桐壺 その7

原文

 「限りあらむ道にも、後れ先立たじと、契らせたまひけるを。さりとも、うち捨てては、え行きやらじ」

 とのたまはするを、女もいといみじと、見たてまつりて、

 「限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり

 いとかく思ひたまへましかば」

 と、息も絶えつつ、聞こえまほしげなることはありげなれど、いと苦しげにたゆげなれば、かくながら、ともかくもならむを御覧じはてむと思し召すに、「今日始むべき祈りども、さるべき人びとうけたまはれる、今宵より」と、聞こえ急がせば、わりなく思ほしながらまかでさせたまふ。


対訳

「死ぬ時も一緒と約束したではないか。重病だとしても、私を残して里に帰ったり死んだりはできまい」

 と帝が仰せになるのを、桐壺更衣もとても悲しく拝見して、

「限りがある人生といっても別れる道は悲しいものです。私が行きたいのは生きる道ですのに。これが命というものなのですね。

 本当に、こんなことだと分かっていましたならば」

 と、息も絶え絶えに、申し上げたそうなことがありそうな様子ですが、とても苦しげで気力もなさそうなので、帝は、こうなったらどのようなことになるとしても見届けたいとお考えになられますが、

 「今日始める予定の祈祷などを、高僧たちが承っております。今宵からです」

 と言ってせき立てられますので、耐え難いと思いになられながらも、桐壺更衣を退出させなさいます。


訳者注

 『のたまはする』という敬語から、主語は桐壺帝。『限りあらむ道』=永遠でない道とは、つまり人生そのもの。それに『後れ先立たじ』(遅れたり先立ったりしない)ですから、「死ぬ時も一緒」ということになります。『さりとも』は「それにしても」で、『うち捨てては、え行きやらじ』の『行き』は「行き」と「逝き」の掛詞。合わせて、「重病であるにしても、私を捨てて行ったり逝ったりできまい」となります。

 ここで、桐壺更衣のことが『女』と表記されます。源氏物語では、身分を超えて一人の人間として描く時(ほとんどの場合、愛を語る時です)に、肩書ではなく「男」「女」という呼称を使用します。なので、桐壺更衣は、帝と更衣という立場を離れて本心を伝えようとしているわけです、が。死ぬと分かっていたらどうしたと言うのか。そして、彼女の歌の『命なりけり』とは、寿命が尽きることへの無念か、こういう運命だったという諦観か、人生への無常観か、死とはこうしたものかという一種の感嘆か、それとも他の何かなのか。結局彼女は深く語ることなく退場していきます。

 桐壺帝(『思し召す』という敬語から分かります)は、そんな彼女の最期を看取りたい……『ともかくもならむ』は「どのようなことになるのも」であり、死を遠回しに言っています。また、『御覧じはてむ』は、見るの尊敬語「御覧じる」+終わるという意味の「果つ」+意志の助動詞「む」で、「終わりまで見たい」……と思いますが、『今日始むべき祈りども、さるべき人びとうけたまはれる、今宵より』と急き立てられて非常に辛く思いながらも(『わりなく』。「わりなし」は、仕方がないなどと訳す説もがありますが、『ながら』に続くことから「耐え難い」という意味だと考えられます)帰らせます。『さるべき人びと』は、「立派な人達」であり、この場合は祈祷を引き受けた僧侶になります。

 帝を急き立てた人達というのが誰かは書かれていません。桐壺更衣のために祈祷をさせる側であること、そして整っていない文章から動転していることが示唆されるので……多くの貴族達は、桐壺更衣が死んでも喜ぶだけで動転はしない筈。ましてや彼女の無事を祈る理由はありません……、按察使大納言家の使いとする説が妥当でしょうが。断定できる材料はなく、また誰であれストーリーに影響しないので、原文通りどこの誰ともはっきりさせずに訳します。

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