桐壺 その10


原文

 内裏より御使あり。三位の位贈りたまふよし、勅使来てその宣命読むなむ、悲しきことなりける。女御とだに言はせずなりぬるが、あかず口惜しう思さるれば、いま一階の位をだにと、贈らせたまふなりけり。これにつけても憎みたまふ人びと多かり。もの思ひ知りたまふは、様、容貌などのめでたかりしこと、心ばせのなだらかにめやすく、憎みがたかりしことなど、今ぞ思し出づる。さま悪しき御もてなしゆゑこそ、すげなう嫉みたまひしか、人柄のあはれに情けありし御心を、主上の女房なども恋ひしのびあへり。なくてぞとは、かかる折にやと見えたり。


対訳

 内裏からのご使者がありました。桐壺更衣に従三位の位を贈るという内容の宣命を、勅使が来て読み上げるのは、悲しいことでした。女御とさえ名乗らせずに終わったのが、帝は心残りで無念とお思いになられましたので、もう一段上の位階だけでもと、ご追贈になられたのでした。このことにつけても非難する方々が多かったのでした。人の情理をお分かりになる方は、様子や容貌などが素晴しかったことや、気立てが穏やかで悪い印象を受けるところがなく、憎み難い人であったことなどを、今となってお思い出します。帝の非常識なご待遇のせいで、思いやりなく妬んだりしたが、人柄が素晴らしく情愛が深かった性格を、帝のお側近くの女房たちも皆で恋しがっていました。『ある時はありのすさびに憎かりき亡くてぞ人は恋しかりける』(生きている時は生きているのに慣れてありがたみを感じずに憎たらしく思ったが、死んでしまった今はあの人が恋しい)とは、このような時のことかと思われました。


訳者注

 『内裏より御使あり。三位の位贈りたまふよし、勅使来てその宣命読むなむ』について。内裏は皇居、あるいは帝そのもの。そのお使いとは、当然、次に出てくる勅使のことです。『宣命』は、簡単に言えば、帝のご命令のことです(勅命とかとどう違うのかは、長くなるのでここでは触れません)。その内容が『三位の位贈りたまふ』。本来は「勅使来て、三位の位贈りたまふよしの宣命読むなむ」とでも書くべきところですが、倒置法で強調しています。

 何故、三位を贈ることが強調されるような事件かというと、簡単に言えば、従三位が女御に与えられる官位だからです。つまり、桐壺更衣の待遇が女御並みになるということになる。

 女御と更衣の最大の違いは、「原則として、女御が産んだ子は皇族として残され皇位継承候補として扱われるが、更衣の子は臣籍降下させられるので皇位に就くことはない」ということです。勿論これはあくまでも原則で、例外もありますが(例えば宇多天皇は女御の子ですが、臣籍降下して源定省となりました。結果的には、関白藤原基経により貞保親王などを差し置いて擁立されますが。余談ですが、宇多天皇の名は源氏物語にも出て来ます)。

 光源氏が産まれてから、桐壺帝がそれまで身辺から離さなかった桐壺更衣のことを丁重に扱うようになったので、弘徽殿女御は光源氏が皇太子に立てられるのではないかと不安になったという話がありましたね。あれは、光源氏を立太子するためには桐壺更衣を女御にすることが必要だから、彼女の待遇が変わったのはその前触れではないかと考えたわけです。実際、『女御とだに』とありますから、本当は女御どころか更にその上、中宮にしたかったわけですね、桐壺帝は。

 つまり。桐壺更衣がもう少し長生きしていれば、女御になっていた可能性が高かった。その場合、光源氏が皇太子になったかも知れない。これはそういう事件なのです。

 勅使が来て宣命を読み上げるのが『悲しきことなりける』……悲しいことでした……というのは、存命中にではなく葬儀の場へ勅使が来ることが悲しいわけです。死んでから官位だけ女御なみになっても意味がないのです。生前の彼女を昇進させられなかった帝にとっても、光源氏を帝位につける野望が直前で果たされなかった按察使大納言家にとっても。それに加えて、純粋に桐壺更衣へ好感を抱いていた人々もいます。なので、誰が悲しんでいるかは諸説ありますが、ここでは誰ということではなく一般論であるとする解釈に従います。


 話を戻して。

 『様』と『容貌』はどちらも容姿という意味ですが、前者は身なりや態度などを、後者は顔だちなどを言います。その両方が『めでた』し(素晴らしい)というのですから、文句のつけようがありません。

 『めやす』しは「見た感じが良い」「見苦しくない」という意味。これを前者に解釈して外見が良いという意味に訳すものもありますが、その話題はもう終わっています。今は『心ばせ』(気立て、性質)の話をしているのですから、「性格的に嫌な印象を受けない」という意味だと考えられます。

 『さま悪しき』は直訳では「様子が悪い」ですが、この場合の悪いというのが常識外れとか見苦しいとかそういう方向であることは今まで見てきた通りです。


 そして、『翻訳に当たって』で触れましたが、「『なくてぞ』とは、かかる折にやと見えたり」。『なくてぞ』とは、「ある時はありのすさびに憎かりき亡くてぞ人は恋しかりける」(生きている時は生きているのに慣れて、ありがたみを感じずに憎たらしく思ったが、死んでしまった今はあの人が恋しい)という歌が元ネタですが、実はその元ネタが、誰がどんな状況で詠んだとか詳しいことが一切わかっていません。

 当時の人には常識でも、誰かが記録しないと忘れられてしまう。逆に言えば、忘れられずに残るようなものは、どれもこれもメチャクチャ面白いというわけですが。

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