三薙ぎ倒し

 刀とは殺すための物体である。

 斬り殺す。その意義の下、いかなる敵も斬り殺す。斬り殺すためだけに生まれたものだ。

 敵とは何か。本能のまま襲い来る、凶暴な野生動物のようなものか。それらは確かに人よりも遥かに優れた感覚神経を持ち、運動性能を誇り、筋力破壊力を備えているものがいるかもしれない――が、やはり敵とは何よりも人間であろう。敵対対象として、人間以上の脅威はいない。何故なら人間は学習し、成長し、熟達し、道具を扱うゆえ。こちらが力を持てばあちらも力を、こちらが鍛錬をすればあちらも鍛錬を、そしてこちらが刀を構えればあちらも刀を。そうして互いに研ぎ澄まされてゆくし、互いに喰らい合って行く。

 刀とは、人を殺すための物体なのだ。

 刀とは、人の生血を啜る物体なのだ。

 その成り立ちを忘れてはならない。

 成り立ち、成り性質……成り太刀。

 無論、妖刀も例に漏れず、いうまでもなく『夜岬』こそ人を斬り殺すための物でしかないだろう。間違っても――鑑賞するためだけの物などではない。

 黎姫がそのことに最初から気付いていたか、それとも途中で気付くことになったのか、知る術は無く、本人にとってさえも知った際のことなど如何でも良いだろうが、しかし。最後まで気付かなかったなどということは、絵空事より願うべくもないことだったろう。

 何より。

 二十四振り全てが並び揃った『夜岬』を眺めながら、彼女は強くその意義について、想いを馳せていた。



 *   *   *



 無惨な死体だった。

 些かのためらいもなく斬り裂かれた胴体に、そこら中へぶちまけられたはらわた。あちらこちら千切れ飛んだ手足に、無造作に木の枝へ引っ掛かけられた頭部。夥しい血は既に乾き切っていて、ずたずたにされた衣服と林の一角の緑とを、真黒に染め尽くしていた。遺骸からはとうに魂が乖離していて、見るも凄惨でありながらも、それが生きて動いていたときのことなど想像すらできないほどまでに物体へと還元されていた。

 人間業ではなかった。

 人の力でここまでの破壊を行えるかどうか、というだけではなく、心在る人であるのならこのような業はとても背負うことができないであろう、というほどに、人間業ではなかった。

「…………」

 人の通る道から外れた、薄暗い林の中。何者かとの格闘を行いながら道端より移動したらしい跡が、その死に場所へと続いていた。知らせを聞いて、いの一番に此処を探り当てた蝕は、おどろおどろしいその情景をしばらく見分していた。薄暗くとも彼には関係ない。闇の化身ともいえるアヤカシである蝕は、たとえ星の無い真宵であったところで、周囲を容易に見渡せるのだから。

 ――真宵。

 その名。

 ……落ちている左腕に握られた刀を――真っ黒い血がべっとりこびり付いた刃を、矯めつ眇めつ。興味深そうに注意深く視線で撫で回し、蝕はやっと口を開く。それは、彼に良く似合った皮肉気な口調だった。

「……ひひ。随分と景気良く変わり果てた姿になってくれちまったな、宵丸殿よ……」

 返事は返ってこない。

「俺は、あんたのことが嫌いじゃなかったぜ。宵丸殿とは、片手の指で足りてしまいそうなほどに少ねぇ日数しか顔を合わせちゃいない――千という数を軽く踏破し腐るほどの年月生きちまってる俺にとって、そんな日数は握り飯の中の米粒ひとつみたいな分量でしかないわけだ――が、それでもそれはそれなりの感情を抱ける程度には、鮮烈な一時だったと思うさ。ひひ。ここまで無様な死に様を見せ付けてくれたことまで含めて、全く本当に心の底からあんたのことが嫌いじゃないね、俺は。ただ、ひとつだけ文句を言わせてもらおうじゃあねぇか――」

 刀傷だらけの木々の中、枝に吊るされるように引っ掛かったままの頭部へ、蝕は語りかけている。

「――俺はどうでも良かったんだぜ? 宵丸殿のことも、黎姫様のこともよ。例えあんたや、どっか頭が浮ついてるあのお姫様にどう思われていようと、あるいはこっちがあんた等にどんな感慨を抱いていようと――俺は妖怪だ。人間共のことなんざ、本当にどうでも良い。死のうが生きようが、生きていようが死んでいようが、どうでも良かったんだ。だから約束をされたところで、それを守ってやろうなんざこれっぽっちも思いやしねぇんだ。わかるかい? ……ひひ。それにも関わらずこんなことをしてくれやがって、蝕殿になーにを期待してくれちまってるんだよ、全体どんな信頼をこの俺に寄せられたってんだ、宵丸殿は。んん? 何とか言ってみやがれよ、腐臭の漂い始めた肉塊さんよぉ……」

 一人――滔々とそう言い続ける。

 愉快そうに、不愉快そうに。

「それで宵丸殿は報われるってわけかよ? あんたはそれで良いとでも思うのか? そんなのが良いのかよ、なぁ、剣豪さん。こっちは真剣に良い迷惑なんだぜ? 二つ重ねて四つ積んで八つ合わせて、十六連ねて三十二載せて六十四掛けて、傍迷惑さ。ああ、面倒臭え面倒臭え――かったるい、やってられねぇ、つまらねぇ! ふざけんなってんだ、畜生が」

 げしっと。

 死者への弔いや憐れみなど微塵も見せぬ様子で、宵丸の頭部をぶん殴る。

 拍子に枝から外れ、首は地面に落ちた。殴られたり落下したりした衝撃で、腐りかけた皮膚などが、ぐずりと崩れる。そんな様子を何の感情も無さそうに見下してから、蝕は言った。

「ふぅ……」気が済んだのか、笑って。「だが、ま。引き受けてやるよ。腹も膨れない、面倒なだけの骨折り損だろうが……縁が無かったわけじゃあ、ないからな。か、勘違いするなよ、別にあんたのためじゃないんだからな、なんちゃって。ひひひ……おっと何が面白いのかがわからねぇか。――じゃ、宵丸殿。そうやって草葉の陰からのんびり眺めてると良いぜ。あーあ、おーつかーれさーん」

 いかにも億劫そうに、ひらひらと亡骸へ手を振りながら。

 蝕は、踵を返して去っていった。



 *   *   *



「……黎姫ちゃんは尋ねました。『宵丸の眼は、どうしてそんなに銀色で、らんらんと輝いているの?』。宵丸は答えました。『それはね、黎姫のことを暗いところでも間違えることなく見つけるためだよ』。黎姫ちゃんは、また尋ねました。『宵丸の舌は、どうしてそんなに真っ黒なの?』。宵丸は答えました。『それはね、黎姫が好きな色が、真っ黒だからだよ』。黎姫ちゃんは、さらに尋ねました。『じゃあ、宵丸の舌は、どうしてそんなに長いの?』。宵丸は大きく口を開けて答えました。『それはね……』」

 とん、と、肩に手が置かれた。

「お前を食べちまうためさぁああああ!!」

「うっげぎゃあああああああああああ!!」

 喉が割れんほどの叫び声を上げ、慌てて付けていたお面を外し、振り返る黎姫。

 涙目だった。

「むっ、むっ、むむ、蝕様ではありませんかっ……!」

「俺じゃねぇか。何が宵丸だよ」

「は、はぁ、はぁ、はぁ……ふぇえ。お、驚かせないでおくんなまし……! 心の臓が口から飛び出すかと思いました……」

「いや……すげぇ叫び声だったな。色気もへったくれもない。今度から叫び声を上げる時は、きゃっとか、はわわーとか、いやぁんとか、ちゅみみんとか、可愛らしいのにしてくれよな? 俺との約束だぜ」

「さ、叫び声を上げるような時に、そのような余裕があるとはとても思えませぬ…………。……ちゅみ、み?」

「さておき、あんた何やってんだお姫様」

「はい?」

「部屋で一人でのっぺらなお面つけて壁に飾ってある二十二本の刀に向かってぶつぶつと変でけったいな物語して何をやってるんだ、って言ってんだよ」

「宵丸を失った悲しみの余り気が動転して錯乱してしまった振りを、少し」

 振りだった。

「…………」

「…………」

 またしても突っ込みの言葉はなかった。

「……いや、不謹慎な姫様だなぁ。もうちっとこう、死者を労わる気持ちとか、心持ちとか、持ち合わせておいた方がいいと思うぜ? 宵丸殿が可哀想じゃねぇかよ、おい。黎姫様の御心は雪か氷ででも出来てるのかい? 知らなかったなぁ、彩為城の姫君がこんなにも冷てぇお方だったなんて。いやぁ俺、驚いちまうなぁ。酷い話だ」

 自分のことを十段ほど棚上げにしていた。

 宵丸が本当に可哀想である。

「はぁ……。しかし、まだ、あまり実感が湧いてきませんもので……。振りでも行えば、涙くらい流せるかと思いまして。確かに涙は出たようですが、別の涙で御座いました」

「そうかい。……その宵丸の骸を見てきたぜ」

「道理で……。そちらに参られていたのですか、蝕様は。突然に居なくなってしまわれましたゆえ、どちらへ向かわれたのかと思うて居りました」

「ああ」

「どのような様子だったのでしょう? 不肖私といえど、宵丸を失って悲しくないわけが御座いませぬ……散散世話になっておきながら、宵丸のために表情一つ変えてやれぬ己が心苦しく、また恥ずかしゅう御座いました。まだ、信じることが出来ていないのです……あの者が、もはや何処にも居ないなどと。だから、何卒――お聞かせ願いとう御座います」

 居住まいを正し、蝕へ懇願する黎姫。何も、彼女も死人を愚弄する気などなかったのだ。ただ、宵丸と縁が深すぎたゆえか、ここまで近しかった者の死を経験したことがなかったゆえか、どうもなしえなかっただけで。あるいは――宵丸を知っている者に共通することだろうが――どうしたって、あの強き剣豪が死んだ――殺された――などと、信じられないのかもしれない。

 蝕は特に偽ることもなしに、一通り様子を教えてやった。

 もしかしたらそれは配慮の足りない行為だったかもしれないが、妖怪にそんなものを求める方が贅沢であろうし、黎姫はありのままの様子をこそ求めていたのだから、別段問題はなかった。

 その凄惨な有様を、余すところなく。

 全てを聞いてから、

「左様……で、御座いますか」

 眉根を寄せ、俯き加減で、黎姫はそう声を絞り出した。

「ああ。冗談の多い蝕さんだが、ここに限って嘘はないぜ。見たまんま、嗅いだまんま、触れたまんまさ。聞ける声なんざ、何処にももう無かった。」

「…………まさか、しかし……」

 口に出すべき言葉が見当たらないかのように、しばしの間黎姫は何事かを呟いていたが……、やがて、沈黙した。大声を出したり、泣きじゃくったりはしないものの、複雑な表情をしていた。

 と、そこで蝕は、

「だが、これで終いじゃない」

 そう、言葉を連ねた。

 黎姫は怪訝そうに顔を上げる。

 珍しく真面目な面持ちが視界に入った。

「終いではない……と、申されますと?」

「宵丸の死は、ただのそれだけで終わりなんかじゃないってことだ。あの野郎は、ちぃっとばかし看過するには大きすぎる言伝を、死に間際に残してくれやがったのさ。あんた――黎姫様と、まぁ、恐らく俺に、な。……聞くかい?」

「そこまで言われて、聞かずに済ませられる道理が御座いませぬ」

「その通り」

 蝕は、運命を嘲笑うような表情を浮かべた。


 一呼吸。


「さて――――実地見分から導き出せる、宵丸の死への道程を辿ってみるか。ひひ。まず、道端で宵丸と何者かが殺し合いを始める――理由はとりあえず置いておいても、宵丸は刀を抜いてるわけだし、最終的に殺されているわけだから、殺し合いには間違いがねぇ。それも相手は一人だ。足跡やら、林を通った後からな。そして、その往来に飛び散った血の跡を見つけた――つまり最初の打ち合いの末、どっちかが斬られたのさ」

「どちらかが――」

「そう、宵丸か、何者か――どっちかだ。そして、斬られた方は傍らの林へ逃げ込み、斬った方はそれを追った。逆じゃねぇ根拠はいくつかあるが、とりあえず斬った方がそっちへ行くのはおかしいだろうからな。手負いにして優位に立ったんだ、そのまま続けりゃ良い。で、斬り合いを続けながら二人は林の中を進んで行った――刀の切り傷、血の跡やらが点々と続いてたからな。さっきの斬られた方が逃げたっつー根拠はこの血の跡だ。おおよそ、一人分しか血の跡が残ってねぇ。それも急ぎ焦りながら移動した跡――もし両者傷ついてたとしたら、勝った方は事後、傷を庇いながら移動する――余裕ぶった痕跡が残ってるはずなのさ。つまり、最初に斬られた方は――」

「宵丸――、すなわち、この斬り合いは最初から最後まで宵丸の負け試合だった」

「その通りだ」

 一旦、言葉を切る。黎姫はもう一度今までの経過を頭の中で追ってから、神妙に頷き……疑問を口にした。

「何故、宵丸は林の中へ? 手負いのまま道を駆け逃げたところで、追いつかれると思ったから、でしょうか?」

「ああ、目の付け所が良いな。それもあるだろう――が、ここでちょっと俺の予想する要素を組み合わせてみようぜ――死体も、血の跡も、ほとんど乾き切ってた。もしかしたら、三日くらい前の出来事だったかも知れねぇってことだ」

「三日――」

 黎姫は、はっと思い当たったような顔をした。旅の最中、夜間の移動まではしないと思ってたゆえに、この殺し合いは明るい中行われたとばかり思っていたが――。

「三日前。俺がお天道さんを喰らってた時分に、これらが行われてたとしたら、だ」

「な、成る程――だとしたら……! ……、だとしたら…………したら……? しても……何も、変わりがないような気が、いたします、けど……」

「うん、まぁ、これに限っちゃ予想だし、もしかしたら違うかもしんねぇし」

 しれっと言う蝕。肩透かしを食らったように黎姫は体制を崩し、困ったような目つきで蝕を見る。

「いや、意味はあるんだぜ? もし周囲が、真夜中ほどでなくても暗かったとしたら――視界が圧倒的に悪い。あの林の中なんざ、なおさらだろうな」

「しかし、視界が悪いのは両者共にではありませぬか? 両者とも視界が悪いのなら、それは条件として同一――状況が変わったとはとてもいえませぬ」

「そうでもないのさ、これが。事実、手負いでありながらも宵丸は林の中で良い勝負をした――さんざ粘った跡が残ってる。……知らなかったら教えてやるが、宵丸殿は多少目が見えなくとも、間合いに入った敵の気配に対応できるんだとよ」

「……成る程。得心行きました。それで宵丸は、ただ逃げるだけよりも――撃退し得るだけの目が在る、林のほうを選んだのだろう、ということで御座いますか。……確かに、周囲が暗ければ、明るい時よりも遥かに林の中での追従は困難になるでしょうし――音も」

「門の中に音と書いて闇と読む――林で、しかも暗中となりゃ、音を立てずにの移動はほぼ不可能――待ち伏せも容易ってことだぁな。しかし」

 しかし。

 蝕は身も蓋も無い事実を告げる。

 淡白に。

「結局、宵丸は死んだ」

「……はい。殺されたのですね」

 黎姫も、顔を少し曇らせてから頷いた。そればかりはどうしようもない。如何に宵丸が林の中で善戦を繰り広げていたとしても、相手へ――宵丸とあろう者が、恐らくは――手傷すら負わせられぬままに、殺されてしまったのだった。でなければ、こんな話などそもそもしていない。だとしたら、それが確実に意味することとは。

「宵丸よりもさらに、その何者かは手練であった……ということで御座いますね」

「最初にも一撃喰らってるわけだしな。そこまで追った所で、そろそろ本筋だ」

「はい。……何者かが、何者であるかという疑問点」

 蝕がにやりと笑う。

「察しがいいな、お姫様。ひひ、宵丸を一体誰が殺し果せたのか――このこと自体は、別段大した問いかけじゃねぇし、重要な解答も無い。何故なら普通に考えるに於いて、そんな奴を推定したところで探せもしないし、見つけたところでどうすることも出来ないからだ」

 復讐を果たせるだけの力量も無ければ、そもそも復讐に乗り出すだけの理由も名文もない。黎姫にも、蝕にもだ。この時代に、そんな通り魔的な殺人を裁くだけの法があるはずもない。だから、犯人を割り当てる事自体は無意味に近いはずである。

 にも関わらず。

「――ですが、蝕様はこの話を切り出した」

「俺の性格を知ってりゃ誰だって思うな――そこには意図がある」

「その意図とは?」

「宵丸の死体は、人間の所業とは思えないほどに分割されていた――お陰で、見つけるのに少しばかり苦労はしたんだが……血まみれの刀を握った左手部位があったのさ」

 左腕に握られた刀――血がべっとりとこびり付いた刃。

「左……しかし、宵丸は刀を扱うとき右腕を主に……」

「ああ。俺も稽古場でしかと見た。宵丸殿は、右利きだった。だが、刀が握られていたのは左手で、その刀というのも脇差で、そして握りは逆手だった――どういうことだと思う?」

 蝕は脇差を左手で逆手に握るような素振りを見せて、黎姫に問い掛けた。

 彼女は答えようと口を開く。

「それは――ま、待ってくださいまし。それなら、普段宵丸が使っていた――殺し合いに主に使われていたはずの刀の方は……?」

「ああ、そっちの方は、折れて林の途中に転がっていた」

「血は?」

「宵丸自身の返り血らしきもの以外は、付いてなかったぜ」

「ということは――」

 黎姫の頭の中で、その様子が即座に展開され、整理がつけられる。

 成程、宵丸が相手に手傷を負わせていなかったという何よりの根拠は、その折れた刀に在ったのだ。相手を切りつけた痕跡が見当たらなかった、ゆえに――。だから、脇差を握らざるを得なかった? 使っていた長刀を失ったから? いや、宵丸は刀を逆手で扱う癖はなかった。つまり、こちらは別の意図が在って――別の、意図? 血まみれ。その血は、誰のもの――――

「…………脇差の血も、宵丸の物。ならば」

「……ひひ」

 蝕は、にやついて返答を待った。

 そう、蝕は話題の導入になんと言った――?

 ――言伝を死に間際に残してくれやがった。

 これこそが、《それ》ではないだろうか。

 普段使わない刀。普段しない持ち方。そして、逆手とはつまり、正当に構えれば切っ先は自らを指し――事実、宵丸は、自分を傷つけ、血で、刃を染めた――。

 折れた刀。宵丸が折れるような刀の使い方をするだろうか。いや、そもそも、刀を叩き折るほどの剣撃を行っては、相手の武器――恐らくは刀――自体にも深刻な影響が。相手がそれを気にしていない? 気にしていないということは、代わりがあるか――折れるようなことなどない。

 宵丸のそもそもの目的。

「――相手は、『夜岬』の所有者――!」

「ご名答。血を啜る刀。刃同士で切り結んでも、まるで気にもしない妖怪の如き――妖刀。まさに、宵丸が最期に残した言葉なき言伝ってのは――『夜岬』を指している以外に在りようがない」

 黎姫は思い起こす。

 あれは、宵丸へ『夜岬』回収を頼んで間もない頃であった。最初に回収してきた刀を抜き、そこへ自らの血を垂らし、宵丸は言ったのだ。

 ぬらぬらと血を啜るように閃く刃を見せながら。

 ――御覧の通り、これは紛うことなく妖しく禍禍しい、呪われた妖刀……。どうしようもなく危険な代物で御座いますぞ。それでも、黎姫様は刀を収集すると仰るのですか――

 自らの身ではなく、黎姫の身を案ずるような顔を。

 覚悟を測るような、親身に真剣そのものの表情を。

 そして。

 それでも望むなら、己は間違いなく尽くす意志を。

 これ以上もなく示しながら。

 宵丸は言ったのだ。

「私は……」

 私は望んだ。

 それでも望んだ。

 闇に魅入られていて。

 夜に取憑かれていて。

 だから……。

「だから……、……なっ!」

 思い至る。

 ようやく、思い至る。

 宵丸が本当に最後に伝えようとしたこととは――!

「『夜岬』の所有者は、『夜岬』の収集をこそ望む――この城に――『夜岬』が二十二振りまで揃ったこの城へ――私の元へ……! 宵丸を殺したその者がやって来るであろうと――私から『夜岬』を奪い取るべく、襲来するであろうと――そういうこと、で御座いますか…………!」

 瞠目し、わなわなと震えながら、黎姫は核心を突き――

「そうゆうこった。そして宵丸を楽々と斬り殺し、血と臓物と命をいとも簡単に撒き散らしやがった、そいつは間違いなく――アヤカシ染みてる野郎だろうぜ」

 溜息し、飄々と薄く笑いながら、蝕は確信を告げた。



 *   *   *



 茶屋にて。

 そう、宵丸と蝕が会話と契約を交わし、『夜岬』の受け渡しを行った、街道沿いに落ち着いている、あの茶屋である。そこそこに人は入っているものの隣している街道にそれほど人通りがあるわけではないので、大賑わいの大繁盛とまでは行かない。ついでにいえば、茶に良く合う手製団子がここの自慢の一品である。

 そんな茶屋にて。

「――彩為……」

「ああ、彩為っつってたさ。間違いないはずだよ」

 旅装で笠を被り、顔の窺いにくい一人の男が、尋ね事をしていた。奇妙なことに……、その男は服装は旅装のそれではあるものの、手荷物が随分と簡素で、腰に下げた一本限りの刀――それ以外にはほとんど何も持ってないようだった。

 しかし、人の良いお人好しで通っている茶屋の常連――相手をしている気さくな男は、奇妙な風体に対して特に突っ込むこともなく懇切丁寧親切専念な様子で、質問に応答していた。

「変な二人組みだったんでぇ、よっく覚えてるよ。顔がきれーなほそっちょろい男と、いかにも剣豪といった風体の威風堂々とした男! なんとかぁ岬がどうこういって揉めているようだったんだが、そのうち仲良さそうに出て行っちまったよ。まぁ、彩為ってのはここからあぁっちの方へなぁ、数日くらい行ったとこにある、こじんまりしたお城でさ……」

「そうか……やはり」

 笠を被った男は、それを聞いてなにやら神妙に頷いているようだった。

 構わず、常連らしい気の良い男は話を続ける。というよりも、ただの話好きなのかもしれなかった。

「強そうな剣豪の方が、ありゃあ、ほそっちょろい方を威圧してたみたいだったんだが、それよりも驚きなのはそのほそっちょろい方の喰いっぷりだったねぇ! おらぁここの茶屋には足しげく通ってるが、あんなに気持ちよく団子食ってる奴は見たことねぇわ。こっちまで嬉しくなっちまうってぇもん……って、おい、あんた……」

 しかし、流石に話を止めざるを得なかった。――何故なら笠を被った男が、おもむろに、自らの刀の柄を握ったからである。

 刀の柄を、握って。

 緩慢にも見える動作で、鞘からそれを抜く――

 ズラリ。

「な、あ、あ、あんた…………」

 動揺しているのは、笠の男の行動が意外だったから――だけではない。

 いや。

 もはやその笠の男を、男――つまりは人と、判じてよいものかどうか。

 相手をしていた男のみならず、茶屋にて一服をしていた全員を圧倒したのは、そのただならぬ雰囲気に他ならなかった。尋常ではなく、にわかには信じられない感覚――そして、光景であった。

 刀を抜いた瞬間。

 男は様子も様相も一変したのだ。

 余りにも禍禍しい――瘴気を背負っているかのような、正気を喰い散らかしているような、狂気が狂喜しているとしか思えない――闇そのものを全身から吹き出しているかのような、総毛立つ空気。笠がずり落ち露わになった顔は、黒く塗りつぶされていて、到底人のものとも思えない。髪が乱れ、風も無いのに漂い、口は裂けているかのように獰猛で、目玉はぎらぎらと光っていた。

 常連の男が、どさり、と、尻餅をつく。

「ひっ、ひぃいっ、ひい、ひぃえええ…………!」

 言葉にならない。

 先ほどまでこんな奴と話していたなどと、嘘のようだ。

 ちょっと前の現実が、悪い夢でしかない。

 その場に居合わせた全ての人間は既に呑まれてしまっていて、足腰も立たず、おかしな呼吸をするので精一杯だった。冷や汗が、脂汗が、嫌なように噴き出す。

 なんなんだ――こいつは――!

 こいつは、こいつは――人間なんかではない――もっととんでもない、化物のような――

 ――物の怪――妖怪――アヤカシ……!!

「…………」

 目の前の《そいつ》――妖怪は、声なき笑みを浮かべながら、

 ちゃきっ――

 と、抜いた刀を閃かせた。

 抜いた刀――閃かせた刃は、当然の如く黒い。

 暗く、黒い。

 殺意のように重く、邪気のように深い。

 渦巻く狂気の根源こそ、その凶器であった。

 今、夜と闇と恐怖がない交ぜになったこの刀身へ注がれている視線の持ち主等は、誰もが知る由もない。だが、他ならぬ持ち主――妖怪は、無論芯まで理解している。もはやこの刀と妖怪自身は、一心同体でしかないのだから。これこそ――――

 ぶん!!

 一振りで、常連だった男の首が飛ぶ。

 悲鳴も無く。

 頭部が落下し音を立てる前に、彼の胴体の方は三つにも四つにも斬り裂かれていた。

 血がそこら中に飛び散り、黒い刃がぬらぬらとそれを啜る。

「けけ――けけけ、けけけけけけけけけけけけ」

 妖怪が嗤った。

 それを切欠に。

 茶屋は、断末魔の坩堝と化した。

 刺す、貫く、突く、徹す!

 切る、裂く、斬る、薙ぐ!

 殺す、殺す、殺す、鏖す!

 命を――喰らう!!

 これこそ、二十四振りもの数打たれ創られた妖刀が内――最も多くの肉を斬り、骨を断ち、血を啜り、命を喰らった――最も多く重く深き怨念を飲み干した――極めて黒き闇を振るいし、『夜岬』が二振り目――!

 正しくアヤカシガタナ――妖刀と称されるべき、呪われた刀。

 宵丸を斬り伏せた、『夜岬』であった。

 もはや、茶屋の名残すら見せず倒壊した瓦礫……その周囲に動くものが一切失せたところで、やっとその妖怪は刀を止めた。

 軽く振るい。

 鞘へ、戻す。

 ――チン。

 それと同時に、妖怪の纏う雰囲気も人のそれとなる。落ちていた笠を拾い上げ、はたいた後に被り直す。変わり果てた茶屋と、諸々の死体の前で、その妖怪だけがすっかり元の通りの――旅装の男であった。

 だが。

 口元だけは、凄絶に歪んでいた。

「け、けけけけ、けけけ怪けけ怪け怪怪け怪怪怪怪怪怪怪怪怪怪怪怪怪怪怪怪怪!!」

 けたたましい笑い声を一通り上げてから、妖怪は迷いなく歩み始める。

 ――彩為城へ。



 *   *   *



 わたしは夜の闇に不安など抱かないのだよ。

 むしろ闇に優しく抱かれている気すらする。

 わたしは霊魂など信じていない。死後の世界などあるとは思えないのだよ。人は死ねば死ぬだけのこと。死んだら死んだだけのこと。もしかしたらわたしは特異な奴で、それこそ怪異な奴かもしれないね。しかし見たこともないそれらをどうして信じることなど出来ようか。闇はこれほど見詰めたことがあるというのに。だから闇は闇でしかないのさ。わたしにとっては。

 見えないものを恐れるというのは間違いだ。

 見えないことを怖れるというのも間違いだ。

 何故なら、見えぬ物事の方が多いのだから。

 きっと見えるのが安心に繋がること自体の方がおかしいのさ。狂っているんだ。全ては総て、闇の中。始めから終わりまで、何から何まで闇の中。薄らと差し込んだ光の断片それこそが恐怖を生み出しているのかもしれず、それが違うと誰が言えよう。見える部分が、わかる部分がある方が、何もわからないより渡し難い。

 夜道の背後に何かが居るかもしれない、という予想。

 夜道の背後に何も居ないかもしれない、という予想。

 両者は互いに同一で、どちらも孤独を知るからこそ。

 最初から何も無ければ、孤独に悩まず済んだものを。

 …………む。

 ああっ。そっぽを向かないでくれ、こっちを向いておくれ。ごめん、詰まらない話をしていることは認めるから。機嫌をなおしてくれ。ごめん、ごめんなさい。後で飴あげる。うん、沢山あげる。わたしも大概貧乏な生活をしているけれど、君に好いてもらうためならどんな出費も痛くないんだよ。全っ然痛くない。これっぽっちも痛くない。痛くない痛くない、平気平気。泣いてないってば。君は怒ってない? 本音かい? そんなこと言って、忘れた頃に責めるんじゃないだろうね。だから続きを話せ? うん、わかった。いや、でも本当に怒ってない? 大丈夫? 大丈夫なら続けよう。ええと、なんだったっけ。飴の話だっけ。あいた。小突かなくても良いだろう。ほんの茶目っ気だよ。うん。

 それで……。そう。

 それでもわたしは知ってしまった。

 否応なく、孤独を知ってしまった。

 君のお陰で。

 誰もが知っているように、いつかはわたしも死ぬだろう。だのに誰もが救いとしているような、霊魂や弔いをわたしは信じていない。つまり孤独に死ぬしかないのだ。孤独のまま死ぬのは嫌だとわたしは感じる。例え虫が良いと思われたって、勝手な奴だと言われたって、そう感じる。感じてしまう。

 君は教えてくれたね。

 アヤカシは思いによって生まれ、

 そして思われている限り死なぬという。

 だとしたら人も同じではないだろうか。

 人は死ぬ。

 しかし、人の心に記憶として生きる。

 人の記録に、名残として生きる。

 歌を詠むのも、人を謳うのも、霊魂の正体さえも。

 そうだからではなかろうか?

 思いの結果ではないだろうか?

 何も違わぬのではないだろうか?

 人もアヤカシも。

 …………。

 だから。

 わたしの事を忘れないでいてくれ。

 お願いだから忘れないでいてくれ。

 それが紛うことも違うこともない、たった唯一の私の願い。

 君に忘れられないためであれば、わたしは悪鬼に身も心も差し出してしまうことすらも、少しも厭いはしないのだよ。これっぽっちだって、厭わない。そのために、わたしはやるべきことをこなすんだよ。君がいつか、わたしの下を去ってしまったとしても…………

 と、

 ふと我に返る。

「蛭月……」

 軽く頭を振るい、誰かの名のような言葉を呟いた。

 昼下がり、うつらうつらとしてしまうような中、遠い記憶へ馳せるべきでない思いを散らしていた。

「……ったく。ん?」

 軽く自らの頬を叩き、蝕は城の門のほうへ目を凝らす。準備も用意も覚悟さえ、揃い踏みで揃い済み。後は結果をご覧じろ――ということで、残された蝕のすべきことは、城の屋根の上からの警戒を怠らないこと、だけであった。

 怠らない。

 彼にとってそれは、思いの他大変な難関ではあったが――それももう、これで終りのようだ。

 何者かがこの城へ、迫りつつあるようであった。

 何者か――それは旅装の男に化けた、あの妖怪。

 だがそのような装いなど、蝕には意味を成さなかった。闇を見通す彼の目は、人とアヤカシを見分けることすらも可能なのだから。それこそ、漂う気配を見分けるという表現に近い。一部の、人に化けるのが得意なアヤカシ共は除くが、幸いこの妖怪はその類ではなかった。

 そもそも。

『夜岬』に取り憑かれた――支配された人間。殺人衝動と破壊欲求にのみ突き動かされるようになってしまった、もはや人よりもアヤカシに近い存在なら……ことの始め、十七振り目に会った時に、観察済みである。

 なので――間違えようがない。

 あの時の男とは比べ物にならないほど――ほとんど妖怪であると言い切ってしまっても間違いではないほどに、人間離れしているものの。たった今、この彩為城へ来訪しつつある《そいつ》こそ、宵丸を殺害せしめた者に、そして黎姫の所有する二十二本の『夜岬』を手に入れんとしている者に、違いないであろう。

 確信を持って、蝕は笑う。

「ひひ……いいぜ。来いよ、来い。もっと近くに来やがれよ、妖怪さん。手前の周りにゃ死臭と怨念がぷんぷん漂ってんぜ。どれだけ強いんだか、どれだけ腕が立つんだか、どれだけの手練だか、そんなこたぁ知っちゃこったねぇが――宵丸の野郎を殺せたのは単なるまぐれ、お天道様の気紛れに過ぎねぇってことを、骨の髄まで捻じ込んでやるよ。あんたの終りはこの城だ。遠慮無く容赦無く躊躇無く未練無く――」

 愉しそうに、呟く。

 それはささやかな因縁への、些細な宣戦布告だった。

「殺意と執念の代償に、絶望と後悔抱いて死ね」



 *   *   *



 適当な要件を告げたところ、思ったよりもすんなりと城の中へ案内された。

 まぁ、もし門番に何事かをごねられたところで、諸共惨殺するだけのつもりだったので、その妖怪にとってこの意外さは僥倖というほかなかったが。

「ここでお待ち下さい」

 そう言い残して、案内の者は部屋を出て行ってしまった。

 内心、せせら笑う。

 待つつもりなど毛頭ない。城の中へ入ってしまえば、あとは感覚に任せて目的のものを探すだけだ。城の中。彩為城。確かに間違いはなかった――この城の中に確かに「在る」のを感じる――。

『夜岬』は『夜岬』同士、牽引するのだ。惹かれ――合う。

 もはや『夜岬』と一体になったこの元人間にとって、その感覚は強く、はっきりとしたものであった。同じ城内――しかもこのような小さな城内であれば、感覚に沿って歩き回るだけで、充分探し出すことが出来るだろう。それも、目標のものは二十二振りも纏めて置いてあるのだ。目を瞑っていても、ひしひしと在り処が伝わってくる。

「けけけ……」

 妖怪は移動を開始した。

 迷いない足取りで、城内を練り歩く。

 ――随分と奥の方に置かれているな。

 歩みを緩めぬまま、妖怪はそう思った。

 そこで。

「! 貴様、何者だ!」

 城内の人間に見つかった。

 身を隠そうなどと試みても居ないのだから、当然である。城内をうろうろしている旅装の見知らぬ男――不審人物この上ない。発見した二人組みは手持ちの武器に軽く手をかけ、止まろうとさえしないその男に向かって、今度はやや乱暴に、二度目の質問を投げかける。

「何者かと聞いて――!」

 だが、それは浅はかだったといえよう。

 一目散に逃げるべきであったのに――。

 一息。

 そして二息。

 無造作に振るわれる黒い刃。悔いる間もなく、二人は闇色の斬閃によって分割され――床へと散らばった。血しぶきが廊下を染め、死の香りが充満する。

 本性を現し……とても人間とは思えない容貌へ豹変した妖怪は、しかし刀を納めようとはしない。どうせ間もなく目的へと辿り着くのだから、いちいちしまわなくとも構わないだろう――という考えであった。折角だから、次から次へと追っ手が来ればよい。最後に暴れたのは、あの茶屋で――もう、一日以上経っている。そう、殺したくてうずうずしていたのだ。

 しかし、それは叶わず……拍子抜けするほどあっけなく、そのまま部屋に着いてしまった。

 この部屋の中に、『夜岬』の二十二振りが――!

 ――在る!

 妖怪は確信していた。戸を一枚通して、強く強く全身で感じる。

 その存在感を……!

「け、けけけ……けけ、怪怪怪怪……っ」

 笑みが止まらない。

 ――二十三振りもの『夜岬』を手に入れたのなら、我は一体どれほどまでに強く、恐ろしく為れるのだろう……! どれほどまでに素晴らしき力を振るうことが、可能となるのだろうか!

 斬っ!!

 待ちきれず、焦燥のままに、戸を斬り開く。

 駆け込みたい気分だった、が――思い止まった。

 戸の向こう側の情景が、部屋の中が……信じられない様子だったからである。

 そう。

 闇だ。

 真っ暗闇だ。

 部屋の中は――正しく、猫でも見通せないほどの闇だった。

 自然にこんな闇が存在するわけがない。

 存在してはいけない、こんな暗さ。

 こんな暗さ、今握り締めている『夜岬』の刃以外には、知らない。

 ――妖術か……。

 妖怪は、考える。

 ――自分以外のアヤカシが、この件には噛んでいるのか……。恐らくこの城に、自分以外のアヤカシが、居る。そいつも自分と同じように、『夜岬』の怨念によって人間からアヤカシになったものなのかは、わからない。しかしそいつは確実に――自分と、敵対している。

 そこまで、思考を整理した。

 自分が持っているのは、『夜岬』の二振り目。

 最初の、次に作られた、『夜岬』。

 最も、怨念が渦巻いた、『夜岬』。

 そしてこの部屋に在るのは――三振り目から二十四振り目までの、二十二振り……。

 ――止まる理由など――無い!

 妖怪は、自らを鼓舞するようにより強く自分の『夜岬』を握り締め……、

 一歩。部屋の中へと踏み入った。

「ぐ……? !」

 違和感。

 感覚で分かる。

 目の前だ。もう数歩先に、残りの『夜岬』が――――在った。

 在った、在ったはずなのだ。

 それが。今しがた。消えた。

 ――消えた?

 数歩分を、駆ける。

 そこへ、辿り着く。

 ここ――だ。ここに、在った。

 在った、はずなのだ!

 だが、無い!

 闇が濃いあまり何も見えないが――

 確かに……無い!

「が、な、何故……」

 ――い、や。

 いや、いや、いや。

 狼狽している場合ではない。敵対しているモノが居るのだ。これは何かの――

 と。

「っ!」

 何かが動く気配。

 左側から、物音。

 瞬間的に視線を移す。

 そこには、輝く小さな二つの銀色。

 銀色の、双眸。……目だ。

 目――敵対しているモノ……!

 跳躍――!

「そ、こかあぁぁああぁああああぁぁ!」

『夜岬』を振るい、斬りかか――――待て!

 銀の輝きが消えた。

 移動した……?

 ――違う!

 そこには誰も居ない!

 最初から、誰も居ない!

 一瞬何かがキラリと反射した――これは、鏡。

 ――そう、鏡……鏡だ! 鏡だと!?

 刀は止まるが、空中の体は止まらない。

 体勢を変え――

 方向を転換――否!

 ――足が虚しく空をかく。

 足場が、無い、ということ。

 床が――抜いてある?

 着地できない?

 意味する事は?

 奈落。墜落。

 闇の中で、闇の中から闇の中へ、落ちる。

 ただの単純な事実に、慄く。

「ぐっ、はぁあ!」

 必死で横へと手を伸ばす!

 掴む! 落ちてたまるものか!

 幸い――手は届いた!

 一息……

 ――つけない!

 空気の流れ……不穏な空気。

 頭上に、何か――――

「? ……! !」


 ――岩。


「がっ! がぁあああぁああああああああああああああああああががががああぁぁ!」

 真っ暗闇の中、穴に落ちかけ、手も塞がり、避けられるはずもない。

 落ち来る岩にぶち当たり、

 問答無用に叩き落される。

 何故?

 何故だ?

 わからない、わからない。

 さっきまでは本当に何にも無かったのに。突然だ。唐突だ。当たり前のように、いきなりそこに、現れた。頭上に、岩が。そんな事、有り得るはずがない。無かったものが、突然現れるだなんて――そんな事。起り得るわけが。わからない、そんな事。

 現れる。

 無かったはずのものが、現れる。

 消える。

 在ったはずのものが、消える。

 ――そうか、これが相手の――……。

 などと考えている暇などなく、落ちる。 

 下へ。下の部屋へ。

 下の部屋も――闇だった。

 奈落だった。

 そして、抜かれた床――穴の下では。

 十数本の刀が、刃を上向きに、突き立てられていた。

 その上へ、妖怪は落ちる。

 岩に潰されながら――


 ごっ! ばききっ!

 どがぐしゃががあぁあぁあ!!


 刃に全身貫かれながら、岩に押し潰されながら、体中をボロボロに壊され砕かれながら、妖怪は下の階へと、着地した。

 墜着した。

 酷い音と衝撃だった。

「あが、が、がぁあぁあ……」

 いくら妖怪とはいえ……、身体の損傷は激しかった。それに、岩に潰されて動けない。力が……そう、だ、『夜岬』が――怨念の塊が、自分の力の源が、そこに無い。

 無い。

 あまりの狼狽と、あまりの衝撃に、いつの間にか――手放してしまった。

 早く掴まなくては――あれが無くては、どうしようも、ない。大丈夫、見えなくたって感じる。もはや完全に、体の一部も同然だ。手に取らなくとも手に取るように、位置がわかるはずだ。

 わかるはずだ、が。

 が。

 が――、またしても。

 周辺から、その気配は消えていた。

『夜岬』の二振り目は、消え失せていた。

 自身の片割れが――消え失せていたのだった。

 ――な、なんなの、だ。

 ――我は、何と戦って、いる――?


 ずるり。


「な……」

 そこで、世が反転したかのような感覚を味わった。周囲が全て、余すところなく闇。先ほどまでの闇を濃密と示すのなら、今自分を包み込んでいる闇は――喰らいついて来るような、実害を伴う恐ろしげな闇だった。

 じわじわと、体の端から欠けて行く。

 そしてそれは救いようのないことに、幻覚や妄想などではなかった。

 事実――喰われているのだ!

「ひひ、先手必勝ってことは要するに、後手必負ってことじゃねーか」

 誰かの声が響いた。

 それは全方位から響いてくるようで、誰が何処で喋っているかなど杳として知れぬ――底知れぬ声であった。闇そのものが告げているようで――たまらず、妖怪は叫ぶように声を荒らげた。

「ど、どういう意味だ! 何処にいるっ! 姿を――姿を現せ!! ヤミサキを……、我の『夜岬』を、返せ!!」

 闇は応えた。

「おいおい、要求は一度に一つにしろよ。ひひ、ま、どれも聞き入れる気はないんだが――な。だが、一応これは教えておいてやんぜ……」

「何を……」

 ぞっとするほど冷酷な声色で、それは告げられる。

「あんたの負けだ」

「な……っ」

「あんたはもう死ぬ」

「し、し、死ぬ……」

「あんたは終わりだっつってんだ」

 じゅくじゅくと……体中が闇に溶かされていく。

 何よりもおぞましい、耐えられない話であった。

「あんたは後手に回ったんだよ。それも後手も後手、後手後手だぜ。ひひ、宵丸と戦っちまった時点で、あんたの負けは決定していたのさ――」

「宵……丸?」

「取るに足らねー剣士さ。ただ、ちぃっとぱかし腕が立ったようだがな」

「剣士……」

 ――拙者は宵丸と申す――

 そう、だ。自分がここへ来る切欠となった男だ。確かそう、名乗っていた。『夜岬』の匂いを体中から感じた、その男……。だから、そいつを殺し……全てを奪い取ってやろうと思ったのだ。確かに腕は立ったが、自分の敵ではなかった。敵などではなかった。一太刀も浴びずに、自分はそいつを殺した!

 自分は勝ったのだ!

 それとこの状況と、何の関係がある――!

「はん、間抜けが。宵丸が林へ逃げ込んだのは、そっちの方が有利だったから――だけじゃぁ、ねぇ。そこら中に生えた草、足跡を残す柔らかい土、刀傷を残す木々、人の入り込みにくい荒らされづらい領域――ありとあらゆる痕跡がそこには残る。ひひ、そいつを見分すりゃ、あんたの癖やら性格やらが舐めずるように丸わかり――ってぇ寸法だっての。宵丸殿に対して俺が腹を立てたのは、そこまで俺を当てにし腐ってくれた死に様ゆえさ……面倒臭いったらありゃしねぇ」

「そ、そんな……ならば……」

「だから、戦っちまった時点で負けだったって、言ってるだろうがよ。あの場で宵丸に負けるか、この場で俺に負けるか――あんたにはその選択肢しか残されてなかったんだぜ。最初から。惨め極まりない負け犬人生、ご苦労様だよなぁ?」

 腕は肘の辺りまで、足は膝の辺りまで、闇に喰い散らかされていた。嫌悪感が形を成して、這い登ってくるかのような有様である。そのような様子を、周囲全体が嘲笑っているかのようだ。

手元に『夜岬』の無い自分が、これほどまでに無力だとは。

 弄ばれるだけなのか。

「……た、頼む! 頼むから……」

「ん、なんだよ?」

「頼むから、た、助けてはくれぬか……我を! も、もう何も殺さぬ……その剣士のことだったら謝る、償うから……、頼む! なぁ? なあ!」

「ひひ、却下」

 無茶苦茶良い笑顔で、そう返された気がした。

「あんたは死ぬって言っただろ。そこは揺らぎようのない決定事項なのさ。なんにも見えねぇ腐った目玉でよく見ろ、観念しろよ。この状況であんたの挽回が在り得るはずねぇだろ。それよりあんた、言い残すこととかねぇのか?」

「い、言い残すこと、だと?」

 そんなこと、そんなこと……、考えたことも、ない。

 言い残すとは、なんだ……?

「あんたはこのまま一人で死ぬのか。ひひ、哀れに『夜岬』に侵食され尽くしちまったか。すっかり自分がアヤカシだってぇ――人間ならざる化物だって、思い込んじまって思考停止しちまったか。なぁ、思い出してみやがれよ。記憶を無様にひっくり返して考えてもみろ。あんた、元は人間だったんだろう?」

「人、間……人……」

「あんたの、人としての最期の言葉――俺が聞き届けてやるってゆってるんだよ」

 それはどこか、同情するかのような響きだった。

「なぁ……慈悲の心くらい、俺にも在るのさ……」

 まるで、寂しさを知ってるような、声音だった。

 言われて、考える……。とうに忘れていたこと。自分が人間だったということ。いくら人間離れして、アヤカシ染みたところで――元は人間だったということを。

 仕事も在った。

 役目も在った。

 笑ってくれる友人も居た。

 妻も持ってたし、子さえ居た。

 そんな気がするが、どれもこれも朧気だ。

 全て殺したからだ。殺し尽くしたからだ。

『夜岬』の糧とした。闇に、喰わせた――。

「……あ、嗚呼、そう、か……」

 自分のことを知っている人間は、既に残っていないのか。残さず殺してしまったのか。己の腕で。己の刀で。なら、ここで自分が死ねば、全て消えてしまうのか。生きた痕跡など何も残らないのか。闇に溶けきってしまうように……。

 それは……。

 それは、嫌だ。

 ――それは嫌だ! そうだ、例えたった今我を殺そうとしているこの闇の主であっても良い……聞き届けてくれるというのなら――せめて、せめて我の人としての名だけでも――!

 ここ数十年も名乗ることも無かった、自分の名を!

 ここで、思い出せたのだから――!

 ――き、聞いてくれ――!

 妖怪は精一杯の声を上げた。

「我は、我の名は――――!」

 ぐしゅり……。

 告げようとしたその瞬間。

 そこで、名も無き元人間の存在は消え失せた。

 闇に蝕まれ、跡形もなく消去されたのだ。

 あっけなく、何も残さず。

 簡素な終焉だった。


「なんてな。手前の文言なんざ誰が聞くかよ、馬鹿」


 ひひ、ひひひひ――と。

 たっぷりと悪意に満ちた嘲笑いの声だけが、闇の総てに満ちていった。



 *   *   *



 事が終わって、蝕は自ら造り出していた闇を解除した。

 岩の落下によって半壊した部屋を、余裕ありげに退出する。大体起こり得るであろうことは、あらかじめ半分程――半分程度であるのが重要であり、またそれゆえに最低限の犠牲が二名出た――説明してあったとはいえ、問い詰められるのは面倒だったからだ。

 後片付けは他人任せ。

 勝負は蝕の圧勝であった。

 日蝕、月蝕を引き起こす妖怪――蝕は、直接的な戦闘力はそれほど高くない。しかし、あたかも日蝕や月蝕のように、一時的に物体を隠すことが出来るのだ。舌先で触れた物体を、外部から一切の干渉が出来ないように隠し、また一定時間経過した後に、何事も無かったかのように出現させる。今回の現象のほとんど、並びに宵丸から『夜岬』を隠して見せた芸当は、この能力によるものだ。

 さらに、質量や大きさを無視して物質を腹――闇の内へ収めることも出来る。それに対しては、最後にあの妖怪を食らったよう――直接的な攻撃を加えることが可能なのだ。弱点として、内側からの攻撃には無防備であるが。

 部屋を真っ暗な闇にしたのは、妖術の中でも幻術に近い類のものだ。単体ではたいした力を持たないが、己に有利な状況を作り出せるという意味では、大きな効果を持つものである。

 第一段階として、混乱を誘う。

 第二段階として、力の源を奪う。

 第三段階として、じっくり殺す。

 順を追い、着実に殺す。奇しくも黎姫が指摘したように、蝕の最も恐ろしいところはその応用力の在る狡猾さ、である。多くの歴史の例に漏れず、彼にとって必要なのは力ではなく――それもある程度は必要かもしれないが何よりも――情報であったのだ。その情報を、宵丸から十二分に蝕は受け取っていた。

「ひひ。わざわざ『夜岬』の二振り目を届けに来てくれた――ってことだな」

 そう皮肉気に笑って。

 さらに奥の部屋。

 黎姫の待つ部屋へ。


「……これは蝕様。終わりましたか」

 部屋に入った蝕を、黎姫が迎えた。

「ああ。これ以上ないほど綺麗に、策に嵌ってくれたぜ。案外良い奴だったかも知れねぇな――ひひ、ただの間抜けだったんだろうが。宵丸の死体がさっさと露見したところが良かったな」事も無げに言う。「宵丸ほどの熟達した兵士を、野放しにはできねえもんな――定期的な連絡を約束させてたのが、良く響いたって結果だーな」

「そう申されれば……尋ね忘れていたことでは御座いますが、蝕様。如何様にして、宵丸の元へ、あのように疾く駆けつけることが出来たのでしょう?」

「別に」蝕は軽く肩を竦めた。「俺の妖怪としての本性は、闇色毛並みの狼さんでね。その気になりゃあ、馬くらいの速度で走ることも可能ってだけさ」

「左様で御座いましたか」

「取るに足らない辻褄合わせ、みてーなもんだろ。あんたから借りた二十二振りの方も、もう姿を現してるはずだ。しばらく待てば、言いつけといた奴等がここへつつがなく運んできてくれるはずだぜ。――ってことで……こいつが収穫の品」

 と、いつの間にか手にしていた刀を、鞘からずらして見せる。

 黎姫にとって、すっかりお馴染みとなった夜の色――しかし、今まで目にしてきたどれよりも深い黒の彩りに見える。

 ぱちりと鞘に戻して、蝕は黎姫にそれを渡した。

「宵丸殿の――忘れ形見だ」

 言って、黎姫の前に胡坐を組む。

 黎姫は、手に取ったその刀を――とっくりと眺めていた。

『夜岬』の二振り目――宵丸を屠った、刀。宵丸が最後に対峙し、そして敵わなかった、刀。宵丸が最期に対峙し、そして叶わなかった、刀。確かにある意味それは、形見ともいえるだろう。

 鞘から抜いて、刃を撫ぜるようにする。指先が触れるか、触れぬかの距離。鍔から切先へ――切先から鍔へ。する内に、やがて……呆けたような顔――目を見開いたまま感情が何処かへ消えてしまったような呆然とした表情――で、黎姫はぽつりと呟いた。

「宵丸……。すまない。私はそれでも、それでも私は――


 お前を、愛せなかった」


 愛せなかったのだ、と。

 手の内の刀に語りかけるかのように、それは独白にも懺悔にも似た……その実ただの、事実確認のような言葉だった。

「……は、やっぱりよー……」

 こちらも静かな口調で、しかし蝕らしく一呼吸、愉快そうに笑って言う。

「ひひ、宵丸殿を殺したのは、お姫様。あんただったってゆう見解で、良いんだな?」

 まさか、そんなはずはない。

 宵丸を殺したのは確かに、『夜岬』に取り憑かれた――あのアヤカシになりきれなかったアヤカシであり、黎姫とは何の関係もない。蝕の言っていることは、今までの流れや文脈を丸っきり無視した、見当違いの台詞である。だからこそ、ここは否定の言葉が返って来なくてはいけないはず……で、あるのに。

「……はい。間違い、ありませぬ」

 黎姫の返答は、肯定のそれだった。

「そ、か」

 蝕は軽い調子でそう言って、両腕を頭の後ろに回し、若干後方へ体重をかけるようにする。そのまま言葉を繋げる。

「そもそもよ……。全国に散らばった二十四本もの刀――それも、こんなにも禍禍しい妖刀、凶刀を全部集めようってのが、荒唐無稽だったんだよな。阿呆でもそんなことはいわねえ。しかもそれを言い出したのが、よりにもよって頭の悪くない麗らかなお姫様だってゆうんだから、これはもう狂っているとしか思えない」

 そこで一端言葉を切り、つい、と薄目で黎姫を見やる。彼女は、黙って聞いていた。

 肯定もせず、否定もせず。

 目を閉じて、蝕はさらに続けた。

「そんな、目隠ししたまま逆立ちで綱渡りをするような真似をしろと言われて、素面で受ける野郎もそもそも居るはずがねえ。土台無理な話だったのさ。やったところで、十中八九どころか十の内十は途中で死ぬぜ。そんなの依頼するってのはもう、『死ね』つってんのと同じだな。だが――その頼みを聞いちまった、馬鹿を超えた大馬鹿野郎が居たわけだ。その上そいつは、二十四本中二十二本も集めちまった、狂いきった野郎だった。ま、結局――死んだけどな。ひひ」

 黎姫は、しかし、何も言わず。

 表情も、やはり、何も変えず。

「この結末を、お姫様。あんたが予め想定していなかったはずはねえ。予想してなかったはずがねぇんだよ。二十二本――今となっちゃ二十三本か――そこまで集まることは予想してなかったかもしれねーが、宵丸が途中で死ぬ……ってことは、明らかに最初から考えていたはずだ。加えて、さらに外道なことに――宵丸が、その頼みを断るわけがない、ってことも予想していたはずだぜ。宵丸殿はあんたにぞっこんだったからな。それに気付かないお姫様じゃねーだろ。……だとしたら、だ。お姫様、あんたが宵丸に頼んだ事は、『死ね』ってゆうことと同じで――だからこそ、宵丸はお姫様が『殺した』と断じちまって、何も問題はねーわな」

「…………ふ」

 黎姫は、やっと無表情を止めた。そして、顔を翳らせるようにして――笑みを、浮かべる。柔和な顔立ちに反して、それはとても底意地が悪そうな表情だった。……歪なような。

「ふふ、しかし、それが如何なさいましたか、蝕様? 私が宵丸のことをどう思っていたとしても、もしくはどうも思ってなかったとしても――この結果に変わりは起こりませぬでしょう。過程にさえ、影響を及ぼしませぬ。そのように何にも繋がることのないことを、わざわざ指摘するなど――蝕様らしくも御座いませぬ」

「言うじゃねぇか……ひひ、だがその通り――こいつは実に下らない話さ。あんたが突いて貰いたそうな顔をしてたから、突っ込んでやっただけでな」

「…………」

「…………」

 見つめ合うように――睨み合うような、しばしの沈黙。

 蝕は、そこで胡坐を崩した。ついでに話題も変える。

「……ところで、お姫様」

「はい」

「あんたにこいつをくれてやるぜ」

 そう言って――、

 刀を、もう一本、

 蝕は取り出した。

「――! な、よもや、それは……!?」

 滑らかに鞘から――しゅらん――刃を抜いて。

 黎姫の目の前に――すとんっ――突き立てる。

「な、何故――蝕様が、こ、これを……」

 深い夜の色彩。濃い闇の彩色。

 それは、『夜岬』に他ならなかった。

 最初にして――黎姫にとっては、最後になるであろう、『夜岬』。

 慌てて、打ってあるはずの打ち出し番を――何振り目であるのかを、黎姫は確認する。が、他の全ての『夜岬』に数字が打ってあったその場所には、何も彫られていなかった。

 無――――零。

 いや、それは初振り――、一振り目に他ならないからではないか。

「紛うことなく違うこともなく、最も初めに打たれた『夜岬』が一振り目――だぜ」

 黎姫の心中を察したかのように、蝕がそう告げた。

「し、しかしっ、何故……。宵丸の話によれば、とんと行方など知れず――実在するかすらも危ういといわれておりましたものを……何ゆえ、蝕様が所有してらっしゃるのですか……っ?」

「何故も何も、俺が最初から持ってたからに決まってるだろが」

「……? ――え! ええ?」

「俺がこの刀を打った奴から『夜岬』を受け取ってそれっきり――一度たりとも外界に出したことがなかったからだぜ。そりゃあ、行方も全然わからないだろうし、噂すらも立たないだろうさ――煙立てる火の元が、ずっと俺の腹ん中だったんだからよ」

 言われて、狼狽しつつ動揺しつつも、改めて――黎姫はその刀を眺める。

 手に入れることを、本当に真の意味で心の底から諦めかけていた――『夜岬』が一振り目。

 型番号のない、零に等しい初の一つ……。

 ふと気づき、蝕へと問い掛ける。

「……一度たりとも、外界に出したことがないと……そう、仰いましたか?」

「ああ、受け取ったことを自分ですっかり忘れてたくらいだからな」

「忘れて……、い、いえいえ。それより、ならば――」

「そう。そいつは今まで、一雫たりとも、血を吸ってない」

 ――命を喰らったことのない、生まれたままの妖刀――『夜岬』。

 刃は確かに――黒く、黎く、暗く、昏かったが――

 ほのかに。

 薄らと。

 例えようのないほどまでに、美しく――紫色を帯びていた。

 最初の刀ゆえ、打ち方が甘かったのか。

 それとも、血に触れたことがないゆえか。

 どちらにせよ、黎姫にとっての真実は一つ――

「う、うちゅくしゅぅございましゅ……」

「おい」

「美しゅう御座います!」

「ちゃんと言えたな、おめでとう」

「はい!」

 見蕩れる余り、一瞬幼児化してしまった。

「い、いえ。しかし……」

 黎姫は名残惜しそうに刃から蝕へ視線を移し、尋ねた。

「受け取った、と……」

「ひひ……ま」蝕は崩した胡坐から片足を起こし、膝に肘を乗せるようにして言う。「少し、昔話をしてやるよ」

「昔話……で、御座いますか?」

「『夜岬』の話さ――。さっき漏らしたように、俺もうっかり忘却しちまってたからな。ことここにいたっての憶測も含めての話だが――元々、そもそものところ。その刀は……」

 思い出す、別に思い出したくもない記憶。

 すっかり忘れていた、思い出。

「……それら刀――『夜岬』は、俺に向かって創られた刀なんだよ」

「なんと……」

 懐かしむわけでもなく、詰まらなそうにでもなく。いつもの皮肉気なにやにや笑いのままで、蝕は自らの過去を言の葉に乗せてゆく。

「とある刀鍛冶が居た。名は……別に良いか。そいつと俺は、珍妙な切欠で何故やら仲良くなっちまった。ちょうど――今回の宵丸とか、あんたみたいにな。お姫様」

「……ふむ」

「俺よりひねた野郎だったぜ――。『わたしの性根は夜中より暗いのだぞ、蝕! どうだ、御見それ行ったか!』とか呵呵大笑してたな……お前それ、ただの根暗じゃねぇか。根暗が御見それとか偉ぶってんじゃねぇよ、みてーな」

「さ、左様で……」

「俺くらいしかまともに話せる相手もいない根暗のくせに、ま……とんでもない寂しがり屋だったのさ」

 ひひ、と、間を置くように笑う。

「だから、『夜岬』を打った」

「……だから」

「そう、だから、だ。あろうことか、俺に忘れられたくなかったんだとよ」

「その方のお気持ちは……わからないでもありませぬ」

「はん、そうかい。だが、俺はそいつの下を離れた。『夜岬』の一振り目を貰ったのも、その時のことだな。『夜岬』に俺の舌が似ているんじゃねぇ――俺に似せて、その刃は創られたんだろうよ。で。――それで――ここまで至る。ひひひ、あの後二十三本も几帳面に同じもん創ってた――たぁ、知らなかったし、考えだにしなかったが」

「合わせて、二十四」

「そう、二十四――」

 二十四。

 その意味は――

 ――誰に向けたものかと、いえば。

「……滑稽な話だ。この場に居合わせちまったことで、何の因果か因縁か――結局忘れきれずに、あいつのことを思い出しちまうだなんてな。…………、策に綺麗に嵌ったのは、俺の方ってことかよ。しゃらくさいこと甚だしいぜ」

 蝕。

 むしばみ。

 虫が食むように――『むし』『はみ』。それは、『六と四』、『八と三』。掛けて、『二十四』と、『やみ』。――闇を、二十四振り。あいつから……いつかの蝕へ。いつの年か月か、あるいは日か。そのことに気付いて、自分を思い出して欲しいと――思い出さなかったとて、その闇色のみが、自らの居た、在った証になればと。ただそれだけの、あいつの思いだった。

 寄添った時が在ったと。

 それだけの――ために。

 呪われた夜を二十四回。

 黒すぎる刀を二十四本。

 一生を懸けてまで……。

「ひひ……全然笑えねぇ、駄洒落だ」

 そう、昔話を締め括った。

 話を咀嚼するように、黎姫は幾度か頷き……

「蝕様……。そのような、大切な品を――本当に、私なぞが所有してもよろしいものなのでしょうか――? もし資格という話をなさるのであれば、それは、とても私などには……」

 口篭るように、尋ねた。

「黎姫様よ。この刀が綺麗だと思ったんだろ?」

「は、はい……! それはもう……!」

「ならやるよ。くれてやる。資格ってんなら、それで充分だろ。大事にしやがれ」

 無造作にそう答える蝕。ここまでされた以上、忘れないという意味では――現物など、蝕にとっては不要であり、無用の長物だと――そんなところなのだろう。

 途端、黎姫は感極まったような顔となった。

 両手を二三度ぱたぱたっとさせてから、はっしと蝕の手を掴む。

「む、蝕様っ……!」

「ああ? 礼っつーんなら……」

 首を傾げようとする蝕に先んじて、黎姫は強く告げた。

 上目遣いで、歓喜と懇願の表情で、瞳を潤ませて。


「わ、私と夫婦になっては下さいませぬか……っ!!」


 呆然。

  唖然。

   苦笑。

    失笑。

 ――――脱兎。

 蝕の取った行動は、迅速これ極まりなかった。




(転、終)

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