第43話 人喰い
突然現れたルキフゲをなんとか退くことができて、一気にみんなの緊張も解けた時だった。
一息つくために地上に降りた瞬間、ひゅん、と後方から冷気と共に何かが飛んでくる音がした。
すぐ近くに冷気を感じた時、僕の右腕に痛みが走った。
「痛っ……」
焼かれるような激しい痛みが腕から脊髄にかけてはしる。徐々に腕の感覚が失われ、右手が
氷の槍先が僕の腕を突き抜けていた。傷口から徐々に冷気が身体に広がってくるのがわかる。
振り返ると鋭い眼光を放つセシルが氷の魔法陣を展開していた。
「な……んで」
ほんの数分前まで一緒に戦っていたはずのセシル。
いつも微笑んでいる彼女はそこにはいなかった。
上目遣いで僕を睨みつけているこの視線、この雰囲気。
そうだ、これは最初にセシルに化けたグラン=グリモワールの雰囲気だ。
僕にとどめを刺そうと、複数の氷槍を生成しはじめたセシル。殺意丸出しの彼女に対して、アンリエッタが叫びながら向かっていった。
「セシルっ! いったい何してるのよっ!」
「ふん、くそ女が! いつもピーター、ピーターってうるさいんだよ」
悪態をつき唾を吐くセシル。
「なっ! せ、セシル……気でも違ったのっ?」
目を大きく開け、ありえないと首を左右に振っているアンリエッタ。これに対し、セシルは三日月のように口角を上げて不敵な笑みを浮かべながら、親友に向かって自分の背丈ほどの氷の槍を放った。
「ぼけっとしてるな! アンリエッタ!」
アンドレ少尉が叫び、幼なじみの援護のために前に出ると、氷槍を
「せ、セシル殿! いかがされたのか? ピーター殿たちは味方でござるぞ」
「敵だ。このグラン=グリモワール様にとっては……な!」
大人しく聡明な彼女はそこにはいない。少しずつその造形は崩れていく。そこにいるのは口は頬まで裂け、ぼさぼさの紅毛色の髪の悪鬼だった。
「ぐ、グリモワールだと! そんなバカな!」
大魔導書の名を聞き、とっさに剣をかまえる少尉。これに対し、アンリエッタは親友の変貌ぶりにうろたえていた。
「なっ! またなのっ、セシルはどこに行ったのよっ」
「アンリエッタ殿、以前も彼女が変わったことがあったのか?」
「学園にいたころ、セシルに化けてグリモワールが……」
「化けて? 本当にそうだったのか? アンリエッタ」
ミロン軍曹は得心がいったように頷く。
「ミロンさん、セシルは……」
「ああ。そんな子は最初からいない。グリモワール本人が人間になりすましていただけだ。高位の魔導書は人になれるからな」
言われてみれば合点がいくことが多かった、
最初にグリモワールと対峙したのは、僕が飛行術に失敗して怪我をしたときだ。あの事件を知っているのはアンリエッタとセシルだけだった。弱っていることを知っていたのはこの二人だけ。
最初からアンリエッタは僕のそばにいたけど、セシルは追試験以来近寄ってきた子だ。
いつも僕たちの様子がわかって、怪しまれない立場。それがセシルだった。
「裏切ったな……!」 僕はセシルだった悪鬼を睨みつけた。
「うははは、ゆかいゆかい。どうだ? 俺様に『好きです』って告られた感想は? ニセモノの女の肢体に迫られてどうだった?」
思い出したようにニヤニヤしながら、目を細めて
そう……僕なんかを好きになる女の子なんているはずがない。なんとか追試験を合格して、クラスのみんなと仲良くなったってこともあって、すっかりいい気になっていた。本質なんて変わらない。今もアイリーンや精霊たちに頼りっぱなしのダメな人間だ。
「くくくっ、絶望こそ美味だ。がけっぷちに立った気分のまま死ね!」
右の
「お前様、何をぼぅっとしておるのじゃ! しっかりせい」
アイリーンの声が叱咤する。
セシルがグリモワールだなんて冗談だろ? これはドッキリに違いない。そう思いたかった。
下唇をかんで半歩下がった。
グリモワールの爪先が鼻頭をかすめる。
ちっ、と舌打ちをすると思いついたかのように、にやりとした。
みるみるうちに悪鬼の形相から、可憐な少女の姿へその身を変えていった。
対峙していたのは
「ピーター君、私よ。悪いやつにそそのかされてるの。助けて……」
セシルの声でじわじわ間合いを詰めてくる。
目の前にいるのが、グリモワールだってことはわかる。でもその声と姿はセシルそのもの……。
混乱した。心も頭も。自分が今、何をするのかも判然としない。
「あ、あ……」
セシルの姿をしているモノへと、僕は手を伸ばしていた。
アイリーンやアンリエッタ、ミロンさんたちが一斉に叫びながら、近寄ってくる。
すべてがスローモーションに見えた。
セシルの形をしたものは僕を抱きしめると、そのまま鉤爪を腹へと食い込ませた。
「ばかもの――! しっかりせい」
してやったりと、ほくそ笑むセシルの姿をした魔物を尻目に、小さな身体で僕を抱きしめるアイリーン。視界の端にアンリエッタが泣き出しそうな顔をしているのがみえる。
僕と一部を共有している炎の精霊女王も苦しみながら、身体から出てきた。
「しっかりっ! ピーターぁ……」
うっすらと涙を浮かべて手を握ってくるアンリエッタ。ミロンさんたちも心配そうに僕の傷のようすをみている。
あまりの痛みで声も出せない。無理に出そうとすると、ヒューヒューと空気が抜ける。寒い……。どんどん血が流れていく感覚がする。なにやら必死にフレイヤが温めてくれている。
「許さぬっ……! 絶対に許さぬっ!」
抱きしめていてくれていたアイリーンが怒りでブルブルと震えた。彼女の爪が突き刺さるくらい強く抱きしめられた。
無言でむんずと顔を両手でつかむと、いきなり彼女は僕の唇を奪った。エアとの接吻とは違い、逆に生気が抜けていくようだ。
みるみるうちに小さかった体が大きくなっていく。胸もお尻も大人の女性のように膨らみ、頭にはアラベスク文様がついたフェロニエールをつけていた。
大人の姿になったアイリーンは立ち上がると、僕を傷つけたものを睨みつけた。
「ぬ! 本来の姿を取り戻しただと?」
少女の姿を模していたものが、再び悪鬼の姿へと戻っていく。
「許さぬっ、グリモワールよ」
「何をだ? その異世界人に肩入れしてどうしたというのか。また
くくく、とアイリーンを嘲笑する。
表情を変えることもなく一歩一歩、悪鬼に迫っていく。
「ち、近寄るな……。私を喰らうつもりか? 異世界人に肩入れしても意味はないだろう? な、アイリーンよ。同じ魔導書同士ではないか」
何も言わずまっすぐにグリモワールを睨みつけ、その両肩をしっかりと掴む。ひぃ、という小さな悲鳴がした。稀代の大魔導書と呼ばれたグラン=グリモワールはすっかり戦意を失っていた。
「儂は決めたのじゃ。もう二度とあやまちは犯さない。たとえ異世界人であろうと、この世にただ一人だけ儂を大切に想うものがいればいい……」
グリモワールに説いたというより、自分に言い聞かせるように呟く。
そしてアイリーンは紅色の唇から鋭い歯を剥き出しにして、悪鬼の頭に突き立てた。
ぎゃああ、というグリモワールの悲鳴が森にこだまする。
遠のく意識のなか、べちゃべちゃという血が流れる水音と、断末魔をあげる男の様子を呆然とアンリエッタたちの姿がみえた。
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