第34話 誰がための剣1

 当直の士官がコーヒーを淹れて席に戻ってくると、ディスプレイの右上で警告表示が点滅していた。アルバ地下居住区をぐるりと囲むように敷設されたセンサー群に、何かが引っかかったのだ。

「南の森か……?」

 士官はコーヒーを啜りながらキーボードを操作し、該当地域に設置されたカメラ画像を呼び出す。

「どうした?」

 と勤務を終えて帰ろうとしていた上官が声をかけてきた。

「あ、はい。南の森で反応があったようなのですが……」

「どれ。見せてみろ」

 上官は彼の隣に来た。一緒に動画を確認する。

記録された映像の画質は低く、ノイズも多い。無線電波を敵に傍受されないように極限まで絞っているためだ。

「ずいぶんとノイズが多いな」

「いつもこんなものじゃないですか?」

 画像解析にかける。ノイズがいくらかマシになり、森を流れる川の様子が分かるようになった。特に不審なものは写っていない。冬ごもり前の熊が一頭、全力で走っていただけだ。

「熊か。えらく急いでますね」

「落とし物でも届けに行くんだろう」

 上官は古い童謡になぞらえた冗談を言った。当直士官はお愛想で笑って、

「……敵じゃなかったのはいいんですけど、何で警告が出たんでしょう? 熊ならシステムの方で自動で判別してくれるはずですが」

「ふむ」

 念のために他のセンサーから送られてくるデータもチェックする。特におかしな徴候はなかった。熊一頭がカメラの前を通過。それだけだ。各種データに齟齬はない。

「とすると、脅威度判定の方のエラーか……」

「どうします?」

「報告書を上げておいてくれ。明日にでも設備課に総点検させる」

「了解です」

 上官が退出し、当直士官は「余計な仕事が増えたなあ」とぼやきながら仕事にかかる。

 二人はついに気づかなかった。

 それらのデータが巧妙に偽装されていたことに。

 送信元が、自分たちの敷設したセンサー群ではなかったことに。



 その夜、日付が変わる頃、ハルは闇の中で目を開けた。

 瞬きをする。自分の居場所は分かっている。学校だ。授業が終わってから、帰ると見せかけて校内に戻ってきて、放課後もずっと隠れていた階段下の用具室。左の肩に暖かくて柔らかい感触がある。一緒に潜んでいたムラクモの肩が触れている。

「起きた?」

「ああ」

 と答えはしたものの、ハルは眠ってはいなかった。狭い用具室で無理な姿勢を取っていたこと。隣のムラクモの気配と体温。これからやろうとしていることの重大性。それらが神経を高ぶらせて、とても眠れたものではなかった。

 ハルは這うようにして用具室を出た。ずっと息を殺してじっとしていたので、全身が凝り固まって悲鳴を上げている。バキバキと間接を鳴らしながら体を解ほぐすと、痛気持ちよくて変な声が出そうになった。

 ハルが適当にストレッチなどしている間に、ムラクモは用具室に押し込んであったバッグを引っ張り出し、肩にかけた。準備完了。忘れ物はない。

 二人は無言で廊下を進み、校舎の端にある窓から外に出た。

 この時間帯、天穹の光は全て落ちている。星も月もない偽物の空は新月の夜よりもなお暗い。街灯も省エネのために半分以上が落とされていて、青ざめた光がぽつぽつと浮かぶ様子はまるで水の底か、別の世界へと迷い込んでしまったかのようだ。その感じ方は、そう間違ってはいないのだろう。人は本来、地底に暮らす生き物ではない。センチネルとの戦争が始まって以来ずっと、人類は元の世界へ帰ろうとあがき続けている。

「ムラクモ」

 呼びかける。校舎をを見上げていたムラクモが振り返る。

「ごめん、これで最後だと思ったら、ちょっと名残惜しくて」

「……」

 本当にこれでよかったのだろうか――一瞬、そんな思いがよぎった。

 これで最後。

 ムラクモは今夜、アルバ地下居住区を出る。そして二度と戻ってこない。

 ――もう、戦わなくていい。

 ムラクモは十分に戦った。十分に苦しんだ。この上命まで取られる必要はない。

 このままいればいずれムラクモには出撃命令が――書類上は兵器の扱いなので、配備変更指示になるのだろうが――下り、彼女は捨て駒にされる。

 そうさせないためには、逃がすしかない。

 初めに考えたのは、地上での訓練中に行方不明にすることだった。これが一番簡単だし話が早い。だが先月のセンチネルとの遭遇戦が起きて以来、地上での訓練は中止されたままである。

 次に考えたのは移送が始まってから、途中で脱走すること。だが、これにはムラクモが反対した。移送はムラクモ一人だけではなく、数名の軍関係者が一緒になる。ここでムラクモは護衛戦力として計上されていた。道中の安全をムラクモが守らなければいけないのだ。ムラクモが途中で逃げ出したら、同行者は護衛もなしに荒野のまっただ中に取り残される。そうなったら無事では済むまい。

 脱走するのに今更義理立てしなくても……と思わないでもないが、同行メンバーにはアイリの姉であり、軍の技術者と結婚したマリアも含まれていた。

『軍にはいい感情ないけど、今回一緒に行く人たちが、直接あたしに酷いことしたわけでもないし、委員長のお姉さんを死なせて自分が自由になるのはさすがに寝覚めがね』

 ムラクモはそう言い、ハルとしても、委員長を悲しませたくはないと思った。

 それで移送前に脱走してしまうことになった。

 校舎を出た二人は防犯カメラの死角から塀を乗り越えた。街路を外周に向かって進む。外周に突き当たったら、壁に沿ってエレベーター駅の方へ少し進むと、コンクリート製のトンネルがある。大きさは縦横共に三メートルほど。奥に金属製の扉。

「メンテナンスピット?」

 ムラクモが口にした名前の通り、それは地下居住区の保守管理のために穿たれた横穴である。岩盤にセンサーをセットして各種のデータを収集し、地震や漏水、その他不慮のトラブルに備えている。深さは場所によってまちまちだが、地下居住区のあちこちに存在する。

「でもこれ、行き止まりでしょ?」

「他の場所はね。ここのピットは僕らが地上での訓練に行くときに使うトンネルにつながってる。もちろん、そっち側の出入り口は偽装してあるけど。工事の際の測量ミスで、間違って繋いでしまったらしい。もう十年以上前の話。それでもちろん、最初は塞ぐつもりだったらしいんだけど、工事関係者の中に不心得者がいて、こっそり秘密の出入り口に作り替えた」

「なんでそんなことを?」

「肉が食べたかったから」

「はあ?」

「肉だよ。天然の。鹿とか熊とかの肉。地下居住区じゃ合成肉しか食べられないから。ときどきここから出入りして、狩ってくる。地上は人間がいなくなってから動物がガンガン増えてるらしくて、この辺でも割と簡単に獲物が見つかる」

「密猟」

「獲ってはいけないって法律はないんだな」

「でも許可なく出入りするのは禁止でしょ」

 もちろんムラクモの言う通りである。勝手に地上に出て、うっかり活動の痕跡などを残して、センチネルに発見されでもしたら地下居住区全体の危機である。けれども密猟者は存在するし、本物の肉は高く売れる。

「俺たちの世代だと生まれたときから地下居住区で合成肉しか食わずに育ってるからそうでもないけど、ある程度以上のじーさんばーさんは地上の暮らしを覚えてるから、どうしても食べたくなるんだってさ」

 ハルとしては年寄りたちの気持ちは分からなくもない。以前住んでいた居住区では魚の養殖をやっていて、日常的に魚を食べていた。アルバに来てからは魚を一度も食べていないので、たまに猛烈に食べたくなる。巨大ビーチが作れるんだから魚の養殖もすればいいのに……と思うのだが、山育ちばかりのアルバの住民は魚など食べられなくても気にしないらしく、魚類の養殖は議題にも上がらない。ハルにとっては残念なことである。刺身食べたい。

「呆れた」

「でもそのおかげで外に出られるんだから感謝だ」

「そう言われると複雑ね……」

 ムラクモは唇をむにむにと動かした。

「というか、何であんたがそんなこと知ってるのよ?」

「それは秘密。約束がある」とハルは答えたが、別にムラクモになら言ってもいいかと思い直して、「マンションの管理人が密猟者なんだ。偶然見ちゃって」

「ときどき分けてもらってる?」

「いや、俺は本物の肉はあんまり好きじゃない。血生臭いのが苦手で」

 何でこんなこと話してるんだろう。もうすぐお別れだというのに肉がどうとか密猟がどうとか。まあそれでいいのかもしれない。盛り上がったりしたら、本当にもう二度と会えなくなるような気がするし。

 そんなことを思いながらハルは電子ロックを操作した。アパートの管理人は、冷蔵庫に謎の数字を書いたメモを磁石で止めていた。あれがきっとパスコードだ。ビンゴ。ランプが赤から緑に変わり、扉が小さく震えた。

 ハルは扉を開け、ムラクモに向き直った。

「……開いたよ」

 ムラクモは出て行く。ハルは適当二時間を潰し、翌朝学校に行く。メンテナンスハッチの開閉記録は残るが、問題ない。ムラクモは今の今まで密猟とメンテナンスハッチの関係を知らなかった。そのムラクモがここから逃げたと考える人間は、一人もいないだろう。

「うん」

 うなずき、けれどムラクモは歩き出さない。

「さよなら……じゃあ、ないわよね」

「ああ。また会えるさ」

 ハルはうなずいた。

 今日、旅立つのはムラクモだけだ。ハルはアルバ居住区に残る。ネリーを置いてはいけない。

「俺は一緒に行けない。けれど、軍学校を卒業したら軍に入って、もっともっと強くなって、エクスマキナを全部やっつけて、戦争を終わらせる」

 戦争が終われば、ムラクモが戦う必要はなくなる。そのとき、この意地っ張りで、その実寂しがり屋で優しい最終兵器は、ただの女の子として存在できるようになる。

「そうなったら、また会おう」

「うん。そしたら、また一緒に……」

 そんなことが本当にできるのかどうか――ほとんど不可能だということを、二人とも理解していた。アルバを出てもムラクモが逃げ切れる保証はないし、ハルの方も戦争を終わらせるどころか、生き延びられるかすら分からない。

 でも。それでも。

 これは永遠の別れではない。離れるのは一時のことだ。

 いつかまた、きっと会える。

 そう思うことが、信じることが――未来への祈りが、二人には必要だった。

「じゃあ、またね」

 ムラクモは精一杯の笑顔を作って、そう言った。

「ああ」

 またな、とハルが答えようとしたそのときだった。

「……自分だけ被害者面して逃亡か。兵器のくせに」

 夜の天穹よりも、坑道の闇よりもなお暗く、低い声が、背後から響いてきた。

「そんなふざけたことが許されると思ってるのかよ。ああ?」

 振り返ったハルとムラクモはそこに、静かな怒りと情念を燃やす一対の瞳を見た。

「ガロン!」



 駅からそう遠くないとはいえ、もうエレベーターの運行も完全に終わった真夜中である。外縁に沿った路地には、大通りの灯も届いていない。

 その闇の中で、ガロンの双眸が肉食獣のように輝いている。ハルとムラクモを見据えている。

「ガロン。どうして……」

「見張ってたのさ。このところ様子がおかしかったからな。そうしたら今日は下校したか思ったらこそこそ戻ってきた。それきり学校から出てくる気配がない。校内に隠れて何かやるつもりかと思ってたら、真夜中に荷物抱えて出てきたとなれば、後は一つだ」

「……」

 ハルは黙り込んだ。ガロンが自分たちを見張っていたことに、全く気づいていなかった。周囲の警戒はもちろんしていたつもりだが、しかし、主な警戒は軍や兵士に向いていた――当局に見つかってはいけない、と。それがまさか、同じ学校の生徒に疑われていたとは。

「お前、自分が何をしているのか、分かってるんだろうな、ハル?」

 考える。ガロンはもう通報してしまっただろうか。いや、それなら今すぐにでも憲兵か何かが駆けつけてきててもおかしくはない。ならば、

「分かってるさ――これが正しいことだってな!」

 言うと同時にハルはガロンに飛びかかった。いきなりそう来るとは思っていなかったのだろう、ガロンの反応が一瞬遅れ、ハルはガロンと組み合うことに成功した。

「ハル!」

「ムラクモ! 行け! 今のうちだ!」

「ハル、テメエ!」

 ガロンがぐっと力を込めてくる。ハルはそれをいなし、けれど決して離れないようにうまく姿勢をコントロールし、ガロンをその場に足止めする。

「くっ……強い」

 アサルトギア無しの本人のみの力ではガロンの方が上だ。一瞬でも気を抜くと突破されてしまう。

「早く行け!」

「でも……」

「行かなきゃ死ぬんだぞ! 俺はお前に死んで欲しくないんだ! 頼む!」

「ハル……」

 ムラクモは逡巡し、しかし意を決してメンテナンスピットへと駆け込んだ。ガロンがムラクモに意識を向ける。その一瞬の隙にハルはガロンを地面に転がして、ピットの扉を元通りに閉めてロックした。

「いくら何でもここのパスコートまでは知らないよな」

「ああ……だが問題ない。お前から聞き出せばすむことだ」

 ハルとガロンが対峙した。二人とも構えらしい構えは取っていない。一見リラックスして、けれど神経は極限まで張り詰めている。先に動いたのはガロンだった。左の襟を取りに来る――と見せかけて指を伸ばし目を狙う。

「っあ! おい、本気か!? 今のは洒落にならんぞ!」

「洒落にならないことをしているのはお前の方だろうが!」

 攻撃を続けながらガロンが叫ぶ。格闘訓練でムラクモに殴りかかったときと同じ、喪失の悲しみと怒りを帯びた雄叫びだった。

「どうしてあれを庇う? あれは兵器だ。ただの機械だ!」

「ただの機械じゃない!」

 反撃。懐に潜り込み、伸ばされた腕を掴む。肘を折られると察したガロンが逆の手でハルの腕を打とうとする。ハルがブロック。至近距離での肘と拳の応酬になる。

 確かにムラクモは機械だ。人間によって作られた。

「あいつには心があるんだ! 人間と同じ、いや、人間よりも優しい心が!」

 ハルの拳がガロンの頬を捉えた。振り抜く。けれどガロンは倒れない。

「その優しい心で、俺の姉さんを見殺しにしたのか!」

「違う。エムス砦は手遅れだったんだ。ムラクモのせいじゃない」

「そう言われてはいそうですかと、納得できたら苦労はないんだよ!」

 ガロンの強烈な右フックがハルの脇腹にめり込んだ。ハルは体をくの字に折ってうめく。

「テメエは何でいつもいつも笑ってるんだ! テメエだって家族を亡くしてるだろうが! エクスマキナが憎くないのか! 機械共が憎くはないのか!」

 ハルのアッパーがガロンのみぞおちをえぐる。

「どうしてだ! ハル! どうして毎日へらへらしている! どうして訓練に集中しない! 真面目にやれ! お前はもっともっと強くなれるはずなんだ! お前は他の連中とは違う! 俺と一緒に戦える奴は……俺の苦しみが分かるのは、ハル! お前だけなんだよ!」

 言葉と一緒に重い拳が降ってくる。大砲のような拳打の雨。両腕で頭をガードしながら、ハルはガロンの思いを受け取っていた。

 ずっと、嫌われているのだと思っていた。だがどうだ。これでは全く逆だ。ガロンはハルに共感を覚えていたのだ。同じように家族と故郷を失ったものとして。思いを共有し、手を取り合って共にセンチネルに立ち向かう日が来るのだと、ガロンはそう期待していたのだ。

「答えろ! ハル! 答えろ!」

 乱打、乱打、乱打。感情が高ぶりすぎて技もへったくれもない乱打。

「そうやって復讐に取り憑かれることを、義父さんと義母さんは望んでなかったからだよ!」

「っ!」

 乱打の隙間にねじり込んだストレートがガロンの顔面を捉えた。ガロンがよろめく。

「俺にだって人並み程度には、怒りや憎しみがあるよ。家族の仇も取れるなら取りたい。でもな、そういう感情に支配されて、戦うことだけを考えて、戦うためだけに生きてたら、それって、お前が憎む機械共と何が違うんだよ?」

 殴る。殴り返される。

「違う! 俺は自分の意志でそうするんだ。理由があるから戦うんだ」

 ハルはうなずいた。そして殴り返す。

「俺たちには戦う理由がある。自分の意志でこの道を選んだ。……でも、ムラクモには戦う理由なんてないんだ。一つも。無理矢理戦わされてるんだ」

「……」

 これが人間だったらどうだろう。生まれつき将来を決められて、自由意思など一つも認められなくて、用が済んだら死ねと命じられる。そんなことが許されるはずがない。

「だが、あれは機械だ。心なんてものはない。あるように振る舞っているだけだ!」

「そんなの、人間だって同じじゃないか」

「何……だと?」

「そうだろ? 俺たちがこんなふうに喋ってること、お前のその怒り、それが本当にお前に心なんてものがあって、それがお前を動かしているんだって、一体どうやって証明する?」

「屁理屈だ!」

 怒鳴り、ガロンは拳打の雨を降らせる。ハルは防御に徹しながらさらに言葉を続ける。

「そうかもしれない。でもさ、俺には違いが分からなかった。人と機械の。人工知能と本物の心の。区別がつかないならさ、それは同じものでいいんじゃないか? 少なくともあいつは、ムラクモは俺たちと何一つ変わらなかったよ。笑って、泣いて、怒って、喜びもすれば恥ずかしがりもする。あれが人じゃないなら、なあ、人って何だ?」

 ガロンは答えられなかった。振り上げた拳が、止まる。

「……そんな話、軍には通用しないぞ」

「だろうな」

 ハルはその場にどっかりと座り込んだ。

 もうムラクモはメンテナンスピットを抜けて、地下トンネルに入った頃だろうか。これから憲兵がやってきて状況を把握して追撃部隊が出るまでには、地上に出てどこかへと消えてしまっているはずだ。ムラクモの逃げ切りは確定した。ハルの仕事は終わったのだ。

「さ、煮るなり焼くなり好きにしてくれ」

 ガロンがポケットから個人用電子端末を取り出す。通報しようとして、ためらう。

 その瞬間、真夜中だというのに天穹が一斉に明るくなった。突然の眩しさにハルとガロンは思わず目を伏せる。続いてけたたましいサイレンが聞こえてきた。

「おい。これは……」

 二人は同時に頭を上げ、互いの青ざめた顔を見た。

「第一種警報だ」

 その意味する状況はたった一つ――敵襲である。

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