第38話 第一部エピローグ

 

「お、覚えてやがれ――!」


 黒服の巨漢三人が泡を吹くヴェネットを抱えて去った後は、フユナとフードを被った謎の男だけがその場に残された。


 静かな風が二人の間を流れ、去っていく。

 木々の梢が揺れ、さわさわと音をたてている。


「……あ、あの! ありがとうございました」


 フユナは座り込んだままだった自分に気づき、慌てて立ち上がると、男の背中に言う。


 そこであれ、とフユナは思う。

 あれほどに重かった体が、嘘のように動いていたのだ。


 さっきのヴェネットのダメージは、いったいどこへ消えたのか、フユナはわからなかった。


 だが今の彼女にとっては、それは些細な問題だった。

 フユナは男の背中を見つめ続ける。


「………」


 男は何も言わない。

 外套を正し、これ見よがしに歩き去っていこうとする。


「――あ、あの!」


 それをフユナは呼び止めた。

 男は足を止め、その言葉を待っていたかのように小さく振り返る。


「どうして……どうして私の剣が『努力の剣』だと……?」


「………」


 男は咳払いをすると、襟筋を正し、再び去っていこうとする。

「求めていた質問とは違う」と、その背中が語っているかのようであった。


「――ま、待って! 待ってください! ……あの……せめてお名前を!」


 フユナが慌てて叫ぶ。


 男がふたたび足を止め、フード越しに顔だけをわずかにフユナへを向ける。

 その背中はフユナに、ソレだよソレ、と雄弁に語っているかのようであった。


「――私の名はノペーラ・チカ・ラモチャー」


「チカ……ラモチャー?」


 フユナが瞬きをする。

 そのリアクションを見て、男は大きく咳払いをした。


「いや、正しくはチ・カラモ・チャー」


 男は自分の名前を言い直した。


「で、ではチャー様と呼べば?」


「………」


 言われてみて、背を向けたままの男はフードの奥で閉口した。

 なにか心外だったかのごとく、そのまま押し黙っている。


「チカ・ラモチャーに戻す」


 やっと口を開いた男は、名前を戻していた。


「ラモチャー様……本当にありがとうございました……あの、こんなご恩を受けておいて差し出がましいのですが」


「………」


 フユナが地の上で膝を折り、土下座した。

 ブロンドの髪が、地を撫でる。


「どうか、この私を弟子にしていただけないでしょうか。なんでも……なんでも致しますから!」


「………顔を上げなさい」


「ラモチャー様。不躾なのを承知でお願いしたいのです! すぐにでなくても、あなたの弟子になる方法を教えてくだされば、それに向けて必死に努力して――!」


 頭を下げたまま、懇願するフユナ。


「……ふむ」


 ラモチャーがフユナに向き直った。

 ゆっくりと近づいてくる。


 気づいたフユナが顔を上げ、息を呑んでじっと待つ。

 その頬は、うっすらと紅潮していた。


「こんな顔だが、いいかな」


 そう言って、男はフユナの目の前で、フードを背中に下ろした。

 あらわになる顔。


 その顔には――。


「……ひっ!?」


 フユナが仰け反って尻餅をついた。

 その顔には、口しかなかった。

 眉も目も鼻もない、のっぺらな顔。


「………」


 フユナは真っ青になり、そのままこてん、と倒れ、意識を失ってしまった。




 ◇◇◇




「……先輩! フユナ先輩! 大丈夫ですか!」


 横たわった少女を、黒髪の小柄な少年が必死に揺すっている。


「……ん……ここは」


 少女フユナが静かに目を開ける。


「良かった……水を汲んで帰ってきたら先輩が倒れてて……どうにかなってしまったのかと心配で心配で!」


 フユナが目覚めたのを見て、少年サクヤは目元を拭って笑ってみせた。

 しかし目元にも拭った手にも、雫は欠片も見当たらない。


 もちろんフユナは、そんな細かい芝居上のミスには気づかなかった。

 すでに心ここにあらず、だったからである。


「!? ラモチャー様!」


 フユナが思い出したようにがばっと上半身を起こし、あたりを見回した。


「くっ……私はなんと無礼なことを」


 フユナは唇を噛みながら立ち上がる。


「ど、どうしたんですか。突然叫んで……」


「…………」


 しかしフユナは遠くを見つめたまま、口を開かない。


「先輩、どうしたんですか」


「………」


「先輩?」


 三度訊ねて、やっとフユナが口を開いた。


「……いや、なんでもない」


 フユナは遠くを見ている。

 そのうちにぽっ、と頬を赤くした。


「……先輩?」


「お、お前に話すことじゃない」


 フユナは胸に手を当てると、視線を先程のラモチャーが立っていた場所に移した。


 彼女の脳裏には、彼の言葉がくっきりと焼きついている。


 ―― しかと見とけ! これが『努力の剣』の強さだ――。


 あの言葉を思い出しただけで、頬が熱くなり、フユナの胸が高鳴った。


「あれが、私と同じ……努力の剣……」


 近くの少年に聞こえないように、フユナはそっと呟く。

 フユナの心は、長い夜が明けたように明るくなっていた。


 それはまぎれもなく、自分の剣を、あの男が迷いようがないほどに肯定してくれたからだった。


 フユナの剣は、長きに渡って負け続けていた。

 それだけに彼女は自分の考えが本当に正しいのか、不安で不安でならなかったのだ。


(このままでいいのだ)


 今までの自分は決して間違っていなかった。

 進むべきは、この道でいいのだ。


(あれが自分の求めている最高峰)


 フユナは晴れ渡った空を見上げた。

 日々の努力を積み重ねれば、いつかあの人のようになれるのだろうか。


「…………」


「――先輩、りんごみたいに真っ赤ですよ?」


 ぽわーんとしているフユナに、空気を読まない男、サクヤが斬り込んだ。


「――う、うるさい! お前には関係ない!」


「………」


 サクヤが顔をしかめて耳を押さえる。

 耳元でフユナの大声にさらされて、耳がキーン、となったようだ。


「だいたいなんでお前は肝心な時にいなかった! ヴェネットがここに来てたんだぞ!」


「えぇぇ!? で、でも先輩が水を……」


「遅すぎるだろう! なんで水くらいでこんなにかかった」


「ですよねー」


「ですよねじゃない!」


「あぶひょ!?」


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