第21話 ネリーとムラクモ8
寒い夜、ネリーは決まって嫌な夢を見る。
内容はいつも一緒だ。アーネム居住区がセンチネルに襲撃されてお父さんとお母さんが死んでしまった日の数日後、真冬の地上。廃墟の一画に隠れて震えた日の夢。現実にはそばにはハルがいたはずなのに、夢の中ではネリーは一人きりだ。
今日もまた、その夢を見た。
いつもの夢に、怖さはもうほとんど感じない。けれども言いようのない心細さ、泣きたくなるような気持ちになるのは避けられない。そんなときネリーは、ハルの布団に潜り込む。ハルの胸にしがみついていれば、暖かくて、安心する。
けれども今日は、夢の中からして様子が違っていた。
廃墟でうずく待っているのは一緒だが、寒さは感じていない。
……歌?
そう、歌が聞こえていた。
小さな声の。優しい、でも悲しみを帯びた歌声。歌詞は分からない。ネリーの知らない、異国の言葉で紡がれていた。夢の中なのに(夢の中だから?)何故だかそれが分かった。
「……ん……」
ぼんやりと、目を覚ます。歌声が少しはっきりした。
枕元で誰かが歌っている。
「……おかあ、さん?」
擦れた声で呼びかけると、歌はやんでしまった。もっと聞きたかったのに。そう思って体を起こそうとすると、
「まだ寝てなさい」
叱られて額を押された。ネリーはベッドに体を預ける。そこでようやく、相手が誰なのか分かった。おにいちゃんがうちに連れてきた、やたらと綺麗な人だ。名前は、確か……
「ムラクモさん……」
ムラクモはうなずいた。
「……おにいちゃんは」
ムラクモは黙って隣のベッドを示した。そこにハルが突っ伏して寝息を立てていた。
「さっきまで起きてたんだけど、力尽きたみたい。まあ無理もないわね」
肩をすくめるムラクモ。
ネリーは目だけを動かして周りを見た。
「……病院」
「そう。ここは居住階層にある病院よ。頭痛とかしない? 何があったか覚えてる?」
最初の質問の答えはノー。次の質問の答えは半分イエスだ。
「……トンネルで、穴に落ちて……助けてくれた……んだよね?」
訊ねる声が震えている。思い出したのは、あれこそ夢だったのではないかと思えるようなことだった。
「ネリーを背負って、穴の底からものすごいジャンプをして」
そう言うとムラクモは顔をしかめた。
ネリーは何かまずいことを言ってしまったのかと不安になった。
「んん……ネリー! ネリー! どこだ!」
突然だった。
ハルが叫んで飛び起きた。目覚めたハルは周囲を見回し、
「……ネリー。ネリー!」
義妹の意識が戻っているのを見て、感極まって飛びつこうとする。それをムラクモが片手で止めた。
「何するんだ!」
「相手は病人でしょ。落ち着きなさい。……もうネリーはどこにもいきやしないんだから」
ムラクモが呆れたように言った。
「そうか、うん、そうだな。ネリーは無事だったんだ……」
ハルはそう言うと俯いて泣き出した。
ハルがネリーの前で泣くのは、アーネム地下居住区が襲撃された日以来だった。
義兄の泣く姿を見てネリーは、自分が大変なことをしてしまったのだと、あとちょっとで取り返しのつかないことになるところだったのだと痛感した。
「……おにいちゃん、ごめんなさい。ネリーは悪い子でした」
「ネリー」
ハルは義妹の名を呼び、静かにベッドに近付いた。たった二人の義兄妹は、夜明け前の病室で静かに抱擁を交わす。
「ごめんな、ネリー。よかった。お前が無事で本当によかった……」
抱擁は長く続いた。気まずくなったムラクモが病室から出て行こうかと考えたとき、ハルはようやく抱擁を解いた。けれどもネリーの両手はハルの左手を掴んだままだ。
「ありがとうな」とハルはムラクモに言った。「こうしてネリーと話ができるのも、お前がいてくれたおかげだ」
「……べ、別に」とムラクモは赤くなった顔をそらし、「……元々はあたしが押しかけたのが悪いようなものだし……」
「誰が悪いとか言うのはやめようぜ。ネリーは無事だった。それで問題なし。ネリーもそれでいいよな?」
「うん」
とネリーはすぐに頷いた。命を助けてもらったことで、ムラクモへの反感はほとんどなくなっている。全部、とは言えないのは、ムラクモとハルの関係がまだよく分からないからである。助けてもらった恩はあるけど、おにいちゃんを取られるのはやっぱり嫌だなあ。幼いながらも複雑な乙女心であった。
「それで、ムラクモさんって一体……」
ハルとはどういう関係なのか。坑道で見せた身体能力は何なのか。
ハルとムラクモが顔を合わせた。
「……あたしのこと、ネリーには教えるべきだと思う」
「いいのか?」
「機密のことならどうでもいいわよ。隠したいのは軍であってあたしじゃないもの。本音を言えばこそこそしてるのも性に合わないのよね。まるで犯罪者みたい。ってそんなことは今はどうでもいいじゃない。……一緒に住ませてってお願いする側が、自分のこと黙ってるのってフェアじゃないと思わない?」
ハルはうなずいた。本人がそう決めたのなら反対する理由はない。
「ネリー、あのね」ムラクモは少しだけためらったが、「あたし、実は人間じゃないの。軍が作った秘密兵器なの」
「……え? ……これ冗談? それとも夢の続き?」
さすがにこれは想定外だったのだろう。ネリーは目を丸くし、助けを求めるようにハルを見た。ハルはムラクモに目配せをする。
ムラクモは立ち上がると、隣のベッドの枠を掴んだ。ひょいっと持ち上げる。ベッドはまるでフォークリフトに乗っているかのように、微動だにしない。音を立てないように降ろす。
「え? わ? ええっ!」
今度はハルがネリーに個人用端末を渡した。
「何?」
首を傾げるネリー。そこに着信があった。発信者は「ムラクモ・アマノ」となっている。戸惑いながらもネリーが電話に出ると、
『もしもし?』
端末からムラクモの声がする。ムラクモの口は動いていない。
「え? 腹話術?」
妙な理解をするネリーにハルは苦笑した。
『内臓の通信装置を使って電話をしているの。ネリーは今瞬きをした。もう一回。左手を意味もなく動かした。口を押さえた。ピースサインを出した』
電話の声がネリーの動作を逐一語る。見ていなければこうはできない。しかし病室のドアもカーテンもしっかり閉まっており、誰かが覗くことは不可能だ。電話の相手は部屋の中にいるとしか考えられない。
「信じてもらえた?」
ムラクモが肉声で訊ねると同時に通話は切れた。
手品のようなダメ押しに、ネリーはただただうなずくしかない。
「じゃあ信じてもらえたところで……」
ムラクモは静かに説明を始める。自分が軍の研究所で作られたこと。軍学校に通うためにアルバ居住区に来たこと。でも学校で問題を起こして寮にいられなくなったこと。それを気の毒に思ったハルが、家に置いてくれることになったこと――あれこれ端折ったので正確ではないけれど――事情を聞いてネリーはうなずいた。
「……ムラクモさんは、一人ぼっちなんだね」
「うっ」
とムラクモがうめいた。友達なんていらないわよバーカバーカ、というような態度を取っていたのに、実は結構気にしていたらしい。
「いいよ。うちにいても」とネリーは言った。
「本当に? あたしは兵器なのよ?」
「そんなの関係ない。ネリーのこと助けてくれたし。ムラクモさんは兵器でもいい兵器」
「……」
「でも一つだけ条件」
「何? 言われなくてもハルを取ったりはしないわよ。てか願い下げだしこのセクハラ男」
「おい」とハルが抗議する。
ネリーはムラクモをまっすぐに見上げて、
「あのね…………『おねえちゃん』って、呼んでもいい?」
「お、おお、おねえちゃん!?」
ムラクモが目を白黒させた。うろたえる。
「ダメ?」
上目遣いで訊ねたネリーに、
「ダメ………………じゃないわ」
ムラクモは顔を真っ赤にしてそう答えた。
「よかった」とネリーは微笑み、「それとおにいちゃんのこと悪く言うのはやめてね。それから、おにいちゃんのお嫁さんはネリーだけだからね」
ほんのりと黒いオーラをにじませながら付け足したのだった。
ハルは学校を休んでネリーに付き添った。ムラクモも一緒だ。
目を覚ましたネリーは、半日前には死にかかっていたとは信じられないくらい元気で騒々しく、閉口した医者は半ば追い出すような態度で、夕方になると退院の許可を出した。
退院したネリーとムラクモと、三人で帰宅する。途中の食堂で夕食にしようかと思ったのだが、食事ができないムラクモをただ座らせておくわけにはいかないので、テイクアウトすることにした。
その夕食も済んだ夜。
シャワーも済ませ、パジャマに着替えたネリーが、ソファーで大きなあくびをした。いつもよりも早い時間に眠くなったのは、さすがにまだ疲労が残っているからだろう。
「今日はもう休め」
「うん」
いつもはなんだかんだ理由を付けて夜更かししようとするのに、今日のネリーは素直に立ち上がった。眠そうな目で、ハルを見る。
「何だ? 一緒に寝たいのか?」
さすがに今日くらいはいいだろう、とハルは思った。大変な一日の後だったのだ。少しくらいは甘えても許してやろう、と。けれど、
「おねえちゃん」
「あ、あたし!?」
他人事のような顔をして座っていたムラクモが指名されて動揺する。
「……ネリーが寝るまで、あの歌、歌って欲しいの。ダメ?」
ネリーが上目遣いで訊ねる。
「し、仕方ないわね。どうしてもって言うんなら歌ってあげなくもないわ」
「やったあ」
ネリーがムラクモを引っ張って自分の部屋に行く。
「あ、おにいちゃんお休み」
とってつけたようなあいさつが、おにいちゃんはちょっと悲しい。
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