第112話 討伐


「――煉獄の巫女アシュタルテだと!?」


 魔王の顔が蒼白になる。


 次の瞬間、魔王の脳裏にフラッシュバックするもの。


 ――片合掌をした者が、自分に為したこと。


 魔王がハッとした。


「――貴様、まさか!」


 魔王の驚声の一方で、男の口元に小さな笑みが浮かぶ。

 時を同じくして、胸の中央に隠された石板に、清楚な女の顔が浮かび上がった。


 その気配を感じ取り、宙にいる叶える大悪魔シトリーの虫も殺さぬような顔が、急に鋭く研ぎ澄まされた。


「……な、なにか起きている?」


 フユナが隣に立つ二人に訊ねた。


「なにか、おかしいですわ」


 カルディエの言葉に、フィネスが険しい表情で頷く。


「……召喚した側の魔王が、ひどく取り乱している?」


 だがフィネスたちには、それ以上のことはわからなかった。


叶える大悪魔シトリー、あれが来る前にこ奴を殺せ!」


 長年、かの【怨嗟の魔物】を使役してきた魔王だからこそ、理解できていた。


 あれが敵に回った状況が、いかほどのものになるかを。


 命じられた叶える大悪魔シトリーが、地上に立っている男を見下ろすと、腕にかけていたバッグを持ち、両手でその蝦蟇口がまぐちを開けた。


 底の見えない真っ黒な空間が、開いた口から覗かせる。


「……あれは!」


 地上から見上げる者たちが、指をさした。

 少し間があって、そこから細長い赤の生地が数本、するすると飛び出してきたのである。


 先端がVの字になった赤生地はたつのごとく宙をくるくるとうねりながら進み、やがて向き合った魔王と男の方へと降ってくる。


「あれが【悪魔解明論】にある、叶える大悪魔シトリーの龍!」


 レジーナが悲鳴にもとれるような声で言った。


「――あぶない!」


「アラービス様、突き刺さりますわ!」


「こっちの結界へ来い!」


 結界の中から、次々と皆が叫ぶ。

 しかし、アラービスと呼ばれた男は片合掌したまま、微動だにしない。


 ビシュゥゥゥ、と鋭い音を立てて、四本の赤い生地が、急降下してくる。


 そして、次々と容赦なく男を襲った。

 しかし。


「――ごばっ!?」


 血を吐いて倒れた者。


「……え……?」


 見ていた者たちが、唖然として立ち尽くした。

 赤い龍が役目を終えて去っていく。


「……な、なぜ……?」


 ヘルデンも目を見開き、そう呟く。

 そう、貫かれたはずの男はなぜか平然とし、攻撃を指示した魔王が倒れ伏しているのである。


 最初に言葉らしい言葉を発したのは、ゲ=リだった。

 

「すげぇ、ほんとすげぇよアラービス様! 叶える大悪魔シトリーの攻撃を跳ね返したんだ!」

 

 結界の中で歓喜し、わははと笑い出した。


「跳ね返した……?」


「勇者の秘められた技か」


 起きた現実を正確に認識できた者はいなかった。


 それゆえ男が小声の詠唱とともに灰色の石板をかざし、叶える大悪魔シトリーが空から消え去ったのを見ても、大半は魔王がさらなる追撃を恐れて自ら仕舞ったのだと理解していた。


「お、おのれぇぇ……!」


 血を吐き、倒れ込んだ魔王が呻く。


「……この我が、騙されていただと……!」


 地に這いつくばった魔王の顔が、怒りに歪んでいく。

 その怒りの矛先たる向き合った男は、静かに魔王に近づいていく。


「一度ならず二度までも……! サク――!」


 ごぼっと血を吐きながら、口惜しそうに魔王が吼えた時、その体に剣が突き立てられた。




 ◇◇◇




「あれほどに苦戦した魔王を、たったひとりで……」


 剣を鞘に仕舞いながら、フユナが独り言のように呟く。

 勇者と名乗った男が魔王を叩き伏せたところで、フユナはその強さを改めて知った。


「いや……不思議でもないのか」


 魔と対峙する力を神々より与えられた勇者アラービスならば、魔王を倒せても驚くことはない。

 しかも魔王は転生したばかりで完全に力を取り戻していなかったのである。


「………」


 不思議といえば、眼前の出来事よりもむしろ、あの件である。

 なぜアラービスがあの日、リラシスの第三国防学園に来て自分を前に別名を名乗るなどという真似をしたのか。


 それだけが、どうにも謎なのである。

 いったいなにがどうなったら、アラービスがあんなことをするのだろう。


「………うんざりだ」


 考えるのに疲れ、フユナは冷たい鎧の上から、胸元に手を当てた。


 強いのは認める。

 ラモチャー様に違わぬ実力。


 だが百年の恋とて、覚めるのはまさに一瞬。


【第三相浄化】の只中に逃げ去って皆を危険に晒したことを、フユナは到底許すことなどできなかった。


 それでも、今はヴェネットの件の礼くらいせねば、と思える程度には、頭がまともに働くようになっていた。


「ラモ、いや、アラービス……」


 フユナが誰よりも早く、勇者の男に駆け寄ろうとする。


「――フィネス」


 だから、勇者の男が一行を振り返って自分ではない名を呼んだ時、フユナの胸に小さな衝撃が走った。


「…………」


 フユナの息が詰まる。


 相手はあの唯我独尊男なのに、ヤキモチを焼いている自分が可哀想でならない。


 うつむいた。

 スカートの裾を両手できゅっ、と握る。


(もう忘れよう……)


 フユナはこの時、心に決めた。

 そして、フィネスを振り返る。


「フィネス、アラービスが呼んでるぞ」


 フユナに言われて、フィネスがはっとした。


「こっちへ」


 フィネスだけがもう一度、勇者の男に呼ばれる。


「は、はい」


 不安げな表情を浮かべたまま、フィネスが言われた通りに男に近づく。

 これだけの脅威に曝された後だったために、フィネス自身も気づかなかった。


 一度もフィネスの名前を呼んだことのないアラービスが、今、そうしていることに。


「こいつのとどめを頼みたい」


 男は魔王を足で押さえながら、静かに言う。


 フィネスは驚いて足元のそれに目を向ける。

 確かに魔王はあれほどの致命傷を受けながら、再生を試みようとしていた。


「君の剣の方がいい気がする」


「……わ、わかりました」


 フィネスは頷くのが少々遅れた。

 さっきと異なるアラービスの話し方に、少なからず違和感を感じたのである。


 気のせいか、声も違う気がする。


(………)


 いや、今はそれどころではない。


 フィネスは余計な考えを振り切り、聖剣アントワネットを逆手に持つと、倒れたままの魔王に突き立てた。


 魔王がぐったりと動かなくなる。

 そのまま、魔王が再生を中断した。


 しかし男はだめか、と小さく呟いていた。


「……だめ?」


「いや、ありがとう」


 男はフィネスを振り返り、フードの奥から礼を言った。


「こ、こちらこそ戻ってきて頂き、ありがとうございました……」


 フィネスは社交辞令を返しながら、今度ははっきりと動揺していた。

 あのアラービスが感謝の言葉を発するなど、想像を絶していたのである。


 フィネスに謝意を示され、勇者の男はその意味が理解できなかったのか、少し間を置き、そっと背を向けた。


(………?)


 フィネスは瞬きをして、その背中を食い入るように見つめる。


 なんとなく別人に見えたのである。

 少し背も低く見える。


(……いえ、あり得ないわ。他人だなんて)


 フィネスは小さくうつむいた。


 プレートブーツを脱げば、誰でも背は低くなる。

 それに、この世界に勇者は一人しかいない。


(一人しかいない……)


 百歩譲って勇者ではなく、勇者の真似事をした一般人だとしても、そんな人が魔王を倒せるはずがない。


 勇者はそのために、神から桁違いの祝福を受けているのだから。


「ひとつ確認させてくれ。俺が来る前に、誰か魔物の攻撃をもらったか?」


 そんなことを考えていると、男が振り返り、真剣な声音で問いかけてきた。


「はい……ええと」


 高圧的な態度と物言いに慣れてしまっていたフィネスは、まともな会話にまた戸惑いながらも、魔王の痺れ上がった攻撃について詳細に説明した。


 範囲外にいたゲ=リやピョコを除いて、あれでほとんどが動けなくなってしまったのである。


「なるほど」


 勇者の男は話を聞き終えた後、結界の中にいる者たちに目を向け、もう一度フィネスを見た。


「俺の直感だが」


「はい」


 そして、衝撃的な言葉を続けたのである。


屍喰死体グール化している者がいるようだ」




 ◇◇◇




屍喰死体グール化している者がいるようだ」


「――えっ!?」


 フィネスの心臓が大きく跳び跳ねた。

 予想もしなかった言葉に、息ができなくなる。


「ど、どうして……」


「なにか心当たりは」


「………あ」


 男にそう言われて、フィネスははっとする。


 ……そうだ。


 言われてみれば、魔王と名乗った魔物は屍喰死体グールから変化していた。

 そう考えると屍喰死体グール化の能力を持っていても、なんら……。


「そんな……」


 言いながら、頭が真っ白になっていく。

 あの攻撃は先ほど、自分も身に受けてしまっている。


 くちびるが小刻みに震えてしまうほどに動揺してしまったフィネスは、気づかなかった。

 もし目の前の男がアラ―ビスなら、「なにか心当たりは」などと訊ねるはずがないことに。


「落ち着いて聞くんだ、フィネス」


 男がそれほど離れていない距離をさらに詰め、フィネスの二の腕を両手でそっと支える。


「今のことをレジーナに伝えて診てもらってくれ。俺は屍喰死体グール化の診断はできない」


「………」


 触れられていることはわかっていたフィネスだったが、今は全く拒む余裕がなかった。


「頼むフィネス。君の言うことなら皆が聞くはずだ」


 勇者の男は、気遣った口調でもう一度言った。


「は、はい……」


 フィネスは青ざめた顔のまま男の元を離れ、ふらふらと仲間たちの元へ戻り始める。


(落ち着いて……)


 ともかく話す私が落ち着かなければ。


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