かつて、この国には正義と云う物があった

やぎまる。

前編

 私は歩く。私は歩く。私は歩く。

 私は道の角を曲がる。私は歩く。私は歩く。

 私は立ち止まる。私は見上げる。大きな匣が見える。

 私は歩く。私は歩く。小さな扉が見える。

 私は扉をノックする。中から音が聞こえる。

 私は扉を――――。




 ――――からん、と木製の扉に取り付けられた鈴が、軽やかに鳴る音が聞こえた。

 いつもの事なのだけれど、その音を聞くと、めまいというか、立ち眩みのような症状に襲われて、僕は一瞬、今どこに立っているのかが、分からなくなる。すぐに症状は治まるので、軽く深呼吸をしてから、扉を引き、先へと足を進める。

 頭を傾げて僕にはやや小さな扉をくぐり、模様の入った、色あせた絨毯の上を革靴で踏みしめる。硬い地面から柔らかい地面に変わる瞬間、ずず、と体が沈むような感覚になることが少し不思議だ。絨毯とはいえ、そこまで柔らかくはないのに。

 顔を上げ、僕は部屋の中を見回した。

 レトロ調というのか、まるで時を切り取って百年以上も止めたかのような、古い喫茶店の景色が僕の視界に入ってくる。

 昼間だというのに薄暗い部屋の右手には、年季の入ったように見える木製のテーブルが二卓と、それぞれに椅子が四脚ずつ備えられている。左手にはカウンターと、テーブルのそれよりも小さな椅子が五脚。奥まった所には、間仕切りで仕切られた、六人掛け位のテーブルと、革張りのソファが設えてある。

 全体的に古びているように見えるけれど、埃臭さは感じない。木が焦げたような、嫌ではない香りが漂っており、どこからともなく、ちっ、ちっ、という音が微かに聞こえた。




「いらっしゃいませ。本日はお早かったですね」

 馴染みのある声に、カウンターに目を移す。すると、奥の席に座り、本を読んでいた初老の男性が、穏やかな笑みを浮かべながらこちらを見ていた。

 白髪のオールバックに銀縁眼鏡で、ややくたびれたタキシードを着こなしている彼は、この場所のマスターだ。

 背丈は僕と同じ位あるのだけれど、僕と違って細身の体格。すらりとした立ち振る舞いは、創作物に出てくる執事を思わせる。

「やあ、マスター。確かに今日は早かったようだ。仕事が普段より順調に進んだからかな」

 カウンター奥の柱時計を見上げると、いつもの時刻よりも、二時間近く早いことが分かった。僕の言葉を受けて、マスターは何度か頷くと「それはようございました」と顔を綻ばせた。

「いつもの場所を使っても?」

「構いませんよ。今は、他のお客様もお出になりませんしね。いつもの品物も、用意してございます」

「ありがとう。まあ、人が来るようだったら退散するよ」

 僕は部屋の奥へと向かいながら、そうは言っても僕以外の人を見たことないなあ、などと考えていた。




 黒いスーツをハンガーに掛け、奥の間仕切りを越えると、六人掛けのテーブル――会議用の机だろう――の真ん中に座って、作業の準備に取り掛かる。

 左手に抱えていた肩掛け式の黒い革鞄から、クラフト紙でできた、大型の本を取り出して机に上に広げる。続けて、鋏と化学糊も同様に鞄から取り出し、本の脇に配置した。パラパラと本をめくり、白い無地の頁を開いた。

 視界の端に、白い光の筋がよぎった。

 今座っている奥のテーブルは、窓際の席でもあるので、分厚いカーテンの端から、昼間の日光が漏れてきている。まあ、作業をする上では気にならないだろう。

 ……ただ、視界の端を見ていたときにちらりと映る黒い髪の毛を見て、僕は自分の前髪が少々長くなっていたことに気が付いた。

 特段作業の邪魔にはならないと思うのだが、若干煩わしいかもしれないな。後ろ髪は元々伸ばしているし、そもそも束ねているので気にならないけれど。

「お待たせいたしました」

 僕が作業の準備を終えるか終えないか位のタイミングで、マスターは真新しい、灰色の紙の束を持ってやって来た。いつもながら絶妙なタイミング。

「待ってないよ、マスター」

「いえいえ。こちらでよろしかったでしょうか?」

 苦笑する僕に、マスターが渡してくれた紙の束は、新聞だ。様々なニュースがぎゅうぎゅう詰めに記載されている、紙製の文字媒体。誰もが一度は見たことがあるだろうし、知らない人はいないと思うけれど。

「それと、こちらも。よろしければお使い下さい」

 僕が新聞を受け取り、読み込みを始めようとしたところで、マスターは、丁度マッチ棒程度の大きさの、金属でできた黒いものを差し出した。

 ヘアピンだった。

 なんとまあ、とマスターの観察眼と気遣いに嬉しくなる。僕は「助かるよ」と感謝の意を述べた。

「気になっておられたようでしたので。珈琲は後ほどお持ちいたしますね」

 マスターはあくまでも柔らかく笑って、カウンターの方に戻っていった。

 僕は彼に重ねて感謝しつつ、マスターから受け取ったヘアピンで前髪を留め、作業の邪魔にならないようにした。

 全ての準備が整ったので、僕は、ここ半年ほど続けている、正義の切り貼りスクラップブック作りを開始した。




 新聞から、特定の記事を鋏で切り抜き、その裏に化学糊を擦り付けて、クラフト紙の本の無地のページに貼り付ける。静かな部屋の中には、相変わらず、ちっ、ちっ、という微かな音だけが聞こえる。

 今読んでいる新聞で取り扱われている記事の主流は、不正行為を糾弾されている芸能人や、企業の不正がマスメディアや他のソーシャルメディアによって叩かれる、いわゆる炎上案件といった内容のようだ。また、事件や事故の被害者を囲み、あたかも事件の犯人であるかのように問い詰めるマスメディアの記事もある。

「精が出ますね」

 不意に、木の焦げたような香りが強くなり、湯気の立ち上る黒い液体の入ったカップがテーブルに置かれた。傍らには、小さな白の立方体が何個も盛られたガラスの器とスプーン、白い液体の入った、陶器製の小さな水差しも一緒だ。

「よろしければ、どうぞ」

「……ありがとう」

 僕は作業を止めて、目の前の飲み物に相対する。マスターから差し入れられる、このコーヒーという飲み物は、僕にとっていまだに飲み方の定まらない天敵であった。

 考えても埒が明かないので、おそるおそる、白い立方体――角砂糖を、塊で5個ほどスプーンで掬って入れる。白い液体は今回は入れない。黒い液体に沈みながら形を崩す白い塊をスプーンで撹拌し、一口啜る。

「む……」

 僕はその一口で失敗を悟った。あきらかに甘すぎる。

 このコーヒーという飲み物に対して、僕はこれらの組み合わせを変えて何度も試しているが、正しい飲み方ができたことは一度もない。首を振りながらため息を吐く僕の様子を、マスターは優しげな眼差しで眺めていた。

「確か、前回はブラックをお飲みでしたね。あちらはいかがでしたかな」

 ブラックというのは、確か、角砂糖もミルクもなしの飲み方だったか。

「……あれは苦みが強すぎたよ。角砂糖、を入れると甘くはなるけれど、多すぎても駄目なのだね。試してみないと分からないものだ」

「ええ。是非、色々な飲み方をお試し下さいね」

 マスターは柔らかい笑みで頷いた。




 それにしても、とマスターは僕の作っているクラフト紙の本を見ながら、感心したような声を上げる。

「大分、充実してきましたね」

「そうかな」

 僕はその言葉に、何かくすぐったいような感覚が湧き上がった。

「そうでもないと思うけれど」

「継続は力、と申します。日々の活動の成果が、目に見える形になることは、嬉しいのではありませんか?」

 否定する僕に、マスターは柔らかく、諭すような口調で問いかける。

 僕はううむ、と唸った。確かに始めた当初はまっさらだったクラフト紙の本も、もう終わりの頁に近い所まで来ている。嬉しい、というよりは、もう終わりか、という感覚の方が近いかな。

「嬉しいか、と問われると返答に困るけれど、今、楽しいのは確かだよ。……今の時代はもう、正義と云う物がどこにも無いからね」

「ええ。こんな時代ですからなあ」

 正義がなくなった現代において、それでも正義を収集する。そんな切り貼りの作業は、元々はマスターが僕にやってみないかと提案してくれた物だ。

 持ち込まれた新聞の記事を読み込み、そこに正義が存在するかを考察し、切り取り、貼り付ける。ひとつずつの過程は単純だが、やってみると存外に面白い物だと、僕はこの作業を気に入っていたのだった。




「――それでは、今まで見ていた中で、これは、という正義はございましたかな?」

 しばらく、僕の作業をのんびりと見守っていたマスターから、何気なく問われたその質問に、僕はまたううむ、と唸ってしまう。

 正義の切り貼りをしていく中で、記事ひとつひとつについて漫然と正義の有無を考えてはいたけれど、その強弱や大小については考えていなかった。

「……ええと。この記事なんかは、どうかな」

 しばらく考えた後、僕は本をパラパラとめくって、1ページ全体に張り付けられた、大きめの一面記事を指し示した。

 やや情緒的な見出しのその記事は、年若い少年少女を狙った連続殺人事件の犯人に対して、裁判によって死刑が確定した、という内容だった。

 中年男性であったその事件の犯人は、裁判の席で、「自分よりも未来のある連中が、のうのうと生きているという事実が許せなかった」と述べており、刑罰として、死刑が当然である旨の論説も併せて記述されている。

「ふむ、ふむ」

 クラフト紙の本をマスターに渡すと、彼は少し重そうにしながらも本を顔の位置まで持ち上げ、眼鏡の位置を調整しながらも、立ったままその記事に目を通し始める。

「貴方はこの記事に、正義を見出されたのですね」

 マスターは記事を読み終えると、本をゆっくりとテーブルに置いた。

「ああ。……何か、間違っているかな?」

「いえ、いえ。大変によろしいかと存じます」

 不安に陥った僕は、マスターについ、間違っているかを尋ねてしまった。マスターはやんわりと首を振り、じっと僕を見つめる。

「……訊くまでもない事ではございますが、この記事の、どの辺りに正義を感じられましたか? どなたに、でも構いませんが」

 不思議な質問だな、と僕は思った。

 この記事の中で、強い正義を持っている人など、一人しかいないと思うのだが。

「事件の犯人に、だけど」

 僕の回答に、マスターは納得した、というように大きく頷いた。

「然様ですか」

「うん。正義が存在した時代。正しさの保証がない時代の人たちについて、僕は想像することしかできないけれどね。それでも、彼ほど強い正義を持った人はいないんじゃないかな」

 僕は、この記事を見て、再度断言してみせた。

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