……」


 フィネスはそれだけを言うのがやっとだった。

 あれだけ叩きのめされておきながらも、まだ生きようとしていた魔王のしぶとさに寒気がしたのだ。


 そして、同時になるほどと納得もしていた。

 勇者の男は、逃げていく魔王の幽体を地上から見つけ、追いかけていたのかもしれない。


「もうわかったと思うが、あんたを空に誘い出したのは、こういった理由だった」


「……はい」


 男はフィネスの頭の中を読んだように説明した。

 フィネスはただ頷く。


 今の顔を、誰にも見られなくて良かったと内心思っていた。

 失望を隠しきれたものではなかったのだ。


 フィネスの胸は裂かれるような痛みを発していた。

 ここにきて、男は最初から治癒者になど会わせる気がなかったことを、自分自身で認めたのである。


 あの幽体の魔物を倒すために治癒と嘘をつき、自分の聖剣をあてにした。

 最初からそうと言わなかったのは、皆に心配をかけないようにするためだったのだろう。


(いや、こうなることくらい……)


 フィネスは息を吐き、剣を仕舞うと、まだ痛みを訴える自分の胸元を右手で押さえた。


 わかってはいたのだ。

 どう考えても、屍喰死体グール状態を治癒できるはずがないことは。


 生きたいという強固な願いが、その現実を見ないようにさせていただけ。


(いい……このまま果てようとも)


 小刻みに震え始めた唇を噛みしめる。


 魔王の討伐に関わり、世の役に立った。

 聖剣使いとしてこれ以上の栄誉はない。


 大きく息を吐き、もはやこのことでは二度と泣くまい、と心に決めた。


「じゃあ、この森だと思うから降りる」


 そんな決意をしていると、ふいに男が真下のなんの変哲もない森を指差した。


「……この森?」


 フィネスは首を傾げる。

 話がどう繋がったのか、さっぱりである。


「ああ。たぶんここだ」


 そう言うと、男は黒窮奇に命じ、特に警戒することもなく森の中の開けた地に降りてしまった。




 ◇◇◇




 ふわり、と緑の濃厚な香りがした。

 上空で冷えた体を、森の暖かい空気が包んでくれている。


「安心していい。ここは平和な森だ」


 窮奇から先に降りた男が、手を差し伸べながら言う。


「え……平和……なんですか?」


「そう。蛾尾がびの間では有名でね。今日は誰もいないかな」


 言いながらフィネスを下ろすと、男は取り出した紫色の木材を地面に置いて屈み込み、火をつけた。


 この『煙木えんぼく』は魔法効果が与えられており、火をつけることで魔法の煙を発し、全くにおいのない、しかしもうもうとした白煙を立ち上らせる効果がある。


 安価であり、狼煙のろしとして軍などで頻用されているものである。


 今回は後から来るフユナとカルディエのための目印と知った。


「……すごい、ミザリィなのに、本当に魔物がいないのですね」


 あたりを見回したフィネスは、目を疑っていた。

 小鳥や蝶が優雅に飛んでいる、めずらしい場所だったのである。


 魔物が棲んでいるならば、こういった弱い生物は排除されていることが多く、生息は安全域の目印ともなる。


「まさかこんな安らぐ場所がこの国に……あっ」


 そこでフィネスはやっと、合点がいった。

「ここ」の指す意味がわかったのだ。


(………)


 じわり、と胸が温かくなっていた。

 アラービスは自分の死地に、こんな素敵な場所を選んでくれたのだ。


 ここなら、気持ちを整理する時間もゆっくりとることができる。

 フィネスは自然と浮かんだ微笑を湛えると、黒窮奇に謎の餌をやっている勇者に向かって、頭を下げた。


「……ありがとうございます。アラービス様」


 男は黒窮奇を仕舞うと、ちょっと首を傾げたような仕草を見せて、フィネスと向き合った。


 フィネスは顔を背けることなく、男をじっと見る。

 その顔はフードに隠れ、男も下向き加減で立っているせいで、顎の部分しか見えていない。


 アラービスを見直さなければならない。

 顔にありありと嫌悪が表れていただろう自分に、ここまでいろいろしてくれたのだ。


 まさか、死に場所まで探してくれるとは。


「今までの無礼をお詫びします」


「……無礼?」


 男が問い返す。


「あの……あの時のアレです……」


 フィネスはたまらずに俯いた。

 自分で言っていて、わかるはずがないと思った。


「……もしかして、『婚姻の儀』のあれか?」


 だが、男はあっさりそうと理解してくれた。


「……そ、そうです……心からお詫びを」


「あれ、感謝しているぜ」


 男は肩をすくめ、フードの奥で笑ってみせた。


「……えっ……?」


 フィネスがきょとん、とする。

 意味がわからなかった。


「お、いたな」


 その時、男がフィネスの肩越しに森の奥を指差した。


「………えっ?」


 フィネスが、黒髪を揺らして後ろを振り向く。

 男が指差したものが、目に入った。


 緑の木々の間に、なにか白い姿が垣間見えていたのである。


「……馬……? いえ、あれは……」


 フィネスが目を疑う。


 背中に翼の生えた、白馬。

 そう、ペガサスだった。


 しかもその首には、ターコイドブルーの宝石がついたネックレス。


「――うそ、オリビア!?」


 フィネスは驚きを隠せない。


 オリビアはフィネスを見つけると、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。


「えっ……」


 そして頭をなでてくれと言わんばかりに、フィネスの腕に、自分の頭を絡ませる。

 甘えん坊のオリビアの、いつもの甘え具合だった。


「ど、どうして……去っていったオリビアが」


 オリビアに絡まれながら、フィネスはわけがわからず、男を振り返った。


「よかったな」


 その様子を見て、男は頷いてみせる。


 刹那。


「フィネスー!」


「フィネス様、やっと追いつきましたわ」


 ばさばさ、と翼の音を立てて、騎獣に乗ったフユナとカルディエが『煙木』のそばに舞い降りてきた。


「フィネ……」


「フィネス様……え?」


 騎獣を仕舞い、駆け寄ってきた二人が、目を見開く。

 そして、みるみるうちに、二人の顔に歓喜が満ちていく。


「オリビア……ということは治ったんですわね!」


「なんといつの間に!?」


 フユナとカルディエがフィネスの手を取り、よかった、よかったぁ、と感極まった様子で涙ぐんだ。


「え……治った?」


 フィネスはひとり、呆然と立ち尽くしている。

 そして、満面の笑顔の二人の顔を、ひたすら交互に眺め続ける。


「だって、聖獣のオリビアが懐いていますのが何よりの証拠ですわ」


 カルディエがオリビアの手綱をフィネスに握らせながら、笑みを浮かべる顔に流れる涙を拭う。


「……で……でもおかしいです。私、まだ誰にもお会いしてません」


 フィネスはひとり頭が混乱していた。

 周囲に視線をさまよわせる。


 そんなフィネスの横顔を見て、男はフードの奥で満足そうに微笑むと、告げた。


「――じゃあ、お別れだ」


 男は帰還水晶を取り出し、その右手に輝かせた。


「………」


 フィネスが、はっとした。

 すぐさま、男を振り返る。


 この男は言った。

『ひとり知っている』と。


 そこでフィネスは、予想もしなかった可能性に思い至る。


「……まさか」


 ――さっきの、男に触れられた温かさ。


 ……まさか、あれが……治癒だった?

 屍喰死体グールを治癒する、魔法?


 でも、どうしてアラービス様が神聖魔法ホーリープレイを?

 司祭でもないのに、そんなことできるはずが……。


 その時。

 静かだった森を抜ける風が、駆け足で二人の間を駆け抜けた。


「……えっ……」


 フィネスが目を見開いた。


 風でちらりとめくれ上がった、フードの奥の顔。


 同時に下から帰還水晶で照らされていたせいで、フィネスの目は偶然にも捉えた。


 目元はまだ隠されていたが、笑みを浮かべた顔の大半を。


「……アラービス様……じゃない……?」


 時を同じくして、フィネスの脳裏で、その笑顔が記憶と重なっていく。


「……う、うそ……」


 忘れもしない。


 忘れるはずもない。


 その笑顔は。

 自分が心から探し求めていた、あの笑顔だったのである。


「あ、あなたは――!?」


 フィネスの目が、一気に涙であふれた。


 ――あれ、感謝しているぜ。


 そうだ。

 この方はそう言った。


 あの「婚姻の儀」で、自分に感謝してくれる人がいるとすれば……それは……。


「――さ、サクヤ様!?」


 でも、じゃあ、あのサクヤ様が私を治してくれたことに……?


 いや、それだけじゃない。

 実は魔王すらも余裕で倒してしまうほどの強者だったことになる。


 あのサクヤ様が……?


 うそ、でもそんな……そんなこと――!?


 そう考えている間にも、男の手の水晶は帰還の光を強めていく。


「――だ、だめ! 行かないで――!」


 確信したフィネスが走り出す。


 絶対に間違いない、サクヤ様だ。


 ――やっと逢えた!

 夢でしか逢えなかったあの方に!


 帰還水晶が起動するまでの僅かな時間しか、残されていない。

 それでもフィネスは男へと駆けた。


 お話したいことは山ほどある。

 いや、この治癒の御礼もしていない。


 なのに、またお別れなんて嫌――!


「サクヤ様――!」


 フィネスが男に手を伸ばす。

 感情が一気に高ぶったせいで、その指先は震えていた。


「私、あなたのこと――!」


 フィネスは言うのも待てずに、男の胸に飛び込んだ。


「……えっ?」


 フィネスの行動の意味がわからない男が、甘い香りのするフィネスを受け止めながら、間の抜けた声を発した。


 フィネスの黒髪が、男の頬をさらりと撫でる。

 フィネスは男の首に素早く手を回し、男の顔の目の前に、自分の顔を置く。


 鼻先がそっと触れ合う。


「サクヤ様……」


 言葉を続ける時間も、顔を確認する時間すらも、フィネスは惜しかった。


 だからフィネスは、そのまま唇を重ねた。


 柔らかい感触を感じたのは、いったいどれほどの時間だっただろうか。


「――!?」


 男は半ば膝から崩れ落ちながら転送され、消え去った。


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