桐壺 その9

原文

 限りあれば、例の作法にをさめたてまつるを、母北の方、同じ煙にのぼりなむと、泣きこがれたまひて、御送りの女房の車に慕ひ乗りたまひて、愛宕といふ所にいといかめしうその作法したるに、おはし着きたる心地、いかばかりかはありけむ。「むなしき御骸を見る見る、なほおはするものと思ふが、いとかひなければ、灰になりたまはむを見たてまつりて、今は亡き人と、ひたぶるに思ひなりなむ」と、さかしうのたまひつれど、車よりも落ちぬべうまろびたまへば、さは思ひつかしと、人びともてわづらひきこゆ。


対訳

 限りがあるので、慣例の作法で葬儀が執り行われるのを、母北の方は、自分も娘と同じ煙になって天に昇りたいと、思い焦がれて泣いていました。そして、葬送の女房の車を追いかけて乗り込まれて、愛宕という所でとても厳かに葬儀を執り行っているところに到着したお気持ちは、どれほどのものだったのでしょうか。「命のない亡骸を見ているうちに、やはり生きているものと思われるのですが、とてもどうにもならないことなので、遺灰になるのを見て、今はもう死んだ人なのだと、すっかり諦めをつけたい」と、気丈におっしゃっていましたが、車から落ちてしまいそうなほどに取り乱されるので、やはり思った通りだと、女房達も持て余しております。


訳者注

 『限りあれば』は、「(手厚く弔いたいが)規則があるので」「(いつまでも亡骸を側にとどめておきたいが)限度があるので」など諸説あります。例によって断定を避けます。

 『慕ひ乗』るは、「後を追って乗る」。当時、女性は葬儀に立ち会わないことが通常であり(女性差別という文句は、そういう宗教を作ったインド人に言って下さい)、北の方も一度はそれに従ったものの、耐えられなくなって追いかけたわけです。

 『愛宕』は愛宕山で、火葬場がありました。化野と言った方が有名でしょう。

 『ひたぶるに思ひなりなむ』は、直訳では「きっぱりとそう思うようになりたい」。要するに、もう死んだものと諦めをつけたい……ということですから、このように訳しました。

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