第37話 ひらめく双蝶
断じてありえない。
だって。
あいつが。
あんなに下品でバカな奴が……。
「なっ!? ぎゃっ」
その時、ついに男の木刀がヴェネットの体を捉えた。
ヴェネットの三つ編みが宙で揺れ、その体が「く」の字に曲がる。
さらにそこへ三連撃。
右の腰骨、木刀が泳いだところへ左肩、右膝。
「はぁぐっ」
痛みに耐えかねたヴェネットが、とうとう片膝をついた。
ヴェネットの負けである。
一般の手合では、立ち姿勢を維持できなくなった時点で、その者の負けとするのが暗黙のルールであった。
「こ、こんなことが……!」
フユナの両膝がわなわなと振るえていた。
ヴェネットが負けるのを見るのは、もちろん初めてではない。
彼女とて、第一の継承者たるフィネスには全く勝てないのだ。
(しかし)
二の腕の鳥肌が、一向におさまらない。
あのフィネスでも、ここまで易々とヴェネットを負かすことができるだろうか。
(……いや、違う)
そこまで考えて、フユナは気づいた。
今回においては違うのだ。
負けたのは、一般人相手でヴェネットがその力を抑えているからだ、とフユナは思い出す。
先ほどフユナが用いた【蝶舞斬り】のような『ユラル亜流剣術』の奥義は、大会などの特別な場合を除き、一般人との手合いにおいて用いることは禁じられている。
その理由はふたつある。
ひとつは奥義を秘匿し、むやみに人目にさらさないためであり、もうひとつは『ユラル亜流剣術』が完全な「殺戮の剣」だからである。
(興奮していた)
よく考えれば、そう簡単に『ユラル亜流剣術』の継承者が屈するはずがないのだ。
「――ヴェネット様!」
後ろにいた黒服の巨漢の一人が駆け寄り、何かを詠唱し始めた。
「おい、まだ『負けの宣言』をしていないだろう!」
フユナは声を荒げた。
それが
手合では、一方が負けを認めて宣言し、勝敗が決するまでは
だが黒服は回復の手を止めない。
相対していたフードの男も、ピクリとも動かず、全く気にした様子はないようだ。
ヴェネットが完全に回復して立ち上がる。
「ヴェネット、もう勝負はついたはずだ」
「お黙りなさい」
「負けは負けだぞ」
「――やかましい! 今のはわたしの実力の半分も出していない!」
ヴェネットが顔を怒りでひきつらせ、裏返った声で怒鳴った。
「お前……いったい何を考えている」
「……これはすでに『ユラル亜流剣術』への挑戦。継承者として、汚名を着せられたままでは終われない」
そしてヴェネットは厳しい視線を目の前の謎の男に向け、ヒステリックに叫んだ。
「言え! 貴様のその剣術はいったい何だ!」
「だから我流」
「ふざけんな! 我流がそんなに強いはずがない! いったいどうやってそこまでの高みに至った!?」
脇で聞いていたフユナは、無意識にその会話に耳を澄ませていた。
彼女も同じことを訊ねたいと、心底思っていた。
いったい、いったいどんな類の剣が、あれほどまでにヴェネットを上回ることができるのか。
「……くっ」
ふいに先ほどまでの悔しさが再燃し、フユナの顎がガクガクと震え始めた。
自分からみると、彼らの強さは異次元すぎた。
いずれにしろ、自分のような持たざる者の『努力の剣』などでは、決して彼らの世界に足を踏み入れることなど――。
「答えろ! どうやって強くなった!?」
「教えて欲しいと?」
男は含み笑いだけを残した。
たったそれだけのことで、ヴェネットの顔が怒りに歪む。
当然であった。
エリート中のエリートたるヴェネットが、つい口走ってしまったとはいえ、他人に強さの秘訣を乞うたのである。
若そうな外見にかかわらず、男は老獪なやり方でそれを咎めたのだ。
「……おのれ……!」
ヴェネットが、ぎりっと奥の歯を鳴らした。
「我ら『ユラル亜流剣術』の継承者が全力でかかれば、貴様など足元にも及ばぬ! 身をもって知れ!」
ヴェネットがなんの前触れもなく、真剣をすらりと抜いた。
「ヴェ……ヴェネット! なにを馬鹿なことを!」
フユナがぎょっとして、立ち上がろうとする。
だが間に合わない。
男はと見ると、彼はただ左手をゆらりと持ち上げ、片合掌しただけだった。
「絶対に土下座させてやる、このゴミが――!」
ヴェネットがひらめく
男へと差し込む陽光が陰った。
フユナが確信する。
――この予備動作は紛れもない、【蝶舞斬り】。
【蝶舞斬り】は三つの方向から敵に一瞬で連擊を浴びせる『ユラル亜流剣術』の奥義である。
真剣での殺傷力は、この場の誰よりもフユナがわかっていた。
木刀などたやすく断ち切られ、受け切ることなどできるはずがない。
しかし男は、全く退く様子を見せない。
「だめだ! 死ぬぞ! 早く逃げ――!」
「――フユナ!」
その時、男が他の声をかき消すほどの声量で怒鳴った。
その圧倒的な迫力に気圧されたフユナは、言葉を失う。
男はフユナに背を向けたまま、眼前で木刀を真一文字に構える。
そして、声高に叫んだのだ。
「――しかと見とけ! これが『努力の剣』の強さだ!」
「―――!」
フユナがはっと息を呑んだ。
「私に詫びろぉぉぉ――【蝶舞斬り】!」
ヴェネットが宙で三連撃に入る。
男はそのヴェネットへと向けて跳躍し、自らぶつかりにいく。
そして、木刀を一閃した。
「――【我流・蝶舞斬り返し】」
「……なっ!?」
フユナの目が見開いた。
――バキィィン!
その瞬間、壮絶な金属の悲鳴があたりに響き渡った。
「………!?」
宙を舞うヴェネットが、自身の手の中の軽くなった剣を見やる。
その顔が驚愕に歪んでいく。
なんと真剣が柄のすぐ上から、無残に砕け散っていたのだった。
「――継承者の【蝶舞切り】、恐るるに足らず」
「ぎゃあぁっ!?」
続く高速の連撃に、ヴェネットが宙で四方から打ちのめされる。
ヴェネットが胸から地に落ち、倒れ伏した。
「……うぅ……」
ヴェネットが這いつくばりながら、顔だけを上げて男の方を見る。
地に降り立ったフードの男は相変わらずその手に木刀を持ち、腕を組んでいた。
「……な、なぜ……一体、何者……」
間違いなく、木刀が真剣を砕いていた。
いや、それだけではない。
男は、習うはずのない『ユラル亜流剣術』の【真髄・蝶舞斬り返し】を、易々と為して見せたのだ。
「……う、嘘だ……」
驚いていたのはヴェネットだけではなかった。
フユナも驚きを通り越して、血の気の引いた顔になっていた。
「……嘘だ嘘だ……!」
その頬を、汗が流れ落ちる。
なんという、凄まじい剣。
今のが、今のが……本当に努力の剣……?
だとしたら、『持たざる者』が、『持つ者』を……。
「――お遊びはこれまでだ」
フードの男が、倒れたままのヴェネットに向けて、木刀をゆらりと構える。
「ひっ……!」
構えから放たれる圧倒的な威圧感に、ヴェネットが蒼白になる。
その剣はすでに
「最初に相応を覚悟しろと言った。もちろんできているな?」
「……あぶ……」
しかしあまりの恐怖にか、男が木刀を振りかぶる前に、ヴェネットは白目をむいて意識を失った。
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