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 その海を訪れたのは、全く、ほんの気紛れだった。


 ちいさな夕方の砂浜は艶やかで、夏も近いのに、もちろん人の気配はなかった。潮の匂いが漂っていた。歩くとローファーに砂が入った。波打ち際に立つ。淑やかな波が寄せていた。


「海は綺麗よね」


 振り返ると、女のひとが佇んでいた。


「夕方の海は特にそう。私、ここの砂浜、気に入ったわ。

 ――あなたも?」

 ここにいるのはわたしだけだった。この日も、そのひとのブロンドは、ゆったりと風に撫でられていた。


 背が高くて、外国のひとのようだった。なのに、言葉には淀みがなかった。


 そのひとは、わたしのすぐ傍にまで寄っていた。わたしは見上げていた。

 空色の瞳。透き通るような空色の。

 そのなかに、ちらちらと仄かな橙が、夕焼けを映したような橙色が瞬いているような錯覚を、わたしは覚えていた。


「ねぇ、ちょっと、目を瞑っていてくれるかしら」


 そのひとは、そう言った。


「怖がることはないわ。痛いことなんてないもの……」


 言われるがまま、わたしは目を閉じた。


 ひやり、首筋が氷で濡れた。ずうっと眠くなった。肩から、腰から、力が抜けた。けれども倒れなかったのは、そのひとがわたしの背に腕を回して、支えていてくれたからだ。

 

 目を開けるとそのひとはこちらを覗き込んでいて、妖し気で、どこか満足気な笑みを浮かべていた。


「私、吸血鬼なの」


 そう言い残して、砂浜からは人影が消えた。


 首筋に手をやると、たしかに、掌には僅かな血の点がふたつ並んで付いていた。


 砂浜は陰っていた。遠く、島なみだけが、夕陽に彩られて色濃くなっていた。振り返っても、とっくに誰の影もなくなっていた。蟋蟀が啼き始めた。


 わたしの足跡は、ひとりきり。


 氷よりも冷たかった感触だけ、ずっと首筋から離れない。

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