柚子の香り
周りを見渡した時に、気に入ったものしかない、と気づいたのは最近のことだ。
家具、家電。食器、衣類。ラックの中の本、DVD。
井澤梨花は、自分の稼ぎで、自分の好きなものに囲まれて暮らしている。
好きなものに囲まれているということは、同時に、気に入らないものを捨ててきた結果でもある。
梨花は幼い頃から、感情をむき出しにする人が大の苦手だった。
両親は正直で裏表のない人たちだったが、そのぶん喜怒哀楽が忙しく、梨花が運動会で活躍すれば感激して泣き、仲良しグループで一時的に仲間外れにされれば、揃って学校に怒鳴り込み若い担任を怯えさせた。
彼らの愛情は確かに感じるものの、その重たさに疲れるようになっていった。
家庭がそんなふうだからか、外でも穏やかな子ばかりと付き合うようになった。
そして気づけば、人の浮き沈みに巻き込まれないよう、良くも悪くも目立たずに生きる術を身につけてしまった。
大学進学とともに一人暮らしをはじめ、就職して自分で自分を養えるようになった。付き合う人も、自分で選べるようになった。
そうなるともう、無理に人といるのが馬鹿馬鹿しく感じる。
幸い、弟夫婦に子どもが生まれたので、両親の愛情はすっかり初孫に移り、自分は年一度、正月に顔を出すだけで許されている。
加えて、仕事を理由に、気の合わない人からの誘いはどんどん断った。
いつでも誰かの愚痴が流れてくるSNSの類は、すべて辞めてしまった。
残ったのは、気の合う数人の友人と、気に入って選んだ身の回りのもの。
仕事では、嫌なこともそりゃああるが、給料のためと割り切れば我慢できないことはない。
梨花には、もう何の不満もなかった。
月曜日。多くの社会人にとっては休み明けの憂鬱な曜日なのだろうが、販売職、シフト制でおもに月曜、火曜が休みの梨花にとっては、いちばん幸せな曜日である。
昼過ぎにのんびり起きだし、トーストをかじる。
最近の休日の楽しみは、昼からお酒を飲むことだ。
スマホでテレビ番組表を確認する。好きなドラマシリーズの再放送が、2時間後にある。
決めた。ゆっくり時間をかけておつまみを用意し、ドラマを見ながらお酒を飲もう。
食べ終えたトーストの皿を片付け、冷蔵庫を開ける。そこにあるのは、昨日買っておいた、水色に柚子模様のかわいらしい瓶。
はじめは、この瓶に一目ぼれして買ったのだが、飲んでみると味も香りも好みで、よく買うようになった。
おつまみは、まず、冷凍庫にあるサバのみりん干し。最近は骨抜き・味付け済みのものが買えるのだからまったく便利なものである。
他には…キュウリがあるから、これを割って胡麻油とラー油をぶっかけよう。
足りなくなったら、たしかミックスナッツがあるはず。完璧だ。
サバを焼き、キュウリを割って味付けをする。
食卓に運んで、テレビをつける。
瓶のふたをひねって開けると、柚子の香りが漂う。
まずはロック。小ぶりのグラスに氷を落として、お酒を注ぐ。
これこれ、この香り。
透き通った綺麗なお酒を口に運ぶ。
柚子の香りが、口から鼻に行き渡る。いや、鼻はグラスからだろうか。
甘すぎなくて爽やかで、でもじんわり熱くなる。
みりん干し、正解。甘辛い味が柚子の味ととても合う。
ロックで一杯飲み干すと、次はちいさな湯呑みを用意する。
湯呑みに注いで、レンジで軽く温める。
レンチンしても柚子の香りは健在だ。
温かい、やさしい香りをゆっくりと飲みこむ。
「あ゛ーーー……」
自分の声ながらおやじ臭くて、梨花は笑ってしまう。
キュウリをかじり、またゆっくりと湯呑みを口に。
テレビを見ながら柚子酒を味わっていたそのとき、スマホにメールが届いた。
「ご報告」
数少ない友人のひとりから、結婚報告のメールだった。
穏やかでユーモアのある、一緒にいて楽しい彼女の結婚は、素直にうれしい。
うれしい。めでたい。
柚子の香りが、また鼻につーんと来る。
結婚式には、喜んで出席するとして。
その後。
その後、きっと彼女の話題は夫の愚痴になり、子育ての悩みになり。
そうなったら、自分は彼女と疎遠になるのだろう。
それが自分の選んできた生き方だ。
少しぬるくなってきた、湯呑みの柚子酒を飲み干し、梨花は思う。
そして、空になった湯呑みにもう一度柚子酒を注ぎ、レンジに向かう。
気づくと目から、ぬるい涙が流れていた。
☆モデルにしたお酒は、サントリー「澄みわたる柚子酒」。香りが好き!
レンチンで熱燗もどき、おいしいですよ♪やりすぎると香りが飛びますが。
アルコール10%。
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