二突き通し

 一条の光すら一片たりとも存在しない無明という状態を、人は闇と呼ぶ。その世界には、正しく何の色も無い。光が無ければ色も無い。つまりは光こそ、彩色の元なのだ。

 闇について。それは黒という色すらも生温く、無色といった方がより正しいのかもしれない。 色彩が無いということ。

 色が無ければ輪郭も無い。識別も無ければ区別も無い。全てが繋がっていて全てが同一で、自も無ければ他も無く、個も無ければ群も無く、一も無ければ全も無い。真実闇の中ならば。 際限無く、差異が無い。

 もし、視覚についての闇だけではなく――聴覚について嗅覚について味覚について触覚について、感覚についての闇が存在するとしたら。それこそ、何もかもが等しく無。そうなってしまえば、生と死の区別も無いのかもしれない。 生も、死も、殺す。

 彩無し。際無し。差異無し。

 そして、殺為し。

 彩為。あやなし。それは闇――。

 下らない言葉遊びだ。

 そんな曖昧模糊としたものがその言葉の意だとするのならば、彼にはきっと程遠い。

 とうの昔に決めた事。たった今決めた事。

 宵丸は刀を確かに、握り締めたのだった。



 *   *   *



 彩為城。

 その敷地内の一角に在る兵士用の稽古場に、二人の男がいた。閑散とした部屋に、二人だけ。片方は、白い肌に黒い髪の細身な美しい男。ゆったりと寝転んでいた。もう一方は、いかにも頑強そうな体躯に精悍なる表情の男。どっしりと座っていた。

「……で、まぁ……あれが、黎姫様だ」

 頑強そうな男が口を開く。

「ああ、あれが黎姫様かよ……」

 細身の男が応答する。

 そして、溜息をついて、上を見上げた。

「確かに、極上品の別嬪さんだったけどよぉ……変なお姫様だったな。面白いお姫様だったぜ。いやぁ、会った甲斐があったな。ひひ。っていうか、なんだありゃ? いつもあんな感じなのかよ、宵丸殿よ」

 その言葉に、頑強そうな男――宵丸は、苦笑して応じた。

「はは……。うむ。確かにあまり姫様らしくないな、黎姫様は。しかし変さでいうのなら、おぬしの方が上だと思うぞ? なぁ、蝕殿」

「ひひ。んー。そりゃどうも」

 蝕と呼ばれた細身の男は、体を起した。軽く胡座をかいて、そして先ほど会った姫様のことを、その黎姫のことを、思い出す。

 姫――ねぇ……。



 *   *   *



 あれから数日かけて、つまらないことや面白いことを適当に話したりしつつ(蝕は宵丸の三倍は喋った)、時折悶着を起したりしながら(その原因の殆どは蝕の軽口だった)、宵丸と蝕は彩為城に到着した。やはり色々と問題はあったようだが、どうにかこうにか最終的に――蝕の思惑通り途中で放り出すことなく――宵丸は、蝕の黎姫との会見を手配してくれたのだった。

 城の奥。

 向かおうと思うことすら億劫そうなほどの、奥の部屋。そこに、蝕は案内された。

「この戸の中に、黎姫様は居られる。少し話をしてくるから、ここで待っていてくれ。準備が整い次第呼ぼう」

「ああ。律儀に立ったまま待っていてやるぜ」

「座っても良いぞ」

「律儀に、立ったまま待っていてやるぜ」

「……なるべく急いで話をつけてこよう」

「頼んだぜ、宵丸殿」

「頼まれたぞ、蝕殿」

 数日間一緒に居たせいで変な風に呼吸が揃ってしまった、蝕と宵丸であった。……というか、宵丸はこの掴みどころのない男に向かって真面目に取り合うのに疲れただけであるし、蝕はこの真面目な男が刀を構える前にからかうのを止めることを学んだだけだった。

 宵丸が中に入り、戸が閉まる。ほどなくしてまた戸が開き、蝕に声がかけられた。

「入って良いぞ」

「おう、待ちかねた」

 中はそこまで狭くなく、かといってそこまで広くもなかった。控えめに開けられた窓から刺し込む光だけに照らされ、部屋の中は薄暗かった。宵丸は素早く、しかし音も無く、端の方に移動し、座る。

 奥の壁際に、鞘に入った刀が二十一本飾られていた。雰囲気から分かる。妖刀「夜岬」が二十四振りの内、二十一本まで。そして、つい先ほど入手した十七振り目は、この部屋の主が手に取り、眺めているところだった。鞘が傍らに置かれている。

 あれが――黎姫。

「黎姫様。お連れいたしました」

 厳かに、宵丸が告げる。

 黎姫は蝕から見て、後ろ向きに座っていた。

 大人しくも艶やかな色の着物。

 黒い――髪。

 まるで絹のようにしなやかで、ゆったりと広がったその様は、夜の川のように深く魅惑的で――――そう、綺麗な、髪だった。

「ご苦労、宵丸」

 澄んだ美しい声で、しかし……何処か曇ったような声で、その綺麗な髪の持ち主である黎姫は言葉を紡ぐ。

「貴方様が、十七振り目の『夜岬』を譲って下さったお方なのですね。蝕――様、と申されましたでしょうか? 刀を譲って下さっただけではなく、良くぞ私なぞに会いに来て下さいました……。恩人であらせられる蝕様に、こうやって直接顔を会わせてお礼を言えるとは、何と私は幸福なのでしょう……」

「まだ顔は会わせてねーけどな」蝕はいつものように飄々とした様子で、後ろを向いたままの礼姫に応えた。「なぁ、その噂の素敵なお顔を俺に見せてくれないか? ひひ。大丈夫、俺の方も見て損するような顔はしてねーからよ」

「おお、これは失礼をいたしました……。刀を見詰めるのに夢中になってしまいまして、上の空のままお話を続けてしまっていたのです。お許し下さいませ」

「…………」

 上の空のままさっきの長い礼を述べたとするなら、それはそれである意味大したものなのかもしれないが、誠意の篭っていない礼の言葉にどれほど意味があるものか……。そう思いつつも、とりあえず文句は呑み込んだ蝕だった。黎姫は、もう一度手元の刀を眺め、名残惜しそうに鞘にしまい、丁寧に『夜岬』が順に並べてある棚の所定の場所に戻し、そして、ゆるり、と、ゆっくり、と、優雅に蝕の方を振り向いた。

「      ……。」

 言葉を、失った。

 その顔……。その顔には。


 眉が無かった。

 目が無かった。

 鼻が無かった。

 口が無かった。

 顔が無かった。


 ……つまり、のっぺらぼうだった。

「…………」

「………………」

「……………………」

 …………………………。

「……。……ああっ、しまったのですっ! 驚くお顔を拝見させて頂きとう御座いましたのに、これでは私の方が何も見えぬではありませんかっ! これは失策に御座いました!」

 寒い沈黙に耐えきれず、一人、何か独白しながら仰け反る黎姫。どうやら面をかぶっているようだった。くぐもった声は、それが原因だったのだろう。

「…………」

「…………」

 残念ながら、蝕も宵丸も、突っ込みの言葉を思いつかなかったようだ。黎姫はあたふたとしながら面を外そうとする……のだが。

「……っ、あ……っ! あああっ! は、外れないっ! 外れませぬ! く、苦しゅう御座いますっ!」

 苦しいのはこの状況だ。

「は、早く! 宵丸、助けなさい!」

「は、はっ……」

 数秒かかって黎姫は救出された。

 ぜいぜいとしばらく息を整え、座り直し、乱れた髪を直して、蝕の方に改めて向き直り、そして優雅に微笑んで、黎姫は言った。

「お見苦しいところをお見せいたしました、蝕様。黎姫に御座います」

 これまた優雅にお辞儀をする。いかんせんその微笑みは取り繕ったような感が否めなかったが……面を取ったその顔も、言葉を失うのに充分なほどに、美しかった。

「……お見苦しいというか、息苦しかったのはお姫様の方じゃねーかよ……。全く、いきなりかましてくれるなぁ。蝕殿はちょっと驚いちまったぜ? ……ひひ、どうも。神喰蝕というのが俺の名前だ。改めて、よろしくお願いするぜ。宵丸殿から聞いた通り――ひひ。蕩けちまうくらいに美味しそうな、美しいお姫様だな」

「この度は、『夜岬』が十七振り目をお譲り下さっただけではなく、わざわざこうしてお越し下さいまして……礼の言葉も無いほどに御座います」

 しきり直しという風にそう述べ、静静と頭を下げる黎姫。宵丸が慌ててそれを止める。

「黎姫様。このような者に、頭まで下げる必要など御座いませぬ!」

「良いのです、宵丸。そのようなことを気にする人物など、今ここには居ないのですから。これは、私の気持ちを示すのに、必要な行為です」

「…………」

 凛と自分の姿勢を示す黎姫に、宵丸は押し黙る。黎姫はもう一度頭を下げてから、

「……しかし……何故――なので御座いましょう?」

 と。顔を上げ、疑問を口にする。

「何が、何故なんだい、お姫様?」

「たかだか私に会うという条件のみで、『夜岬』を譲ってくださった――その、理由に御座います」

「……」

 聡い。

 そう思い、一瞬詰まった蝕だが……。

「たかだか――と、申されましても、黎姫様。随分荒唐無稽な話なので御座いますぞ?」宵丸が、口を挟んだ。「このような、何処の馬の骨とも鹿の骨とも分からぬ男が、一国一城の姫君に会おうなどという話……『夜岬』ほどの刀の条件にしても、少々行き過ぎなくらいに御座いますぞ」

「さり気なくお前、俺のことを馬鹿呼ばわりしようとしなかったか?」とりあえず宵丸に突っ込んで。「まぁ良いや。そうゆうこったな。俺は女好きなもんで、美人と誉れ高いあんたの話を聞いて、是非とも会いたくなっちまっただけだぜ」

 軽くそう言う蝕。

「そうで御座いますか。……私にそこまでの価値があるとは、私自身はとても思えませぬが……、なんにせよ、お会いできて嬉しゅう御座います。ところで、さし当たって蝕様のお望みはこれで叶えられたことになるのでしょうけれど……この後はどうなさるおつもりなので御座いましょう?」

「んー。そいつは考えてなかったな」

「でしたら」黎姫は言う。「しばらくここに滞在しては如何で御座いましょうか? 蝕様は彼方此方を旅していらっしゃるご様子。この私、是非ともお話をお聞かせ頂きとう御座います」

 そうして薄く小さな可愛らしい唇で微笑む。見ている者が足元から溶けてしまうような、心奪われる微笑だった。

 そんな笑みを向けられて――蝕に、断ることなぞ出来るわけもない。むしろこの申し出は、願ったり叶ったりだった。

 その旨を伝えると、黎姫はより一層麗しい笑みを浮かべたのだった。その後ろで……宵丸は、少し、不愉快そうな顔をしていたが。



 *   *   *



 確かに、不自然な話だ。

 命を危険に晒しながらも、運良く手に入れた貴重な刀。そしてそれを強く欲する人物に出会っておきながら、その刀の代償として求めたことが、たかだか一国一城の姫君とのただの面会である。

 何も手に入らない。

 どう考えてもどう見ても、蝕はただの面会に意味を見出すような男ではない。誰かと会えた、ただそれだけのことを感謝するような性分とは、程遠い。望めば、もっと堅実な褒賞があったであろうし、……もし、女に飢えているというのなら、そこそこの器量の女であれば用意してもらえたであろうに。

 ――何故?

 それは、最もな疑問だ。

 予想できるであろう解答といえば……。

 城への取り入り狙い。

 他国からの情報収集――間者。

 あるいは、暗殺者。

 もしかして――刀狙い。

 ほとんどがろくでもない。――疑問に気付けるだけの頭を持っているのなら、これらの予想がつかないなどということはないだろう。

 しかし……。

 長い時を生き、移ろう世を見つめてきた蝕のような存在ならまだしも、年端も行かぬ世間知らずの姫君が。そんな小娘が、この時代に、その疑問に気付き……、加えて、それらの危険性を踏まえた上で、こんなにも怪しい人間の、城の滞在を提案するとは。

 ――間抜けか。

 それとも、相当肝が据わっているか。

 あるいは――何か、狙いがあってのことか。

「…………」

 そこまで考えて、蝕は体を起こした。伸びをしてみたが、身体が軋んでいる様子はない。

「……ひひ。ま、綺麗な姫様だったな」

 改めて、そう感想を漏らす。

「そうであろう。それでいて、可愛らしいところもあるぞ」

 宵丸が、誇らしげに答える。

 兄のような人物――だったか。

「宵丸殿の『夜岬』集めは、あの姫様に命じられてやってるんだっけか?」

「ああ。だが、命じられているというよりは……」

「頼まれて、か?」

「うむ。拙者としても、黎姫様に何かしてやりたくてな……。生まれつきの病で、黎姫様は外に出ることが、ほとんど叶わぬ身だ」

 宵丸は開いた窓から、青い空――飛んでいく鳥を見つめ、呟くように、そう言う。

「わざわざ、こんな戦乱のご時世に?」

「……うむ」

「わざわざ、各地に散らばった妖しい刀を求めて?」

「……うむ」

「わざわざ、あのお姫さんの喜ぶ顔が見たいがために?」

「……うむ。何が言いたい?」

 首を傾げた宵丸に、首を傾げて蝕は応える。

「別に」

「……」

 てめぇほどの腕持ってたら、お殿様がそんな不毛な捜索許してくれねーだろーに。それすらも押し切って、刀集めに全国行脚? 病気で先の短いお姫様のために? 阿呆じゃねーの。笑い話だぜ……とは、言わない。

 人それぞれだろうし、蝕は面倒臭い話が嫌いだった。どうでも良いと、思考放棄を――と、そこで、思い至る。

 他人を苛める好機なら――話は別だ。

「別に――あの麗しい黎姫様に、俺は惚れちまったかも知れねぇからなぁ。気を引くにはどうしたら良いもんか、と。宵丸殿の意見でも貰おうかってな」

「なっ……?」

 驚愕の宵丸。

「ならぬぞ! それは、ならん!」

「いや、冗談だよ」

「……冗談、か。驚かせるな」

 安堵の宵丸。

 蝕は、面白い玩具を見つけた猫のような――いや、そんなに生易しいものではなく――弱者をいたぶる強者のような表情をした。

「ん? んんん、んー、んん?」

 にやりと笑って、宵丸を値踏みするように見る。怪訝そうに、宵丸は尋ねる。

「な、なんだその顔は?」

「ひひ。そうゆうことかよ」

「どうゆうことだというのだ」

「よよいの宵丸ちゃんは、お姫様に惚れちまってるってことか。ひひひ」

「よっ、よよよよよよ、よよよよよいの宵丸だとっ! 貴様っ! 拙者の名を愚弄するのか! 拙者を侮辱するのか! 許せん許さん、蝕殿であろうとも許すまじ!」

「いや、そんなに言ってねぇよ……って、おぉぉおぉおおい!」

 顔を見る間に真っ赤にし、刀を抜く宵丸。

 刀を抜き放つ、宵丸。

 当然、そのまま蝕に斬りかかる。

「うわっ、ま、待て待て待てまっ……」

「問答無用!」

 振り下ろされる刀。避けるには体勢が悪すぎる――そうとっさに判断した蝕は、匕首で受けることにした。

 受け流すつもりだった。

 しかし。

 キャンッ!

「――――っ! 嘘だろ!」

 三味線をかき鳴らすような音と共に――匕首はすっぱり根元から切断されてしまった。

 いとも容易く。あまりに簡単に。

 断面は、鏡のように滑らかだ……。

 なんちゃって斬鉄剣。

 そんな馬鹿な。

「手前の刀は何製だぁぁぁぁ!」

 驚愕のあまり、思わず咆哮する蝕。

 それに対し、宵丸は壮絶な笑みで言った

「ふっふっふ。良くぞ聞いてくれたな! 拙者の刀は鍛錬と誠実さと実直さと一途な黎姫様への想い、さらに多大なる蝕殿への苛立ち、そして少々の鉄で出来ているっ!」

「んなこと、真面目に説明するなぁぁぁ!」

「覚悟っ!」

「そんな少々の鉄ごときで作られてる刀に殺されたくねぇよ!」

「安心するのだな! 殆どはお主への恨み心だ!」

「悪化しとるわっ!」

「ええい、黙れ黙れ黙れ黙れ!」

 泥仕合だった。

 そもそも真剣を室内で振り回すものではないし、人の真剣を弄ぶものではなかった。


 そして、しばし。


 疲れ果てた二人の男が、その稽古場ではぶっ倒れていたのだった。

「はぁ、はぁ、洒落になんねぇ……」

「ぬ、ぬぅ。良く全て躱しきったな……」

「避けきらなかったら、真っ二つの四肢断絶、八つ裂きに加えて十六分割されてたぜ……」

「それどころか三十二枚卸しにしてくれるところよ……」

「おいおい……元々くだらねぇ洒落だったんだぜ? 洒落で終わらせてくれよな? はぁ……」

「人の名を洒落にする方が悪いぞ」

「つーか、論旨があからさまにずれてた気がするぜ?」

「…………」

 押し黙ってしまう、宵丸。何故、自分があんなにも激昂したのか。そして、それでも蝕を誤魔化しきれてないことに気付く。が。

「……ま、良いか」

 ここで蝕は体を起こして、ぽんと膝を打つ。

「外に出ようぜ。そこで仕切りなおしだ」

「むぅ……? なんの仕切りなおし、だ?」

 ぴっと、蝕は宵丸を指差した。

「お前、手ぇ抜いてただろ?」

「……気付いていたか」

「たりめーだ」

 確かに――抜いた。

 刀と一緒に、手も抜いた。

 本気など出そうものなら、蝕はあっという間に細切れになってしまう。

 そう、思ったからだ。

「思い上がるんじゃねーよ。俺はそんなに食いやすかねぇぜ。――だからよ」

 宵丸が起き上がったのを見て、蝕は稽古場の戸を開く。

「黎姫をかけて、もう一仕合だ」



 *   *   *



 蝕。

 神喰蝕。

 変な男だった。今まで会った男達、今まで会ったことのある、どの人間とも違う雰囲気を纏っていた。とはいったものの、今までそれほど多くの人間を見てきたわけではない。精々、宵丸と父上に母上、乳母、世話人……数え上げても、足の指まで使えば事足りる。足の指を使って数えるなど、試したこともないが。やってみようとしたら案外難しいかもしれない。ひぃ、ふぅ、みぃ……嗚呼、やはり難し……いっ、つ、攣った攣った攣ったっ、……。

 思考が逸れてしまった。……あれは本当に人間、つまりは私達と同じものだったのだろうか……?

 何にせよ、要約してしまえば。

「蝕様はおかしな御仁であった」

 それだけのことである。

 それだけのことなのに――こうも気になる。

 まるで――望んでいたものに出遭ったのかのような、巡り会ったかのような、そんな心地がしたのだ。

 あの雰囲気はまるで……

「……」

 顔を上げる。

 部屋に備え付けられた小窓からは、青い空が見える。良い天気だ。耳を澄ませば、鳥の声、虫の声、遠くから人や馬の声、その気になれば風の声すら聞こえてしまいそうな、良い天気。そのはずなのに。

 ――私が惹かれるのは闇の色。

 闇に見入る。闇に魅入られる。

『夜岬』を、とくと眺めている。

 そうだ。あの雰囲気はまるで。

「まるで……夜岬の様な御仁であった……」

 黎姫はそう呟き、『夜岬』が十七振り目に鞘をした。

 す―― ぱ ちん。



 *   *   *



 稽古場の野外。

 防ごうとした腕の下を潜り抜け――脇腹を木刀が抉る。

 衝撃に耐え切れず、蝕はそのまま地面へ倒れ伏した。

「……っ、くはぁーっ! やめだやめ!」

 蝕は仰向けに倒れたまま、そう自分の負けを認めた。肩でぜいぜいと息をしている。

「……うむ」

 宵丸も頷き、構えを解いた。

 実際、勝負とはいえないほどに力量の差は圧倒的なものであった。そもそも、蝕は刀の構えすら碌に出来ないのだ。持っていた匕首はたまに訪れる修羅場に対して、不意打ちでそれを切り抜けるためのものでしかない。正々堂々の稽古試合など、性分として端から向いていないのだ。

 これで地に伏せるのも、幾度目かになる。

「しかし、蝕殿は呆れた丈夫さだな……」

 顔をしかめて、宵丸は言う。

「ああ?」

「木刀とはいえ――常人であれば、既に三度か四度は死んでおろう。拙者はそれ程の意気込みで、これを叩き込んだ。しかしおぬしは骨も折れておらぬし、血を吹きすらもしない。精精痣が滲んで見える程度――」

「……ひひ、まぁ――な」

 愉快そうに意地悪い笑みを、宵丸を見上げたまま浮かべる蝕。その様子を見て、宵丸は一つの懸念――疑念ともいうべき、初対面のときからずっと抱いていた違和感――を、口にすることにした。

「気配も人のソレではないしな」

 気配、雰囲気。

 曖昧としていて糢糊としている、頼りのないそんな感覚ではあるが……何処となく蝕という男は、人とは違う……いってしまえば、不吉な気配がするのだ。

 黎姫も感じていた、例えるならば、そう。

『夜岬』のような――そのような、気配が。

「ひひ、わかるかい。良い目をしてやがんな」

「……やはり。蝕殿は――」


「――アヤカシさ!」


 言いながら、蝕は跳ね起きた。

 と同時に、掴んでいた地面の砂を宵丸の目元へ放る。

「くっ!」

「ひひっ」

 たまらず目をつぶった宵丸へ、蝕は身を屈めて下段から木刀を振るった。

 ぶん!

 目を閉じた宵丸は、それに反応することすら出来ない!

 ……はずであった。

「なっ」

 かんっ。

 高く響く音と共に、蝕の木刀が払われ――、

 ずぐっ。

 ――鳩尾に突きが決まる、鈍い音が続いた。

「ぐっ、ふ……」

 再び、地面と仲良くなる蝕であった。

 苦笑しながら、宵丸は目をぐいぐいと拭う。

「――ふっふ。あやかしという割には、随分とせせこましい手を使うな」

「けほっ、……そうでもしねぇと勝てないことがわかったからな。遠慮無く容赦無く躊躇無く未練無く、が俺の信条さ。…………だが」半身を今度は起こして、諦めたように蝕は皮肉った。「目ぇ三つ持ってやがんのか、宵丸殿は」

「いや、そのような便利なものは持っておらぬがな。しかし、拙者も剣客のはしくれ。間合いに入った者は、常に把握している。自らの刃の届く範囲であれば、目など使わずとも対応はし得るのだ」

 得意ぶる様子も見せず、宵丸はそう説明した。そして、勝負は決定的に付いたと言わんばかりに今度こそ木刀をしまい――蝕の分も――縁側に腰掛ける。どっかりと。そこには、長年の鍛錬で練り上げられた確かな実力を持つ、強者の威容が漂っていた。

「たまげたね、こりゃ。ひひ」蝕も同じく、稽古場の縁側に腰掛ける。こちらはいかにも軽佻浮薄な風に、である。「だがそんな芸当が出来る人間ってのも、そうは多くないはずだぜ。つくづく腕の立つ剣豪だな、宵丸殿は……。こっちが吃驚仰天大きなつづら、呆れたっつーんなら手前様の腕前様の方さ」

 舌を切られることなぞ恐れたこともないのだろう、お世辞なのか賛美なのかはたまた当てこすりなのか、本心かもわからないような言葉をつらつらと、蝕みは並べ立てた。

 そんな言葉を受け流し、話題を変えるように宵丸が口を開く。

「本当にあやかしなのか?」

「ああ? どっちでも良いだろうが、そんなもん」

 面倒そうに蝕は言いながら、片目を瞑り、もう一度開いた。その瞳の色は……人に在らざるような、銀色をしていた。ぎらぎらと。それ自身が光を放っているかの如く、妖しく煌く。

「むぅ……」

 宵丸がそれを見て取った後、目の色を戻す。にやにやしながら、今度は蝕が尋ねる。

「……退治とか、しねぇのかよ?」

「しても仕方なかろう。今のところ実害があるでなし、今の打ち合いで闘い向きではないことが知れたしな。それに……おぬしのことは、拙者も――それから恐らく黎姫様も、少々気に入ってしまったゆえ」

「俺は男になんざ、俺は興味ねぇっての。気に入られたところで嬉かないな」

「はっはっは、そうか」

 互いに、外の景色をなんとなく見やる。次の発言を待っているかのように、穏やかな時が風と共に流れていく。

 少し間を開けて、――やっと――宵丸は、言った。

「……おぬしのいうとおりだ、蝕殿」

「うん? 何がだよ」

「拙者は黎姫様に惚れている」

「ほぉ……そうかよ」素直な野郎だな、苛め甲斐がないぜ――と呟いてから、蝕は続けた。「しかし、そのことを本人へ伝えてはいないように見えるなぁ、宵丸殿よ。お前さんらしかねぇんじゃないのかい? 秘め恋が可愛いのはおなごだけだぜ。男は堂々と思いをぶつけて何ぼだろ」

「そう言うな、蝕殿――拙者にも、立場というものがある。わかるであろう」

「ひひ、俺のことだ、そりゃわかって言ってるに決まってるだろが」

「意地の悪い男だな……妖怪とは皆、そうやって意地が悪いのか?」

「いんや、どうだかね」

 二人とも、まるで男友達のように苦笑して。それから。

「……黎姫様は、ああ見えて聡い」

「ああ……それは知ってる」

「ならば、拙者が黎姫様に抱いている心持にも気付いておられるのかも知れぬ。気付いて、のらりくらりと弄んでおられるのか――それとも。やはり純真に、そのようなことは露とも思わず、ただの兄のようにして拙者を見ておられるのかも、知れぬ」

「で? だから?」

「楽しそうな顔をするな、全く。だから……わかっておろうが。蝕殿も聡いのだから」

「分かってても聞きたいことはあるぜ? ひひ、言ってみろよ、恥ずかしいその言葉をさ」

 蝕はあくまで、態度を崩さない。他人が苦しんでいるのを見るのが大好きな性格なのだ。数日の付き合いを経て充分それをわかった上で、こうまで寛容に接している宵丸というのも、相当人が良いものだが。

「だから、『夜岬』を収集するのだ」

 宵丸はそう言って、立ち上がった。

「必ずしも黎姫のためだけじゃぁ――なく、己の決心やら覚悟やらを、自他に示すための材料――ってぇ、ことか。面倒臭い野郎だぜ、心底な」

「残すところ、たったの二振り――一振り目の行方はまだとんと知れぬが、二振り目の在り処は既に見当がついていてな」

「おう。なら……もう行くのか?」

 立ち上がった宵丸のほうを向きもせず、片頬を意地悪く吊り上げたまま、蝕は問う。

「ああ。長かった道中も、そろそろ終わる。終わったら――」

「…………」

「男らしくさせてもらうつもりだ」

「は……そうかい」

 宵丸は稽古場の隅に置いてあった刀を腰に差し、具合を確かめる。そのまま出て行っても構わなかったのだが、少し考え直し……毒にも薬にもならない、もしかしたら恥ずかしいだけのその言葉を口にすることにした。毒皿というものだ。

 軽く振り返る。

「おぬしは、良い奴だな――――蝕殿」

 蝕は滑稽な感じにずっこけた。

「……は、はぁ? やめろ、男は好みじゃねぇって告げた直後だろ。男に褒められるのすら慣れてねぇんだよ、俺は。怖気と虫唾が駆け抜けて、鳥肌が総立ち、さぶいぼがそこら中所狭しと埋め尽くしちまう」

「はっは、本当に良くもまぁ、舌の回る。……ここにはしばらく留まるつもりか?」

「どっちでもいいってのが本音だ。が、ま――わざわざ黎姫様のご好意で滞在させてもらってるわけだぁし、直ぐに出て行く理由はないわな」

「そうか。なら――拙者が居ない間、黎姫様を頼むぞ」

「…………」再び蝕は顔をしかめ、首を傾げて。それから、また嫌らしく笑って言う。「……ひひ、宵丸殿が居ない間に美味しく頂いちまうかも知れねぇぜ? それでもいいのかよ。何処の馬の骨とも――鹿の骨とも知れねぇ野郎なんだろ、俺は」

「だが、骨のあるアヤカシであろう。構わぬ、戻ってきておかしなことになっていたら、おぬしを三十二枚に卸すまでよ」

「六十四卦まで辿り着いちまうと、逆になんだか吉兆って感じだな。ひひ、敵わねぇ」

 ごろり、と蝕はまた横になり、左手をひらひらと振るう。

「んじゃ……行って来やがれよ。惨めな武運を祈ってんぜ」

「応。忝い」

 頷き、宵丸は今度こそ稽古場を――彩為城を後にした。



 *   *   *



 日蝕。月蝕。

 突然訪れる闇。日を喰らい月を蝕む暗黒。古来よりそれは、恐怖の対象であった。日蝕と月蝕の発生する原理は厳密には違うが、両者とも理解が容易であるし、歴史的に見ても割と早い内に解明されたものであり、しかも予測さえかなり昔から行われていたものであるが――日常という普通から外れた、異常なる闇――その不気味さ不吉さは、長らく生き続けた。

 日も月も蝕む、突然なる闇への恐怖。

 それが形を為した妖怪が、蝕だった。

 妖怪。アヤカシ。

 そもそもアヤカシというのは、どのようにして生まれるのか。

 簡潔に述べてしまえば、それは人の思念により生まれるのだ。

 人は、初めから妖怪を恐れているのではない。人の恐れこそが、そのもの妖怪と為るのだ。何かわからないモノを恐れ、何かわからないままに狂い、何かわからないゆえに噂し、何かわからないコトを思う――それらの思念、概念がやがて形を持ち、姿を為す。これが妖怪やアヤカシの成り立ちだ。

 思いの力。

 人の想像という指向性。

 それゆえ、一度生まれてしまった妖怪というのは、存在を知られることにより、より強固により定まった形へと、定着してゆく。彼らは例え死んでしまったとしても、彼らのことを知っている人間たちが居る限り――思われている限り、その存在が消えることはない。ほとんどの妖怪は、厳密な意味での死を持っていないのだ。アヤカシたる所以、である。

 つまり蝕という妖怪は、人々が日蝕や月蝕へ思いを馳せることがある限り、消えはしない。

 想いの力。

 人の創造という志向性。

 概念、思念、つまりは思惑が先に立つ存在として、だからこそ妖怪達は、止むを得ずそれらに強く縛られる。目的意識が存在理由であり、仕事意識が存在証明だ。何かを行う存在として思われた妖怪は、その行為を遂行し続けねばならないし、何物かを弱点とされた妖怪は、それに抗う術を持ち得ない。悪く生まれれば悪いまま、弱く生まれれば弱いまま。アヤカシたる因果、である。

 つまり蝕という妖怪は、然るべき時に日や月を蝕み続けなくては、ならない。

 性格も感情も思考も意見さえも持ち合わせていながら、如何様にしても克服できない習癖。何故なら、そう創られたのだから。存在と所業が同位であり同義なのである。

 さて。

 そういうわけで、宵丸が発ってから数日も経たない内に訪れし日蝕――日中の暗闇、白昼の真夜――妖怪『神喰蝕』、久々の存在意義到来であった。



 *   *   *



「…………あ?」

 目を覚ますと、見知らぬ天井が視界に入った。

 ……いや、一度は見たことがある――か。記憶と記憶が繋がり、認識が正常に戻るのを感覚しつつ、蝕は気だるげに体を起こした。

「お目覚めでらっしゃいますか、蝕様」

 声をかけたのは黎姫だった。

 中途半端な広さの、陰鬱なこの部屋の中で、彼女の声だけがやはり麗しく響いていた。二十二振りまで揃えて飾られている『夜岬』の雰囲気は、鞘に入ったままでも禍禍しく――しかしより一層、黎姫の存在を際立たせている。

「ああ……おはようさん」

 起き抜けに大好物な美人の顔を拝めたというのに、蝕みはやはり気だるげにそう応えた。らしくもなく、憔悴しているようだった。

「御覧になられましたか――先ほど、中天に輝きしお天道様が雲も無いのに姿を隠したそうな。天岩戸にでも御隠れになったのでしょうか……。私は外に出られませぬゆえ、そこな小窓から眺めるだけで御座いましたが」

「……知ってんよ……」

 他でもない、蝕の仕業である。

 だから、その分疲弊していた。

 より厳密にいえば、日蝕や月蝕など自然現象に過ぎないのだが、その期に合わせて蝕は『日や月を喰らい蝕む』、意識を、認識を、否応なく課せられる。先に述べたよう、人々の意識や認識、思念や概念こそがそのもの妖怪である。つまり、事実がどうあれ――結果的に蝕という妖怪が日蝕や月蝕を引き起こした、ということになるのだ。

「しかし、ちらりと暗いところを覗かせるとは、天もまた可愛らしいところがあるものです。夜を好む私としては、白昼の夜など差し詰め……普段つれないおなごがちらりと見せる照れた様子のようなもの……」

 あらぬ所を見つめて何をのたまってんだお姫様……と、蝕は怪訝そうな顔をする。

「そのような様子を縮めて一言で表しませれば、ずばり」

「ずばり?」

「つれなてれ!」

「語呂悪っ!?」

 しかし惜しいところだった。

 などと、時代を先取りするように蝕は思ったのだった。

「こほん。さても置きまして……、日が姿を隠し、また表しましてから一刻も経たぬ内に、蝕様が城内で倒れていると聞きまして。此処へ運び、休んで頂きますように、と」

「あーあー。了解且つ良好だ……。ようやっと話と覚えが繋がったぜ。少なくとも舌先に於いては、蝕さんはそろそろ全回復だぁな」

 開闢以来崇め奉られし日やら月やらを喰らうという所業は、流石に蝕としても疲労が溜まる。己が本性を現し、しばしの不安と闇をもたらした後、彼は彩為城の中で倒れていた。臆面もなく、泥のように。そこを発見されたのだろう。

 蝕は、身体ごとで黎姫と向き合う。

 礼を言うため――ではない。

「ひひ、わざわざありがとうよ、黎姫様よ。俺なんぞに気ぃ回してもらってな――。だが」

「……ですが?」

「無防備すぎるんじゃねぇのかい? 宵丸も居ねぇ今、得体も知れねぇ素性も知れねぇ、怪しいことこの上ない俺と、こんなそうそう誰も来ねぇような奥の部屋の中にたったの二人きり――だなんてよ。もしも俺に何の企みも事前の仕込みもなかったところで、あんたはそこまで美しいんだ」

 ちろり、と。

 犬歯を見せて、蝕は舌なめずりをした。

「俺に喰らわれないとでも、思ったのか?」

 ――ぞくぞくっ。

 必ずしも怖れからだけではない――そんな身体の震えを押し隠しながらも、黎姫は優雅に余裕を見せて返答をした。

「……初めにお会いした際にか告げました通り、蝕様を引き止めましたのは、旅の話を聞かせて頂く為。何分宵丸の旅上話は、『夜岬』に関したものに偏っていますゆえ。そのお話の機会を、此度ついでに頂きましたのみで御座います」

「……。返答になってねぇな。それが何の保障になる?」

「この部屋へ蝕様を留めた名分の方をこそ、本当はお尋ねになりたいのでは、と思いまして」

 詫びれもせずにそう言う。

 微笑さえ浮かべて。

「――保障というのでしたら、今この刹那にも宵丸がそこな戸を開くという可能性――それだけで充分では御座いませぬか。あるいは、例え人が寄ることが稀とはいえ――いくら私が忌み嫌われてるとはいえ――私は黎姫。彩為城の唯一にして二つには下らぬ姫君。私への謀反は、城への謀反。蝕様ともあろうお方が、そのような愚を冒すとは思えませぬ」

「ひひ――一体全体何処でそんな無謀な信頼を寄せたってんだ?」

「宵丸との試合稽古――その話を耳に入れました。宵丸に刃で到底敵わぬ蝕様が、これまでその単身で旅を続けてこられた理由――それは、狡猾さに他ならぬのではありませぬか」

「狡猾さ――目的もなしに、滅多なことは起こさねぇだろう――ってか。それでも甘い。甘い、甘い。その程度の浅い推察で、初対面の野郎を推し量るもんじゃ――」

「加えること」

 邪な笑みで半畳を打とうとする蝕を制し、黎姫は続ける。

「蝕様は一つお忘れになられております」

「ん?」

「私は『夜岬』の収集に取り憑かれし亡者が如きモノ――」

 優しそうでも、麗しそうでもない、しかしそれらを遥かに超えるほど美しく怖ろしい笑みを――年端もいかぬ少女が。世間も知らぬ小娘が。たかが一国一城の若姫君が――生白いかんばせに余すところなく表して。

「――その程度の脅威、私の闇への興味に比べませれば、全くどうともいたしませぬ些細な顛末、矮小な些事で御座いましょうぞ」

「ひひ……」

 こいつは――

 こいつは、曲者だ。

 道理で、宵丸が惚れるわけだ。

 道理で、二十二本も手元に置けるわけだ。

 黎姫という人間の女を語るのに重要なのは、その病弱さでも、その美麗さでも、その聡明さでもなく――その闇への、『夜岬』への執念――それのみか。

 蝕は認識を改めた。

 心底愉快だった。

「闇への興味、ね。ひひ、てぇことは、あんたも――俺の気配だとか雰囲気だとかに、引っかかるところが在るってわけか。つくづく目端の利く輩だぜ。それともあれか。そこにお行儀良くずらりと並んで鎮座しておわします、妖刀様の御加護かい?」

「……『夜岬』に似た匂い――禍禍しさ、底知れなさ、蝕様からはそういったものを感じます」

「ひひ、ひひひ……、そうかいそうかい。お姫様。姫君様。黎姫君様。俺は今気分が良い。こんなに狂った人間共と戯れられるのは久しぶりだ。愉快だ愉快。爽快だ爽快。奇怪だ奇怪。は、だから教えてやるぜ。あんたの両目と魂に、刻み付けて植え付けてやろうじゃねーか」

 蝕が、酷薄に笑う。今まで見せていた笑いと、それは違った。

 何処か皮肉気な微笑みとは違い、

 舐るように意地悪気な薄笑いとも違う。

 夜道で、黒猫に出くわした時に感じる――

 された側からのみ語れるような、表情。

 蝕は、嗤っていた。


「俺は――」


 舌を。

 真っ黒い舌を。

 闇のように暗く、夜のように黒く。

 何もかも呑み込んでしまいそうなほどに、深い冥の色をした、舌を。

 べろん、と。人間では考えられない長さまで伸ばし、蝕は言う。

「世の秩序を崩し、夜の狂気を喰らう、人と相容れることなき妖しき存在――」

 瞳は銀色。まるで月や日のように銀色に輝いていて。

 そのまなこで見詰められると、まるで魂の根底に住まう、心の裏側に息づく――『恐怖』がぎしぎしと疼くようだった。

「アヤカシだぜ」

 おおよそ人の雰囲気から、かけ離れた蝕。

『それ』と黎姫は真向から、向かい合った。

 彼女は、淑やかな唇を無意識の内に開き、はっと息を飲み、その形の良い眉を寄せ、可愛い目を見開き――しかし、その目に宿っていた感情は――叫んだのだった。

「素敵滅法でらっしゃいます!」

「……は?」

 叫んだのだった。

「なんと綺麗な御眼おんまなこでしょう! 輝いて、煌いて……まるで銀細工か宝玉の様……いえ、それらが纏めて滲んで翳んで価値など失ってしまいそうな程の美しさに御座います。そしてその御舌おんした! 深く深く、夜をそのまま刳り貫いて参りましたようなその色……いえ、色と称してよろしいものでしょうか? これはもはや、闇そのものと表現したほうがより的確で御座いましょう。ぬらぬらと蠢きながら、何をも呑み込まんほどの深暗……私の心も呑まれてしまったように御座います! ……そう、これこそ……この有様こそ『夜岬』に瓜二つで御座います……」

「…………」

 うっとりと、蝕の舌と瞳に見入る黎姫。

 うっとりと、人外の妖怪に見入る黎姫。

 恍惚としげしげと、何処かの螺子がすっぽ抜けてしまったかのようだった。その常軌を逸した様子といったら、蝕の方が面食らい、引いてしまうほどであった。というか事実引いていた。精神的に三町くらい引いていた。この姫様、すぐに刀を抜き放つ宵丸とはまた別の危険さがある。

「…………ひひ、おかしな姫様だな、あんた。珍味だぜ」

 とりあえず、やっとのことでそう言う。

 そろそろ喋らないと、舌をむんずと握られてしまいそうだった。

「あら。おかしいとは失敬な」

「いや、おんまなこに、おんしたはどうかと思うぜ? 響きが間抜けでこの上なく比類ない。そんな言葉は聞いたことがない。今の今まで俺は一切聞いたことがなかったぜ。新しいお姫様だな。ひひ」

 言いながら舌をしまい、瞳を黒に戻す蝕。

「戻してしまわれるのですか? 素敵でらっしゃいますのに」

「普段からあんなじゃ往来歩けねぇじゃねぇか。あんた以外のおなごは全員避けて行っちまう。そしたらこの世は地獄だぜ。閻魔大王様がお出でなさる前に、大事な舌をしまっておこうってぇ腹づもりさ」

「ははぁ、そうゆうもので御座いますか」

「ああ、そうゆうものなのさ。全く持ってそうゆうものの他ではあり得ないのさ。うんうん、双方理解に至ったみたいで蝕様は御機嫌だ。――ってぇ、ことで、俺はこれにて」

 蝕はおもむろに腰を上げた。

 黎姫がすかさずその裾を掴む。

 ぐい。

「どこへ発たれる御積りでしょう、蝕様?」

「可愛い娘と美味しい食事のある所へ、ちょいと。遠くのお空が俺を呼んでやがる」

「可愛い私がここに居て、美味な食事も用意させましょうぞ」

「自分で言いやがったなこのお姫様が。これ以上俺に何の用だ」

「蝕様がアヤカシであると聞いて、ますますこの城に留まって欲しゅうなりました」

「は。それでそこの刀達と一緒に並べて飾り立てて、毎日眺めて愛でてくれるってぇ?」皮肉気に黎姫を見下す蝕。「面白くもねぇ冗談だ」

「永久にとは望みませぬ! もうしばしで構いませぬから……蝕様。」

「だぁかぁらぁ……よぉ……」

 黎姫は――上目遣いだった。眉を寄せて瞳を潤ませて。きゅ、と蝕の裾を掴んだまま。

「だ、駄目で御座いますか?」

「いいぜ」

 あっさりと蝕は陥落した。

 彼にとって、黎姫は曲者以上に曲者だったかもしれない。



 *   *   *



「私もアヤカシに生まれとう御座いました」

 溜息のように黎姫は言う。

 あれから三日ほど後。蝕はちょくちょく、彼女に会いに部屋へ来ていた。特に何をするでもなく、他愛のない会話を――先に続くことのない、退廃的ともいうべき、何にもならないお喋りをするのだ。それが黎姫の願いであった。

 何してるんだかねぇ、俺も――というのが、蝕の余すところなき本音である。

 目的のようなものが無いわけでもない。理由のようなものも無いわけではない。しかし、少しでも風が吹けば吹き飛ばされていってしまうような、それらは軽い根拠であった。まるで、約束もしていない誰かと待ち合わせているかのような、立ち位置。

「アヤカシに生まれたかった――ってぇ?」

 適当に話を合わせる。

「ええ。あるいは、アヤカシになってしまいたい、でしょうか……」

「何で、そう思う」

「御覧の通り、私は虚弱に生まれた身。病魔に侵された、死に近しい体。単純な羨望を抱くなという方が、土台無理な話で御座いましょう。アヤカシは病にも罹らず滅多なことでは死ぬこともないそうではありませぬか。現に蝕様は、生まれてから千歳に上るほどなのでしょう?」

「まぁな」

「それに、使命による生まれ、在り方というのも素晴らしいでは御座いませぬか。私の生の、なんと虚無的なこと……。望まれずともすべきことがある生まれに、憧れずには居られませぬ」

 どうしてこんな話になったかは覚えていない。思い出す気にすらならない。どうせ昨日もしたような話だろうし、今日でなければ明日するだけだったろうとも思う。それは、この会話が不自然なものではなく、黎姫がアヤカシというものについて知ったとき、されて然るべきものだということだ。

 此処のところ黎姫は、『夜岬』を眺める時間が減っていた。

 代わりに蝕との――アヤカシとの対話を楽しむようになったのだ。

 蝕は面倒臭そうに応える。

「アヤカシつっても、色々――可笑しいくらい様々あるぜ。人間ってのも色んな奴が居るもんだが、アヤカシ共の比じゃねぇよ。数では人の方がずっと多いがそれだけに、其々の違いについちゃアヤカシに到底かなわねぇ」

「左様で御座いますか……」

「大体人がアヤカシになれるわけがないだろう。全然生まれが違ぇんだからよ。人に生まれちまったものは仕方がないし、アヤカシに生まれちまったものは始末がない。よしんばなれたとして――碌なものじゃあ、ねぇ。長寿なんてそれ程良い物じゃねーし、退屈なもんだ。使命についちゃ、詰まってないくせに窮屈な――がっかりがぎっしりの重箱みてーなもんさ」

「それでも、もしもアヤカシで居られるとしたら」

 ここで、黎姫は少し言葉を切った。

 再び息を吸い込む。

「ああ?」

「蝕様と共に在れるではありませぬか」

「そうかい……」

 今度は蝕の方が溜息をつく番だった。

 面倒臭い語らいがより面倒臭い空気を呼び込む前に、そろそろ今日はお暇させてもらおうか、などと蝕が胡坐を解こうとした――その時。第三者の声が響いた。

「黎姫様!」

 宵丸――ではない。

 黎姫でも宵丸でも、そして蝕でもない者の声が、積極的にこの部屋へ舞い込むというのは珍しいことであった。

 伝令の者が駆け込んできたのだ。

 わざわざこのような城の奥にまで知らされる内容とは、いかなるものなのか?

「黎姫様……」

 彼は動揺が微塵も隠しきれていない。急ぎ焦りながら、今しがた知らされた内容を正確に黎姫へ伝えようと努めるので、精一杯であった。

「なんだ。どうしたのだ?」

「宵丸殿が…………」

 あの、恐ろしい腕の、若剣士が。

 あの、空前絶後の、剣豪が。

「……え、宵丸が……?」

 見開かれる目、震える唇。驚きの表情。

 そんな黎姫を、蝕は横目で眺めていた。

 知らせは――


「宵丸が………………」


 ―――――――――――――――――――――――――――――――――死んだ。




(承、終)

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