扉の向こうは不思議な世界編

最悪な始まり(まえ)

青い鳥と結婚するんだって言って何人もの男性の求婚を断り続けていた美しい女性が、青い鳥をようやく見つけた頃には醜い老婆になってた。


 そんな笑い話でさえ羨ましく感じる17歳の夏。

 蝉はジワジワ鳴って、原色そのまんまの青が私達の頭上に広がっている。

 でも私の目の前には整然と並ぶ白い扉の列が並んでる。――いや、ちょっと黄ばんでるか。

 勿論「その場所」が特別涼しい訳でも無いし、「その場所」に居る事が誇らしい訳でも無い。

 トイレ掃除……私一人でトイレ掃除。

 どうしてこうなった。


 思い返せば約二時間前。

 クーラーなんて当然無いあのサウナみたいな場所で校長先生が穏やかーに

「何事も穏やかでいましょう」

って言った。

「ましてやトイレのドアを思いっ切りバン! と閉めてはいけませんよ。花子さんに連れて行かれてしまいますからね」

そう付け加えてほっほっほ、と笑った。

 その笑い声はシンとしたその空間を意気揚々とすり抜けて、奇妙に響いた。

 呆れているのではない。

 笑えないのだ。

 私達の学校にはマジの七不思議がある。その一つが「花子さんのお怒り」。ドアを思いっ切りバン! と閉めると花子さんが怒ってあの世に連れて行ってしまうというもの。

 ふざけてやった男子がマジで一日行方不明になった。次の日の朝、洋式便所の中に尻を突っ込んだなんとも恥ずかしい姿で気を失っているところを発見されたそう。目を覚ますと口を両手で押さえ、顔を赤くしたり青くしたりした後、おええと吐いたというオマケまで付いてる。

 だから誰もトイレ掃除をやりたがらない。やる時は皆静かに丁寧に掃除をする、もしくは嫌と言えない人に押しつけてトンズラする。

 その嫌と言えない人が「私」で、他の掃除当番はトンズラした。

 そうだこれだ。

 そうして、こうなった訳だ。

『ちょっと体調悪いから、先帰るね』

 そう言った女子の声が頭に響く。

 知ってるぞ、その後SNS見たら他の掃除当番の奴らと一緒に「カラオケなう」なんて投稿してたってこと。

「うー……」

 犬のような低いうなり声を喉の奥からせり上げてデッキブラシを水で一杯のバケツに潜らせた。

 ザバン、ガボガボ。

 ガショガショ。

「……! ……」

 文句を言おうと思って口を開くけど、くるみ割り人形みたいに馬鹿みたいに開くだけ。肝心のくるみはどこかに置いてけぼり。咀嚼できる言葉も無くて、口はどこか寂しかった。

 でも、それも仕方ないかと鼻からため息をこぼした。

 どこで誰が聞いてるか分からないから。


 ――浬帆ってさ、口悪いよね。

 小四の時、女子トイレの個室の中で聞いてしまったあの言葉。

「……」

 ガショガショ。

 ――ねぇ、奈々ちゃん泣いちゃったじゃん!

 中二の時、喋ってばっかでろくに話を聞かないあの子のほっぺたをピシャッとひっぱたいてやった。

 ごめん、あの時とてもすっきりした。

 でもそれと引き換えにどんどん口が重くなっていった。

 ザボザボ。ガシャガシャ。

 腕に力が入った。デッキブラシの先が乱暴に開く。――別に床が特別汚いわけじゃないけど。


「……どうせなら遠いとこに連れてってくれれば良いのに」

 噂の扉に視線が移動した。洋式トイレは花子さんの住み処だと言われている。

 バン!

 キシィイと悲しい音を鳴らして反動で扉が開いた。

 でも花子さんなんて出てこない。白い洋式トイレがそこにカーンとあるばかり。

 イライラする。

「生きづらい」

 バン!

「息しづらい」

 バン!

「……」

 バン! バン! バン!

 バン……!

 それでも変わらず、そこには白いトイレだけがあった。

 何かその陰でおかっぱ頭がニヤニヤしてる気がした。

「……何よ」

 足を後ろ向きに振り上げた。目標は50センチ目の前、白く輝くかっぱの住み処。

「いい加減にしないと蹴るけど」

 息が荒くなったりはしなかった。

 寧ろ逆で、喉の奥にしこりのように溜まった言葉達が渋滞してる。

 それでも思いを叫ぶことは出来ずに、こうやって隠れて……。

 また罪のない綺麗な物に無駄に傷がつく。

「……ねえ!」

 遂に振り上げていた足が行動に移った。

 扉の横の壁を掴んで軸とし、足先に残酷な程力を込めて、容赦なく無抵抗な白く美しい肌を狙う。

 爪先に鮮烈で鈍い痛みが走る。

 その痛みが今は欲しかった。

 生きている実感が欲しかった。

 足を大げさに振り上げる事はしない。膝下を思い切り振ることによって、より陰湿で多くのダメージを与えることが出来る。

 僅かだけど、快感が体を巡った。

 どす黒い感情が胸に溢れ出る。

 ――私の方が上。


 そう思った瞬間だった。


 爪先の鈍い痛みが急に消えた。

「え……」

 さっきまでそこにあったはずのトイレが無い。っていうか床ごとゴッソリ消えてそこには黒くて深い穴がどこまでもどこまでも続いていた。軸足の半分が穴に飛び出してる。

 ヤバい……!

「わ、わわ、わっ!」

 調子にのってガスガストイレを蹴っていた足の勢いを急に止めることは出来ない。

 そのまま体のバランスを崩し、前へ後ろへぶらりぶらり。

 扉の横の壁だけが頼り……! だったけど。

 ズッ!

 かかとが遂に滑った。ももの裏を穴の縁がすれて痛んだ。

「ッツ、あ、あ!」

 トイレの壁のタイルが凄いスピードで上に昇っていった。


「ヤァァァアアア!!」


 意識が途切れた。

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