第9話 黄空の日常、食堂
昼時、黄空ひたきは社員食堂へと歩を進めた。
黄空の昨日の遭難がどこまで知れ渡っているのやら、目線が無数にくる。
覚悟していたことだ。
それでも普段は使わない社員食堂を選んだのはある人間を捕まえるためだった。
「
「あれ、黄空さんだ。めずらしい」
黄空の探し人、犬生
犬生絆はキューブヒルズ出身の研究者だ。
現在はパナギアエリクシルの製品開発部にいる。
黄空とは同期であり、いっしょに新人研修を受けた仲であった。
出身も所属も違うふたりではあったが馬はなぜかあい、たまに一緒にご飯に行く。
「こんにちは、お向かいいいですか?」
「こんにちは。どうぞどうぞ。ああ、噂で聞きましたよ。昨日宇宙港にいたんでしょ? 大変でしたね」
「ええまあ、私は星間線を使っていたんで、大変だったのは帰りの
「ああ、爆発は銀河間線の方でしたね。ニュースで動画も見ましたけど地獄絵図でしたねえ。なんかもう直接関係する職についてる人のことを思うと気の毒で仕方ないです」
「いやまったく」
「私がその立場なら泣いてます。出社拒否です」
「……いや私はそこまでは」
どうだろう。そうだろうか。
「で、私に何か御用なんです?」
「元天地博士ってご存知ですか?」
「おー?」
犬生は何故その名を知っているのかという顔をした。
「元って元通りの元で元ですよね?」
「そうです」
「そして天地は天地開闢の天地?」
「それそれ」
「知ってます知ってます。元家と言えば親子そろってキューブヒルズで成功をおさめたというめちゃ珍しい例ですからねえ。しかも親子が別分野で」
犬生絆は記憶をたどるように視線をさまよわせた。
「うふふ。私みたいに親からのプレッシャーでキューブヒルズから逃亡し一般企業に勤めちゃった落ちこぼれ研究員からしたら、頭がおかしいなあって感じのお家ですね。で、知ってますけどそれが何か?」
「元天地博士の研究って犬生さん説明できます?」
「うーん」
犬生はとうとう箸をおいた。
「あれですよね、光加速分野。私も専門外ですからあれなんですけど、一般教養として論文は読んだことありましたよ」
「薬学分野にも応用されてましたよね?」
「それはそうですけど限定的ですね。主流にはほど遠い。どうしても輸送のために最先端設備のリソースが割かれちゃうから。光加速分野の応用での研究は遅れに遅れている現状です。キューブヒルズでなら研究も進むでしょうけど、今のとこ専門でやってる人はいないはずですね」
「今回のこの宇宙港での爆破のせいで余計にそうなるものでしょうか?」
「いやいや研究全体から見ればあんなのはね、湖面の落ち葉みたいなものですね。ちょっとざわつきはしますけど何かが劇的に変わったりはしませんよ」
「そういうものですか」
「さて、それで黄空さんが聞きたいのはどちらですか? 本題は光加速分野? それとも元天地?」
「本題は元天地、ですね」
「オーケーです」
ラーメンの器すら横に置き、犬生は滔々と語り出した。
「昔々、元天地には父がいました。元
「……地球考古学?」
「ええ、その怪訝そうな顔はとても正しいです。キューブヒルズでは珍しいですからね。こういう母星に関する系の学問はもちろん全天第一恒星系トランスパレンシー系が一番盛んです」
トランスパレンシーは全天随一の大恒星系だ。
全天連合の本拠地が置かれている。
「トランスパレンシーをのぞけばその他、人類が地球から飛び出したとき第1に移住した星々が主なフィールドですものね。キューブヒルズなんて全天の歴史から見たら新しいところで何を思って地球考古学って感じです」
心底疑問だという風に犬生はしかめ面をして見せた。
「ええ。しかし元大為爾が何を思ってキューブヒルズに拠点を置いたかは分かりませんが、元大為爾はキューブヒルズで一定の成果を上げていました。どうやって? って思いますけどまあ普通にフィールドワークだと思います。日系人らしく日本に関する研究が多いですね。そちらの論文は専門外も良いところなので読んではいません。たしか読み物ふうにまとめたのが何冊か刊行されていますから気になるなら読書家の黄空さんにはそちらをおすすめいたします」
「なるほど」
「しかし元天地はそれら元大為爾の功績を継いでいません。その理由は知りません。どこかで語ったりインタビューを受けたりしたことがあるかもしれませんがそれもまずないでしょう。そんな時間のごく潰しをキューブヒルズの研究者がするとも思えませんからね」
時間があれば研究に費やす。熱狂的な研究者のイメージそのものが当てはまるのがキューブヒルズの研究者というものだ。
「光加速物理工学はこの全天社会の根幹を支える唯一無二の研究です。メジャーどころと言えばメジャーどころかもしれません。天地博士の主な業績はブラッシュアップです。というか光加速物理学は母星脱出時に研究され尽くしていてブラッシュアップくらいしか誰だってやることはありません。それでもキューブヒルズに居続けるだけの研究結果を上げているのは大した物だと思います」
犬生はそう太鼓判を押した。
「恒星間船に備え付けられている緊急用光加速ワープシステムの小型化に応用され、恒星間船の軽量化小型化に期待を寄せられています」
人類が星々を股にかけるようになったこの全天時代においても、光加速転送技術を用いた恒星間ワープは、大規模な施設と高出力エネルギーを必要としている。
それの小型化は全天に影響を及ぼす発明だろう。
黄空はアメツチデバイスを思い浮かべる。
あの小ささで光加速転送を可能としているというのは全天ノーベル賞ものだ。
「すみません犬生さん、私その光加速転送技術についてよく分かっていないのですが……」
「ええっとですねえ、空間に光干渉物質を高密度で浸して、そこに光変換壁でコーティングされた船ないしは転送物を浮かべると光速の中に光速が発生し、光加速度が倍加され一瞬で位置転送が可能になるのです」
「……」
難しい。分からない。
「うーん、巨大コピー機なんですよ、要は。コピー時に高エネルギーにさらされたコピー元は消去され、コピー先に出力されているんです。で、コピーのタメの情報は光よりはやく転送されるのでコピー先は遙か彼方でも良いのです。相対座標軸は明確である必要はありますが」
「なんというか……まるで
「沼で雷に撃たれて死んだ男の横で沼の泥が驚異的な化学反応を起こし、死んだ男の記憶をすべて持ち越した男そのものになった場合、その沼男は元の男と言えるのか? という思考実験ですね。でもこれは驚異的な化学反応ではなく理論に基づいて形成される我々自身ですよ?」
犬生は何の問題があるのか分からないという顔をした。
黄空は頭が痛くなったが、何度も銀河間線を使っているすでに沼男である自分の連続性を実感していることで手打ちとした。
「……ところで犬生さん、どうしてそんなこと聞くのか? って言わないんですね」
「黄空さんが言いたくなさそうなので、聞きません」
さらっと犬生は言った。
「そうですか、ありがとうございます。犬生さんは優しいですね」
「えへへ。こんなことで褒めるのやめてくださいよ黄空さん。照れるじゃないですか。私とあなたの仲でしょう?」
「私とあなたの仲だからこそ褒めるのですよ。知らない人のことはわざわざ褒めません」
「うふふ。そうですか。まあそんなんだから、空気とか気持ちとか読めるから、優しいなんて言ってもらえる人間だから、私はキューブヒルズから出ていく羽目になったんですよねえ」
犬生絆はどこか残念そうな言い方をした。
しかしむしろその表情は「出ていく羽目になった」ことを喜んですらいそうであった。
キューブヒルズとは彼女にとってはそういうところなのだ。
「さてそろそろお昼休みはもおしまいですね。私としては延長もやぶさかではないし可能ですが営業部はそうも行かないでしょう?」
「ええもう午前中だけで上半期分の仕事をした気分です。ヤバいです。ちょっと忙しさが想像の埒外です」
「そうでしょうともでしょうとも。どうか頑張って。私たちがいくら作り上げてもあなた方がいなければ死蔵どころか量産もされないのがお薬ですから」
「頑張ります。失礼します。改めて本当にありがとう犬生さん」
「どういたしましてごきげんよう黄空さん。落ち着いたらまたご飯に行きましょうね」
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