後編

 かつてこの国には正義と云う物があった。

 人々は認識の齟齬や考え方の違い、また信仰の差異ゆえに、各々が持つ正義を衝突させ合っていた時代があったのだそうだ。

 しかし、2050年代からの技術革新による、事象観測装置と価値判断装置の著しい精度向上によって、それまで起きていた正義の衝突は急速に姿を消していくことになった。

 科学技術の発達は「正しい事象の観測」と「観測事象に対する正しい価値判断」を人々に提供、保証することができるようになり、彼等は己の中に正しさの基準を保持する理由が無くなっていったからだ。

 各々の持つ不完全な正義は、機械知性の提供する完全な正しさに取って代わられるようになった。

 当初、機械知性による正しさに反発を抱いていた人達も少数ながらいたようだが、あらゆる事柄において、保証された正しさに従えば成功し、従わなければ失敗することが理解されるにつれ、そのような声も聞かれなくなっていった。

 2080年代の初頭、政府知性から「価値判断装置を通さない自己判断の禁止」命令が下された時にも、人々の大多数はその命令を受け入れ、その正しさを賞賛した。

 最後まで機械知性による統治に反対していた反政府連合――既存の宗教団体や、様々な活動団体が、反政府の旗で寄り集まった連合――が、この命令に対し大規模な反対運動を行うも、観測された正しさを提示する政府知性に対し、心情的な、あるいは既得権益への執着のみで対抗していた反政府連合は、最終的に内部崩壊によってその正義を停止することになった。




 そして、2100年以降、つまり現代では、僕たちの誰もが出生時に摂取する、超小型の観測・判断装置により、「事実の観測」「観測した事実への認識」「認識に対する判断」のいずれについても、間違いや誤りを犯すことがなくなった。

 体内の装置は、僕たちの認識に自動的に干渉し、正しい観測、正しい判断を行うよう、常に僕たちに働きかけてくれている。他者との会話や議論についても、解釈の違いなどが起きないよう、お互いにとって最善となる解釈が常に提示される状態となるようになった。

 云うなれば、僕たちは、十全に正しく矛盾も無い存在に生まれ変わったのだ。

 そして僕たちはそれ故に、正義を世界に発露する機会を永遠に失った。

 誰もが十全に正しく、矛盾がない。そんな世界では正義の衝突を起こす必要など、全くもってないのだから。




「結局の所」

 と、事件の記事に再度目を落としながら、僕は口火を切った。

「正義と云う物は、正しさが絶対的に保証されていないからこそ発生し、存在するものなのではないかと、僕は思っている」

「ふむ」

「自分の中にある正しさの基準。――信念とでも呼べばよいのかな。それを、世界に向けて発信する行為こそが、正義なのではないかな、と」

 僕は話を続けながらも、正直な所、自分の述べているこの考えについて、全く自信が持てないでいた。

 、その正しさに沿っていれば何も不安にならないのに、と若干情けないことを考えつつ、それでも、僕は、僕の思ったことを言葉に乗せていく。

「その点において、この記事の彼は正義の人だ。自身の死を宣告された上でなお、己の信念を曲げなかったし、それを正しいことであると、世界へ発露したのだからね」

「ふむ。ですがこの時代、殺人は必ずしも正しい行為ではなかったですし、彼の心情はお世辞にも綺麗な物ではなかったと思われます。貴方は正義に、道徳的な、あるいは道義的な正しさは関係ない、と考えておられるのですね」

 少しだけ、意地悪そうな笑みを浮かべるマスターに、僕は力強く頷いてみせた。

「うん。そもそも、この時代は何が正しいかの絶対保証が無いのだから、その道徳や同義というのは、単に、多数の人の持つ正義、というだけの話だよね」

「その通り。正しさの保証とは、すなわち多数の正義によるものでありました」

 見てきたような言い回しで、マスターは首肯した。

「……しかし、それを聞くと、まるで祈りのようですね」

「祈り?」

 ええ、と僕の疑問に再度頷くマスターは、目を閉じて、宙を見上げた後、詩を諳んじるように静かに言葉を発する。

「『決して曲げられない信念があり、世界に向けた、かくあれかし、という理想があったが故に、そこに痛切な祈りが生まれる』 貴方の考える正義とは、世界に問う痛切な祈り、が最も近いのではないでしょうか」

 マスターのその言葉、その正義の形は、確かに僕の思い描いている物と一致しているような気がする。

「……マスターが詩人だったとは、知らなかったな」

「ただの受け売りでございますよ」

 僕の揶揄に、マスターはほんの少しだけ顔を赤らめ、こほん、と咳払いをした。

 しかし、痛切な祈り、祈りか……。

「この考えは、何か間違っているのかな」

「さあ。この老骨には何が正しいかなど、判断することはできませんからなあ」

 自信を持てない僕の表情を見て、愉快そうな笑みを受かべるマスターは、「ですが」と言葉を続けた。

「ですが、。この<瞑想室>では、考える事、それこそが大事なのですからね」




 さて、この喫茶店――正確に言えば百年以上前の喫茶店を模した<瞑想室>――は、正しく生まれた僕たちのために、政府知性によって作られた場所だった。

 体内摂取型の観測・判断装置は、僕たちを常に正しい道へと進める補助をするのだけれど、その補助を受けている状態が一定期間以上続いてしまうと、人の自我に致命的なダメージを与えることが、後々になってから判明したのだ。

 端的に言えば、一定以上補助を受けたままでいると、本体の方が活動を停止してしまう。正しくあり続けることにより狂ってしまう、というのは、少し皮肉な話にも聞こえるが、とにかく、政府知性は対応策を模索し、結果として作られたのが<瞑想室>だった。

 <瞑想室>と呼ばれる場所の中にいる限り、観測装置も判断装置も正常に働かず、僕達への正しさの補助は打ち切られる。

 更に政府知性は、<瞑想室>の中にいる限りにおいては、「価値判断装置を通さない自己判断」を許可する判断を下し、また少なくとも一月につき、半日程度、<瞑想室>に入ることを僕たちに義務付けた。

 つまり、正しすぎる僕たちに対して、少しだけの「間違いや誤り」を行うことを彼等は推奨したのである。




 半年ほど前のこと、はじめて<瞑想室>を訪れた僕に襲いかかったのは、世界から取り残されたような途方もない孤独感と、際限なく湧き上がる不安、そして致命的なまでの焦燥感だった。

 正しさから切り離されることはかくも厳しい物か、と僅かながらの理性は思ったものの、それもすぐに感情の波に押し潰され、僕はその時、大の男であるにも関わらず、みっともなくも泣き喚いた。

 知識はある。あるのだが、それを結び付け、組み合わせることができない。ぽっかりと空いたその圧倒的な虚無は、僕を打ちのめすには十分すぎる物だった。


 そんな、幼子のように泣き喚いていた僕を救ってくれたのは、この<瞑想室>の主であるマスターだ。


 与えられた知識には存在しなかった、この国の歴史と<瞑想室>の意義をゆっくりと説いてくれたのも彼であるし、また、正義の切り貼りを通じて、僕に「考える」ということの道を示してくれたのもまたマスターだった。

 であるので、僕はマスターに色々と頭が上がらないところがある。

 変なことを言って彼を失望させてしまうのではないか、と自分の考えを述べるときは常に気になってしまう事もそうだし――。

「ふむ。議論の切りも良い所ですし、珈琲のお替わりはいかがでしょうか」

「ああ、うん。頂こうかな……」

 ――個人的にはあまり好みでない、というより、明確に苦手なこの黒い飲み物を断ることもできずにいたのもそのせいだ。

 角砂糖を入れずとも、ざらざらした舌触りで口に苦みが残るこの飲み物に苦戦している僕の様子を、マスターは穏やかな笑みを浮かべ、静かに見ていたのであった。




 ちっ、ちっ、という微かな音が聞こえる。

 二杯目のコーヒーを何とか飲み終える頃には、柱時計の示す時刻も大分遅い時間になっていた。

「……ああ、もうこんな時間か。いつも、僕に付き合わせてしまってすまないね」

 結局、僕以外の客は来なかった。僕はやはり、マスター以外の人をこの場所で見たことはない。

「いえ、構いませんよ。私も楽しい時を過ごせました」

「僕も自分の考えを述べるというのは、疲れるけれど楽しかったな。まあ、所詮は正義のない時代に生まれた、正義のない男の戯言だけど」

 どこまで行っても、かつての時代の人たちが何を考え、どんな正義を抱えていたのか、想像することしかできない、と苦笑する僕に、マスターは「そんなことはございませんよ」と、少しだけ真剣な表情で首を振る。

「少なくとも、今回の議論で聞かせて頂いた、貴方の中に生まれたその想い、その考えは、貴方にとっての正義と呼べる物ではないでしょうか」

 その言葉に、僕はすこし虚を突かれたようになった。正しさの保証がある僕たちには、正義など持ちようがないと思っていたけれど。

「なるほど。……確かに、正しい、正しくないに関わらず、僕が考えて、僕の生み出した物であるのは確かだね」

 あるいはここが<瞑想室>だったからだろうか。この場所では正しさが保証されないから、それ故に僕たちでも正義を持ちうる余地がある、と。

「そうでしょうとも。貴方がそう考える限りにおいて、その正義は貴方の物だ。大事になさるとよろしいでしょうな」

 僕の言葉に、マスターは穏やかな笑みを浮かべ、深く頷いたのだった。




「楽しかった。また、一月後には必ず来るよ」

「ええ、お待ちしておりますね」

 マスターに見送られながら扉を開け、窮屈な出入り口をくぐって外に出た。

 からん、という扉に付けられた鈴の音が背後に聞こえると。


 ――その音と共に、体内の観測・判断装置たちが息を吹き返した。


「…………! ……! ……」

 急速に思考が正常化し、最適化されていく。

 正しくない僕は、十全に正しく、矛盾のない私へと変わっていく。

「……、……」

 私は扉を閉める。振り返り、暗くなった道を、私は歩き、歩いて、歩く。

「……」

 私は歩く。私は歩く。私は振り返る。大きな匣が見える。

 ちっ、ちっ、という音が、微かに聞こえる。

 私は振り返る。暗い道が見える。私は歩く。

 私は道の角を曲がる。私は歩く。

 音が大きくなる。私は歩く。

 私は歩く。私は歩く。

 私は――――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

かつて、この国には正義と云う物があった やぎまる。 @yagimaru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ