第17話 ネリーとムラクモ4
「ネリー、今日もうちに泊まるの?」
放課後の初等学校。
教室で帰り支度をしていたネリーは、一番の友達であるレオナにそう訊かれた。
「迷惑?」
「ううん。私はネリーと一緒だと楽しいよ。何日でも泊まっててくれればいいと思う」
「だったら」
「でもさ、やっぱりおにいさんと仲直りした方がいいと思うんだ。ネリーが怒ってるのは見たくない。ううん。ネリーが怒るのは分かるよ? 私がネリーの立場で、いきなり知らない女の人連れてこられたら、私だって裏切られたーって思うかもしれないもん。でもさ、ネリーのおにいさんって、ネリーのことすっごく大事にしてくれてるじゃない? そのお兄さんがさ、ネリーのこと、適当に、じゃないな、なんて言うんだろう。ゼンザイ、じゃなくて、ソンザイ、じゃなくて……まあ何でもいいや、ネリーのこと裏切ったりしないと思うな、私は」
でも実際そうなのだ。おにいちゃんはネリーに何の相談もせずに突然、知らない女の人を連れてきた。住ませるとか言ってる。あり得ない。
「だからさ」とレオナは辛抱強く言う。「おにいさんのほうにも、何か事情があったんじゃないかな。ネリーはおにいさんの言うことちゃんと聞いてなかったでしょ」
「……」
それは、確かに、そう。ネリーはハルの言い分を聞かなかった。
ハルの裏切りは自明のことだった――本当に?
お兄ちゃんは優しい。ちょっと悔しいけど、ネリー以外にも優しい。困ってる人を見ると放っておかない。暗い顔をしている人を見るとすぐに冗談を言ったり、からかったりして笑わせようとする――ときどきやり過ぎて怒られるけど。
そういうおにいちゃんだから、ネリーはハルのことが好きなのだ。
優しいおにいちゃんは好きだ。でも、その優しさがあの綺麗な人に向いているのだと思うともやもやする。今までこんなふうに感じたことはなかった。人に親切にするハルを見ても、優しいおにいちゃんを誇らしく思うだけだった。
考え、雰囲気が違うのだとネリーは気づいた。あの綺麗な人とハルの間に漂う雰囲気は、単なる友達同士のそれではない。もっと親密で、人には言えない秘密を抱えたそれだ。
あの二人の関係は、困ってるみたいだったから助けた、という程度のものではない。絶対に。幼いながらも女の勘で、ネリーはそれを見抜いていた。
「おにいちゃん……」
悩み始めたネリーを見て、レオナはちょっとばかり困った。もうほとんどの生徒たちが教室から出て行ってしまっている。自分たちも下校しなくては。
「とりあえず帰ろっか。うちでおやつ食べよう。後のことはそれから考えよう」
「うん」
促されて、ネリーは鞄を手に立ち上がる。
「やっと放課後か……」
ハルは疲れ切った様子で呟いた。
レキがばらしてくれたおかげで校内には様々な噂が乱れ飛んだ。
ムラクモは寮の施設を破壊したので退寮となった。そして、ハルは先の〝爆発事故〟現場において、偶然通りかかったムラクモに命を助けられている。行き場のなくなったムラクモはハルに命令し、ムラクモに借りがあるハルに拒否権はないのであった――レキが伝えた(つまりはアムシェル議長が用意した)ムラクモとハルの同居の理由はこのようなものだった。
生徒たちはそんな話は頭っから無視して好き勝手な噂を振りまいた。朝には「ハルはムラクモの弱みを握って言うことを聞かせているのだ」という話だったのに、昼過ぎには「ハルは美少女に罵られて踏みつけられると興奮する変態なのだ」に変化していた。どうしてそうなる。
地下居住区には娯楽が少ない。だから、ちょっとした事件でもすぐに広まってわけの分からない盛り上がりを見せる。
ハルもどちらかといえばそうした騒ぎは大好きで、積極的に煽っていく方である。が、自分が騒ぎの中心にされるとさすがに疲れる。
ともかく一日が終わった。ハルはすぐに帰宅することにした。
初等学校は軍学校よりずっと早く終わる。
帰宅したら先にネリーが帰ってきているのではないか。ハルはそう期待していたのだけれど、ネリーはまだ帰宅していなかった。
帰り道で買った、仲直り用のプリンを冷蔵庫にしまい、リビングのソファに座る。
「ねえ」とムラクモが言った。「あたしは出かけてようか? あたしがいない方が、話しやすいんじゃない?」
「そういうわけにもいかないだろ」
ムラクモに席を外してもらうことは、ハルも一度検討した。けれどもそれでは意味がない。ムラクモの同居をネリーが納得しなければ――ネリーがムラクモを受け入れなければ、どの道うまくはいかないのだ。
「……」
ハルはソファに座り、ムラクモは引き戸の前に立っている。
何の会話もなく、重い時間が流れる。
壁の時計が六時を告げた。
「変だな……」
呟く。ネリーはまだ怒っていて、今日も友達――レオナの家に泊まるつもりなのかもしれない。だがそれならそれで連絡があるはずだ。ネリーにその気がなくても、レオナの親が、ハルに電話を寄越す。だがそれすらない。
ハルはこちらから連絡してみることにした。個人用端末で電話をかけると、すぐにレオナの母親がでて、そして、信じがたいことを言った。
『ハル君ね? どうだった。ネリーちゃんとは仲直りできた?』
「え……」
『もしもし? あら? 通じてないのかしら? もしもし?』
レオナの母親が何度も呼びかけてくる。ハルは自分の声が掠れているのを自覚した。
「ネリーは、まだ、帰ってきてません」
『えっ』今度はレオナの母親が絶句した。『そんなはずはないわよ。ネリーちゃん、ちゃんと私にあいさつしてから帰ったもの。「お世話になりました、借りた服はちゃんとクリーニングして返します」って。ハル君、ネリーちゃんをちゃんと育ててるんだなあって、おばさん感心したのよ。だから私も、おにいちゃんと仲直りできるように祈ってるわよ、って送り出して』
「いつですか? ネリーがそちらを出たのは」
『いつだったかしら。学校が終わってからそんなに時間は経ってなかったと思うけど。ちょっと待ってね……ねえ、レオナー?』
呼ばわる声。何かやりとりがあって、
『もしもし? おやつは食べていかなかったっていうから、多分三時前。遅くとも三時ちょっと過ぎだと思う』
「三時……」
『ネリーちゃん、本当に帰ってきてないの?』
ハルはうなずいた。それから電話なので相手に見えないと気づいて、「はい」と答える。
「他の友達のところに行くようなことは……」
『それはないと思うわよ。少なくとも私には、自分の家に帰るって言ったし、嘘をついているようには見えなかったし』
これは信じていいだろう。子供は隠し事がうまくない。ネリーは特に嘘が下手だ。
ではネリーはどこに消えたのだろう。
どうして帰ってこないのだろう。
『もしもし? ハル君? ハル君?』
呼びかける声がやけに遠くに聞こえる。
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