第63話 連合学園祭18

 


「久しぶりだな王女様。あん時は気づかなくて済まなかった」


「……え……?」


 フィネスが影を落とすほどの長いまつ毛を揺らしながら、瞬きを繰り返す。

 そして、その目がふいに輝いた。


「……まさか、あなたが……あなたが私のお会いした……?」


 フィネスの目が、じわりと潤んだ。

 そのほっそりとした顎が、小さく震え始める。


「いろいろあって若返っちまってさ。あぁ悪いが、これ以上話してもあんたはすぐに忘れる。また機会があったら話そうな」


 サクヤはフィネスに近づく。

 カルディエの時と同じように、その木刀の【粉砕】を考えてのことだったのかもしれない。


 しかし、その矢先。

 フィネスがなんの前触れもなく、木刀をカラン、と足元に落とした。


「……え?」


 サクヤが足を止める。

 サクヤの頭上に、疑問符が浮かんだ。


 フィネスは俯き、小さく肩を震わせ始める。


「ふ、フィネス様……なにを」


 座り込んでいるカルディエも目を丸くする。


「……ヤ様……」


 フィネスが俯いたまま、小さく呟いた。


「む?」


「――サクヤ様ぁぁ!」


 フィネスが少年に向かって駆ける。


「!?」


 どんっ。


 誰一人として予想しなかったことが起きていた。

 いや、カルディエがちらりと予想できただろうか。


 大観衆の前も『バトル・アトランダム』もなんのその、なんとフィネスはそのまま頭一つ小さい少年の胸に思いっきり飛び込んだのである。


「――おっと」


 驚いたサクヤはとっさに木刀を捨て、フィネスを受け止める。

 よろけなかったのは、さすがというべきか。


 フィネスの息が、サクヤの首元にかかる。

 甘い香りが、サクヤの鼻をくすぐっていた。


「……どうした? 戦いの最中に」


 サクヤが本人にしか聞こえないように、小声で訊ねる。


「ずっと、ずっとお慕いしておりました……」


 フィネスは膝立ちになって、飛び込んだサクヤの胸元をうっとりと味わっている。


「なに……?」


 会話しようと思ったのか、サクヤがフィネスの両肩に手を添え、問題のない距離になろうとする。


「嫌です」


 しかしフィネスは強硬に、サクヤの胸元にしがみついた。


「フィネス?」


「お願いします。どうかこのまま」


 フィネスが見上げ、サクヤの耳元で囁くと、膝立ちのままくるりと回ってサクヤに背を預ける格好になる。


「お、おい」


「もう私を二度と離さないでいてくださいませ」


 そしてサクヤの両手を取って、自分の胸元でネックレスのように組ませた。


 それを見たカルディエが「あぁ、お姫様がお姫様の世界に入ってますわ……」と額を手のひらで押さえる。


「……王女?」


「サクヤ様。どうか、どうかこのままで」


 フィネスが首だけを向けて、サクヤの頬に甘い息をかけるようにしながら、懇願する。


「うそぉ何してるのぉぉ!?」


「王女が、サクヤに!?」


「さ、サクヤン……いや……!」


 唐突なフィネスからの絡みに、闘技場が騒然となった。


 浮いた話が好きでただもてはやしている者もいれば、サクヤに向かってナイフを投げようとしている、怒り狂ったフィネスファンクラブの生徒たちも少なくない。


 だが、その時だった。


「……ぁぁぁ……」


 どこかから発せられる、苦悶したようなうめき声。

 最初、聞こえないほどだったそれは、だんだんと大きくなる。


「……え?」


 背を預けたばかりのフィネスが振り返る。


 フィネスの黒髪がサクヤの頬を撫でるとともに、二人の唇が、わずか数ミリ先ですれ違った。


「この声……サクヤ様?」


「いや俺じゃない」


 真っ先に気づいたのは、近くにいたこの二人だった。

 そう、呻き声は傍で上がっている。


「……ああアァァ……!」


 それは耳に刺さるほどに、どんどん大きくなってくる。


 闘技場がざわつき始めた。

 皆の耳にも、はっきりと届き始めたのだ。


「………」


 声の元を探していたサクヤとフィネスの視線が、間もなくして同じ場所に定まる。

 それはなんと、サクヤの胸元。


 声はそこから発せられている。


「……待て、これは」


 サクヤにも予想だにしなかったことが起きていた。


「なにか変だ。離れた方がいい」


「い、嫌です!」


 フィネスは、慌てた様子でサクヤの首に腕を回して抱きついた。


「もう二度と離しません! このまま持って帰ります!」


 当然だろう。

 フィネスにとってはずっと探していた、やっと見つけた本物のサクヤなのだから。


 だが。


 ――キアァァァァ――!


 突然発せられた、岩すらも切り裂いてしまうような絶叫。


「きゃっ」


 とっさに耳を塞いだフィネスだったが、声とともに発せられた衝撃で突き飛ばされ、後ろ向きに倒れ込んだ。


 闘技場内が静まり返る。


「……どういうことだ」


 サクヤは今、平然としているのが自分一人であることに気づいた。


 さすがに即死はしていなかったものの、闘技場内では審判とフィネスたちが、待機スペースでは参加者と先生たちが、観客席では観客が這いつくばり、心を割られて息も絶え絶えになっていた。


「……まさか煉獄の巫女アシュタルテなのか?」


 サクヤが胸元に視線を落とし、訊ねる。

 そう、それは紛れもなく煉獄の巫女アシュタルテの声に違いなかった。


「どうしてだ」


 サクヤはどうにも腑に落ちなかった。


 煉獄の巫女アシュタルテはサクヤの支配下にある。

 勝手な行動はできないはずである。


 さらに言えば、かつてサクヤは幾度となく煉獄の巫女アシュタルテに呼びかけたことがあるが、一度も応じたことはなかった。


 なぜ今になって声を発しているのか、全く理解できないのである。


「Τι γίνεται πριγκίπισσα」


「………」


 サクヤは悪魔たちの言語で、胸元に現れている女に問いかける。


 しかしこれだけ叫んでいながら、煉獄の巫女アシュタルテは呻くのみで返事はなかった。


「うぅ……」


 声にやられ、フィネスが首を絞められたかのように、真っ青になっている。


「済まない、フィネス――」


 サクヤがフィネスに近寄ろうと一歩足を進める。


「―――!」


 しかし、再びあの絶叫が響きわたった。

 カルディエやフユナ、その他周りの審判たちが耐えられぬとばかりに顔を歪め、耳をふさぐ。


 目の前にいたフィネスは再びその声にやられ、苦悶する。

 その拍子にフィネスのスカートのポケットから、丁寧に折り畳まれた紙がぽろりと落ちた。


「……あっ」


 大事なものだったのであろう。

 蒼い顔になりながらも、フィネスが気づいて拾おうとする。


 しかしその手が、はたと止まる。

 なんとその紙が、ふわり、ふわりと宙に舞い上がっていくのだ。


「……え……?」


 それは舞い上がりながら、ゆっくりとサクヤの方へと向かっていく。


 ふわり。


「む」


 サクヤが目を細める。


 ふわり、ふわり。


 そうやって、蝶のように舞った紙切れが、ちょうどサクヤの目の前にやってきた瞬間。


 ――ビリリッ!


 これ見よがしに、紙が音を立てた。

 なんと、見る影もないほどに八つ裂きにされたのだ。


「………」


 雪のように舞い散る紙の残骸に、フィネスもサクヤも、言葉を失っていた。




 ◇◇◇




煉獄の巫女アシュタルテ……いったいどうしたんだ」


 今の紙がなんの意味があったのかは不明だが、どうやら煉獄の巫女アシュタルテは俺がフィネスに近づくのを嫌うらしい。


 なにかを警戒してのことだろうか。


「Τι γίνεται πριγκίπισσα」


「………」


 問いかけてみるものの、やはり煉獄の巫女アシュタルテは返事をしない。


(だめだ、わからん)


 新月の夜を待って、博識なる呪殺者グラシャ・ラボラスに訊ねてみるしかないだろう。


 そう決めると、俺は足を止め、これ以上フィネスに近づくのを諦めた。


「おい、終わらせろ」


 そして近くでうずくまった審判にカウントだけを依頼する。

 フィネスは膝がワナワナと震えたままで、立つことが出来ずにいるからだ。


「おい、カウントしろ。『バトル・アトランダム』の最中だったろう」


 再三依頼しても、カウントが始まらない。

 しかたなく俺がカウントを始める。


「……9、10! これでいいな?」


 審判役の教師が顎をがくがく言わせながら頷いた。

 一応、勝者までを告げさせる。


 記憶が改竄されるのは俺に関連した内容だけのはずだ。

 この発言は誰かが覚えていてくれるだろう。


「しょ、しょ、しょしょ勝者、第三……!」


 なんとも歯切れが悪いが、第三学園の勝利が決まった瞬間であった。

 しかし、誰もが心を割られ、動けずにいる。


 もちろん歓声などはなく、あたりは静まり返ったままで、ありえない終わり方になっていた。


「さっきの、きっと煉獄の巫女アシュタルテに操られたんだよな……いろいろ済まなかったな。今度きちんと謝るよ」


 俺は煉獄の巫女アシュタルテを仕舞うと、フィネスの手をそっと握った。


「………」


 彼女の言葉が耳に蘇る。


 ――ずっと、ずっとお慕いしておりました……。


 もし本心からの言葉なら、ここは真摯に応じなければならない。

 フィネスは想いを精一杯、打ち明けてくれたのだから。


「……いや」


 俺は頭を振る。

 王女が一度会っただけの俺に抱きついてくるとか、普通に考えたらあり得ない話だ。


 そんなおとぎ話、現実では見たことも聞いたこともない。

 きっと煉獄の巫女アシュタルテが魔法で操作したのだろう。


「…………」


 フィネスたちは変換が始まったのか、焦点が合わなくなり、ぼんやりと俺を眺めている。


 俺は皆が回復するまでのややしばらく、立ったまま待ち続けた。



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