第28話 口から注入? 何言ってるんだ、アンリエッタ

「こ、今夜は寝かさないわよっ」


 なにやら新婚初夜のようなことを口走っているのは、アンリエッタだ。

 まっ赤になって言うなよ……。こっちも恥ずかしくなるだろ。


 後期試験の日程が発表になったのは、昨日のことだ。試験まであと五日ある。そこで女の子同士で決めたのは、マンツーマンで交代で教えるって方法だ。


 学園の生徒じゃないリーンやエアは、それぞれ得意分野で指導するって、鼻息が荒かった。

 魔法に長けたリーンは理論と数学を教えるって言っていた。問題はエアだ。彼女はあまり夜、長く起きれない。

 ただエア本人としては、精霊エレメントが試験範囲だったため、どうしても教えたいって思ったらしい。


 で、最初の夜がアンリエッタだ。

 他の連中はそれぞれ自分のことをしはじめた。

 うるさくないだけいいかな……。


「ほらっ! 教科書開きなさいよっ。げっ、あんた、ちっとも読んでないでしょっ」

「え? どうしてばれた?」


 うう。一番うるさい奴だった。どうしていつもこうなんだ?


「……穴埋め問題って、たいてい教科書のこういうとこから出るのっ」と、太字になっているところを指さした。


 太字になってるのは用語とか公式だ。


「ほらっ。あたしのを見てよっ」

「げ! 何これ。線ばっかり引いているじゃないか……」


 彼女の教科書には大切な所に線ばかりじゃなく、びっちりとメモが書かれていた。


 こんなに勉強してたのか。


 前から頑張ってるとは思っていたけれど、これほどだとは思ってなかった……。


「じゃ、ここを音読ねっ。ちゃんと声を出して読みなさいっ」


 速攻で容赦なく指示がきた。ちょっと尊敬して損した。


「読んで意味あるの? こんなの」

「あるに決まってるじゃないっ。百回も読んでみなさい。頭に入るわっ」

「ひゃ、ひゃっかい?」

「何よっ文句あるっ?」


 すごい勢いで顔が近づいてくる。

 彼女の甘い香りが鼻をくすぐる。いつも見慣れた顔が、なんだかとても輝いてみえる……。


「ちょ、ち、近いって!」


 なんだか気恥ずかしくなって、思わず顔を背けてしまった。

  

「ほら、読みなさいっ!」

「わっ! や、やめろよ。アンリ!」

「ダメっ!」


 教科書を僕の顔に無理矢理押しつけてきたのだ。

 

 インクくさい……。

 さっきのいい香りがぶっ飛んでしまった。


 ★★★★★


「ほらっ! そこで公式を使うなっ」

「じゃ、どこで使うんだ」

「適材適所って知らないのっ? 意味もなく当てはめないで」

「そう言われても……」


 はぁあ、とため息をつき、もちゃもちゃと頭を掻くと、彼女は席を立った。


「どうしたの? アンリ」

「休憩よっ。ちょっと休みましょう」


 た、助かった。もうのどがカラカラだ。

 アンリエッタも一緒に音読しているから、さすがに疲れたんだろう。

「どう? 少しは頭に入ったかしらっ?」


 なんだかきらきらした瞳で僕を見つめている。そんなに期待されても困るんだけど。


「そ、そんなまだわからないよ。実際に問題解いてみないと……」


 正直に困った顔で首を横に振ると、彼女は納得したようにうなづいた。


「そりゃそうよねっ。あ、あたしも喉、渇いちゃったっ。お茶入れるわねっ」


 僕だけじゃなかった。彼女も疲れたんだ。ちょっと申し訳ない気分になる。

 そう言うが早いか。アンリエッタはお茶を入れて、こちらのテーブルへと持ってきた。


あつっ……!」


 ちょっとバランスを崩したかと思ったら、熱いお茶がこぼれ、彼女の手にかかった。一気に体のバランスを崩して、そのまま僕の方へと倒れ込んできた。


「わ、ちょ、ちょっとアンリ……」


 お茶のしぶきが僕のズボンや床を濡らした。それと同時に倒れてきた彼女の体の体温を感じた。


 むにゅ、むにゅむにゅ……。妙に柔らかくって弾力があるものが、手のひらで踊る。


「きゃっ。そんなところ触っちゃ、ダメだってばっあ

 

 え、え? ダメだっていうわりには、ぐいぐい押しつけてくるんだけど。

 しっとりした指先が埋もれていく感触と、鼻をくすぐる甘酸っぱい香りに頭がクラクラしてきた。


「ダメよっ……」


 なんだかアンリエッタの様子が変だ。いつまでもどかないし、目も潤んでいる。

 膝の上に上半身を預けながら、自然と彼女の腕が僕に巻き付いてきた。


「ねえ……ほんとは誰が好きなの?」

「……」

「なんで黙ってるのっ? あたしじゃダメなのっ?」

「さっきからおかしいぞ。アンリらしくない」


 いつものことだったら、胸に触ってしまった段階でアウトだ。

 そんなことをしたら、即座に必殺平手打ちが頬に炸裂する。


 それがどうしたもんか。

 猫が膝の上で甘えているよう。


「ねえ……。あたしのこと好き? どうして視線をそらすのっ?」


 戸惑う僕に上半身を起こして、しなだれかかってくると、僕の両頬をぐいっと両手ではさんだ。


「……しちゃおうかっ? キス……」

「ちょ、ちょっと勉強は……」

「これもお勉強っ……直接、口で注入してあげる」


 ちゅ、注入って何を……。


 どきまぎしているうちに、ゆっくりと彼女の瞳が閉じられ、薄桃色の唇が少しずつ迫ってくる。

 そんなに迫られたら、僕だってがまんが……。妙にのどが渇く。ごくりと唾を飲み込んだ。


「……そこだぁ! 押し倒しちゃえぇ」


 小さな声が上のほうから聞こえた。


 不安になって、ちらりと上を見てみると、天井裏からエアがのぞいていた。


「わっ! エア! い、いつから見てた?」


 とっさにアンリエッタをはねのけると、「きゃ」、と小さく悲鳴をあげて、彼女は床に転がった。

 ごめん、と手を差し伸べながら、天井裏のエアをにらみつけた。


「残念。てへ」


 にま、と微笑むと、エアはアンリエッタの肩にとまった。


「せっかくチャンスだったのにねぇ」

「……うん」


 精霊に耳打ちされても、けだるそうに返事するアンリエッタ。やっぱり様子が変だ。いつもの幼なじみじゃない。


「チャンスって。もしかして、エア……。アンリに何かしたの?」

「え? な、何も。ちょっと景気づけに秘蔵のお酒を……」


 たじろぎながら、アンリエッタの後ろに隠れようとする風精霊に少し怒りを感じた。


「お、お酒だってえ! エア、アンリにお酒を飲ませたの?」

「そ、そんな大きな声出さないでよぅ。だって寝ないで頑張るって言ったから、強壮効果がある薬酒をあげただけだからぁ」


 強壮効果だって? それって媚薬なんじゃ。

 

 つい最近、魔法薬学の授業で、精霊が持ち歩いている薬の多くは、魅惑チャームの効果や異性を惑わせる効果のものだと学んだばかりだ。

 彼らが他の種族と円滑に関係を持てるように。と考えられた薬だと教わった。そりゃ相手を魅了すれば、普段は小さい精霊たちにとっては安全が保証されたようなものだ。


 授業中はそれで納得できていたけれど、目の前で使われるとは……。


「アンリ、ほんとに薬酒を飲んだの?」

「うん」


 えへへ、とだらしなく笑いながら応える。すっかり酔いが回ってるよ。


「どうしてなの?」

「だってさぁ。あたし、もっとピーターに近づきたくって、この機会にたくさん……ういっく」


 ふらふらしながらソファーに倒れ込むと、アンリエッタはそのまますぅすぅと寝息を立てはじめた。


 同居人が増えたせいか、アンリエッタと直接話をする機会が減っていたのは確かだ。

 気を使う彼女のことだ。きっとセシルやリーンたちへの遠慮もあっただろう。でも本当のところ、寂しくなったのかもしれない。


 なんていっても幼なじみだ。

 彼女の気持ちがわからなくもない。薬酒に頼ってでも、少しでも長い時間、僕と一緒にいたかったんだろうな。そう思うと、アンリエッタを責める気にはなれない。



「風邪ひくよ」と、寝てしまった彼女に毛布をかけてあげた。


 ★★★★★


「ところでエア……。寮内はお酒、禁止なんだけど?」


 当然のルールだ。

 だって僕らは学生だし、未成年だ。寮長にバレたら大変だ。


「あは、あはは。ご主人様、許して……」


 知らなかったとは言え、アンリエッタを酔わせた罪は重い。


「ダメ! ちょっと来て」


 すっかりしょげた様子で、僕の手のひらに止まる。いつものように明るく笑顔を見せることもなかった。

 

 僕の手のひらに水滴が落ちてきた。

 水滴のみなもとを目で辿たどると、風精霊エアだった。


 エアが泣いている。


 自分でも悪いことをしたって思ってるんだろう。ボロボロと大粒の涙で、僕の手のひらを濡らし続けるエア。


 これ以上、責めても意味ないよな。そう自分に言い聞かせる。


 うつむいてる彼女の頭を、指先で軽くこづいてやった。


「わあああん。ごめんなさい、ごめんなさい。ご主人様ああぁ。もうしません。だから嫌いにならないで! エアを嫌いにならないでぇ」

 

 途端にせきを切ったように、大声で泣きはじめた。


 そんなエアを優しくそっと撫でると、さらに彼女は僕の手のひらを涙で濡らすのだった。

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