第8話 三日月のなかのアイリーン

 夜、独りで長い回廊を歩いていた。

 眠れないから、と言うのもある。


 アンリエッタを心配させてるのは、とてもよくわかる。

 口には出さないけれど、セシルだって心配なんだろう。そうじゃなければ僕たちの部屋を訪れたりはしない。


 先生だって心配なのだろう。

 魔導書を捨てろって言ったのは僕の身を案じてこそだ。


 でも……。

 僕の左腕にある魔導書はそんなに悪いとは思えない


 回廊の手すりに頬づえをつき、夜空を見上げた。


「……アイリーン、ちょっといいかな?」


 満天の星のなか、左腕にいる魔導書を呼んだ。


「呼び出されると思っておったわい……」


 どうやらずっと待っていてくれたようで、すぐに応じてくれた。


「……あのさ、アイリーン」

「わかっとるわい。儂のことを疑ってるんじゃろう?」

「……」


 いや……。僕は彼女を疑ってるわけじゃない。

 だって魔法のことじゃ世話になってるし。魔法以外のことでも、いろいろアドバイスだってしてくれる。

 ただ本気で僕のことを心配してくれているアンリエッタに、これ以上迷惑をかけさせたくないんだ。


「ううん。僕はアイリーンを信じてる。でもさ、そのルームメイトを安心させたくて……」

「フンだ。誰が他の女のためになんか……」


 何を勘違いしたのかアンリエッタのことを話した途端、急に不機嫌な口調になってしまった。プンプンしてるのが左腕全体から感じられる。

 

「ち、違うよ。彼女はルームメイトだし!」

「ふ〜ん、るうむめいと……ね」


 すうっと目を細めたような気がした。少し冷たい視線なのは気のせいじゃないだろう。

 アリエッタには何だかんだと、ずっとお世話になりっぱなしだ。それはずっと僕のそばにいる彼女自身、よく知ってることじゃないか。


「まあ、よかろう。いずれお前様に話そうとは思っておったところじゃ」

 

 そういうとうっすらと陽炎のように少女が姿をあらわした。

 月明かりに照らされたその姿は、年の頃は10歳ほど。背の高さは140cmくらいだろうか。

 漆黒の長い黒髪と透明感のある白い肌が、黒と深紅を基調としたドレスを際立たせていた。体型こそ幼くみえるが、眉が濃くキリッとした顔立ちをしていて、大人びたどこか妖艶な雰囲気を漂わせている。


「だ、誰だ?」

「お前様は儂の真の姿も忘れたのかえ? 情けないの!」


 少女は半眼で僕を睨みつけると、胸を張って腕組みをした。

 声そのものは魔導書アイリーンだ。

 でも目の前にいるのは、どう見ても幼女だ。

 

 僕が戸惑っていると、落ち着かない様子で彼女がつぶやいた。


「うぬぬ……。やはりこの胸か! この胸が悪いんじゃな……。はよう、ないすばでぃに戻りたいものじゃ」


 ぺったんこの胸を両手でさすり、口を尖らせながら小声でブツブツと文句を言う姿がなんとも愛らしい。


「あ、アイリーンなの?」

「フン! やっと気がつきおって!」

「で、でもその姿っていったい……」

「わ、悪かったの! 胸がなくって、ボッキュッボンでなくって! そもそもお前様の魔力量が足りんのが悪いのじゃ。もっと練習に励め!」


 身をよじらせながら、涙目になるアイリーン。


「わ、わかったよ。アイリーン。ちょっと頑張ってみるよ」

「ちょっとじゃないわ! お前様はもっともっと修業が必要じゃ。るうむめいとだけでは不十分なようじゃから、儂も今度は稽古をつけてやる。まったく……」


 ★★★★★


 文句を言いつつ、何だか嬉しそう回廊の手すりに乗ってスキップをすると、アイリーンはそのまま手すりに腰をかけた。


 夜空に浮かぶ三日月を見上げると、遠い目をしてこう告げた。


「儂が生まれたのははるか昔のことじゃ。いつだったかの……。忘れたわ。ま、人にはいろいろ言われてきた。確かに人喰いなどとも言われた。それは儂を使いこなせなかっただけじゃ。ただ……」

「ただ?」


 黒髪をかきあげ、闇夜のような瞳で僕を見た。


「今まで儂を使ってきた奴らと、お前様は違うのじゃ。儂が育てるつもりじゃ。だから安心せい」


 漆黒の髪が夜風になびく。

 うっすらと口角があがって、微笑んでいるように僕には見えた。

 

 艶やかな深紅の唇と白磁のような肌、そして見た目によらず凛々しい横顔。

 僕は思わずその横顔に見取れていた。


「なんじゃ? お前様。儂の顔をじろじろ見おって……。こういう胸の小さいおなごが好みかの?」

「ち、違うよ! ただ……」

「ただ……?」


 意地悪そうな目つきで僕の瞳を覗き込んでくるアイリーン。

 顔が近いよ……。彼女の甘い吐息が顔にかかる。


「……い、いや。なんでもない」


 さっきからアイリーンが一糸纏わず、光り輝くような白い肌を全部さらけ出してしまっている。いろいろと見えてしまってて、目のやり場に困る。見ちゃいけないんだけど、ついつい見てしまう。

 その姿がきれいだ、なんて面と向かって言えないよ……。恥ずかしいよ。


「ま、まっ赤になりおって、そんなに……」


 そういうアイリーンも小さなほっぺから耳先まで赤くなってる。可愛い。

 幼女趣味じゃないけど、思わず抱きしめたくなる。


「そ、それでな。儂からお願いがあるのじゃが……」


 上目遣いで僕を見つめて、組んだ指をもじもじさせる。

 何だろうお願いって。鼓動が早くなるのがわかる。


「べ、別にいいけど。何?」

「魔導書のままより、この姿でいた方がいいと思うんじゃが……。どうかの?」

「え? その姿で?」

「なんじゃ、不服かの? このほうが魔導書の形ではないから良いと思うのじゃがの‥‥」

「い、いや。そうじゃなくって‥‥」


 もう耐えられないや。目の毒だ。


「あ、あ、あのさ……は、は、裸のままじゃさすがに……」

「なっ!」


 途端にゆでダコのようにまっ赤になって、胸と股間を隠す身をよじるアイリーン。

 

「あ、ああっ‥‥。えっと、お前様。ずっと儂の、は、裸を見ておったのか?」

「ち、違うよ。アイリーン。見てないから! うん。見てない! 胸がちょっと膨らんでるところとか見てないからっ!」

「そ、そ、そうか。み、見てないのか……」


 何だか安心したような、ちょっと残念そうな微妙な表情をみせる彼女に、どうしたらいいか戸惑ってしまう。


 あ、さすがに寒いだろう。

 そう思った僕は、羽織っていた上着を細い身体にかけた。


「っ‥‥‥」


 アイリーンは全身を桃色に染めて、いきなり僕に抱きついてくるなり、耳元に囁いた。


「儂とお前様は一蓮托生じゃ。お前様は絶対守る。だから……」


 その時はアイリーンの体温と甘い匂いに、僕はメロメロになっていたのだった。

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